カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 ドイツ在住のピアニスト小菅優さんの演奏をFMで聴いて感銘を受け(第768話参照)、偶然にもその僅か1ヶ月後の9月21日に奥さまのご実家のある茅野の市民館で彼女のリサイタルが開かれることを知り、喜び勇んで購入したチケット。

 “ムジカ・タテシナVol.6”と題された「小菅優ピアノ・リサイタル」。
この日は、彼女が今一番惹かれているというベートーヴェンの「悲愴」と「熱情」、そしてシューマンの「幻想曲」というドイツ・ロマン派を代表する重厚なプログラム。副題に“作曲家の「心」と出逢うピアノの調べ”と記されたリサイタルですが、「月光」の第3楽章だけを聴いた印象でも、正にそんな気がします。また、チラシに載っていた小菅さんご自身のコメントから、このホールのピアノは、一般的なスタインウェイではなく珍しくベーゼンドルファーとのこと。
「ベーゼンドルファーのとても深い、重厚な低音の響きが大好きで、特にドイツ音楽のようなハーモニーを土台にした音楽で、低音から組み立てていくような音の響きを望んでいます。」と言われる小菅さんの演奏と共に、そのピアノの音色も(その違いが、素人にどこまで聞き分けられるかどうか不明ですが)楽しみにしていました。そして、悲愴の第2楽章のアダージョも・・・。
 当日は満席にはなりませんでしたが、結構松本方面からも駆けつけたお客様もおられました。客席の両脇には空席があり、信州ではなかなか聴けないお薦めのピアニストなのに勿体無いなぁ・・・。
演奏では、構成にも拠るとは思いますが、「熱情」が圧倒的。ブラヴォー(本来はブラーヴァでしょうか)の声も幾つか掛かりました。
茅野市民館の音楽専用ホールは僅か300席ですが、客席が扇形にステージを取り囲むような配置されていて聴き易いホールです。
我々の席は左側の前から5列目。ステージも低いので、ほぼ目線と同じ高さのピアノからも5m足らず。そのためか、ベーゼンドルファーの音質も手伝い、豊かな低音とffでの圧倒的な力強さが印象的。そして、それとは対照的な消え入るようなppの弱音。弾きぶりは、テクニックで唸らせるというよりも、むしろもっと内省的な演奏であり、彼女自身の器の深さ、大きさを感じさせてくれました。
 いつも悩んでは諦める(いまだに大林修子さんのサインをもらわなかったことを後悔しています)のですが、今回は茅野故に演奏後の買出しもなく、遅くなってもイイという有難いお言葉に、休憩前の熱情の名演もあって、小菅さんのCDを休憩時間中に購入し、コンサート終了後に生まれて初めて演奏者からサインをいただくことにしました。(CDは悩んだ末、ソナタ全曲録音中のベートーヴェンではなく、大好きなモーツァルトの20番でもなく、生の雰囲気に触れたくて、録音は些か古いのですが2005年のカーネーギーホールでのデビューコンサートのライブ盤をチョイス)
 後半のシューマン。ピアニストの中にはシューマンのピアノ曲を好む人が少なくないと聞きます。小菅さんが今一番惹かれるのはベートーヴェンだとFMでは仰っていましたが、その延長線上にシューマンもあるのでしょうか。静かな第3楽章に包まれ、シューマンの世界にどっぷりと浸かって聴いていました。
何度かのカーテンコールの後で、この日のアンコールは2曲。ショパンのエチュードから作品25の第1曲「エオリアン・ハープ」とシューマン「子供の情景」最終第13曲「詩人のお話」(「詩人は語る」との邦題もあり)。
小菅さんから、演奏の後での疲れも見せずに穏やかな笑顔でサインをいただいて、幸せな気分に包まれて、夕暮れ迫り屋外へ漏れる光が印象的な茅野市民館を後にしました。
 なお、休憩中に事務室で伺うと、“ムジカ・タテシナ”とは茅野市民館の企画コンサートとのこと。小菅さんに限らず、これまでも毎回著名な実力派(横山幸雄、上原彩子、有田正広&曽根亜矢子、森麻季他)を招いておられます。贅沢な良いホールですので、本当は年に数回あれば嬉しいのですが、聞けば、残念ながら年一回だけとのこと。であるからこその、300席というチケット数でありながら、実力派招聘が可能なのかもしれません。
その意味で来年の企画が楽しみです。イリーナ・メジューエワさんを呼んでくれないかなぁ・・・(と、アンケートには記入しておきました)。

 茅野市民館。2005年に完成した、JR茅野駅直結の複合公共施設で、大小2つのホールの他に市立図書館の分館やギャラリーも併設されています。
2階建て総ガラス張りの箱型のモダンな建物で、日本建築学会賞受賞(古谷誠章氏設計)とか。以前、東京への出張の折に茅野駅に停車する度に、ある意味では信州の田舎に“あるまじき”超近代的なその建物に見とれていましたが、中に入るのは今回が初めてです。

 駅の2階改札横のコンコースからも長いスロープで直結する通路がありますが、今回は反対側の駐車場に停め、1階から中に入ります。駅のホーム側は直線的な総ガラス張りですが、反対側(八ヶ岳側)は波のような曲面が印象的なモダンな外観です。
マルチホールと呼ばれる780席の主ホールは、演劇やコンサートなどに利用される多目的ホールで、今回は室内楽などの音楽専用のコンサートホール(小ホール)が演奏会場。扇形にステージを取り巻く僅か300席というホールで、何とも贅沢な空間です。入ってみるとコの字型の建物で、中庭は芝生。透明なガラス越しに駅のホームや山が見え、建物の大きさ以上の開放感を感じます。
 音楽用には、岡谷には音響が良く1400席を超えるメインホールを持つカノラがあり、ここ茅野にもと。諏訪だけが古い文化センターしかないので、何とも遅れていて見劣りがしますが、余計な税金を掛けず、周辺の岡谷や茅野、或いは松本まで聴きに行けば良いのでしょうね、近いですし・・・。
松本には、県文、音文、馬蹄形の市民芸術館と三つもあり、キャパも含めてそれぞれホール毎の特徴はあるにしても、地方都市としては多すぎます。
(特に最後に時の市長の“強い意志”で150億円を掛けて作った「まつもと市民芸術館」は、もしSKFのオペラ上演が無くなったら一体どうするんだろう、と些か心配になります。このホールがあるお陰と館長の串田さんの人脈で、演劇や平成中村座の歌舞伎が松本でも見られるという恩恵はありますが)宝の持ち腐れにならなければ良いのですが・・・。
その意味では、この茅野市民館は、最初から市民が「地域文化を創る会」で基本構想を練り、公開プロポーザル方式での設計コンペで設計者を選定し、その後も「基本計画策定委員会」が設計者と一緒になって内容の検討・変更を重ね(実に140回!とか)、現在も管理運営委員会が年度の運営計画を検討するといった、口だけでなく自らも行動するという本来の市民主体での地域の公共施設のあり方、作り方の良き手本なのかもしれません。

 既に館長には同じ北信の中野市出身の久石譲さんの就任が内定し、建設業者選定の入札もしているので「時遅かりし」ですが、(傍から見ていると、報道に拠れば)すったもんだの長野市民会館も同様な動きをすれば良かったのに、とヒトゴトながら思います(特に松本市民が色々言うと「ホットケ!」と怒られそうですが)。

 今日は、秋のお彼岸のお中日で秋分の日。さすがに、夏の猛暑が嘘だったかのように朝晩はひんやりとした空気が漂っています。先週17日の松本の最低気温は10℃。朝、霧の出る季節になりました。そんな季節の移ろいに合わせて、庭の草花もそろそろ“模様替え”でしょうか。

 こぼれ種で自然に生えた今年のルッコラ。ポット苗を購入するよりも大分早くから、サラダで何度も食卓に上ったり、家内が娘たちの所に持って行ったりと、随分楽しませてもらいました。
ポット苗だと(植える時期は、降霜を避けて早くても5月連休明け以降)、遅い時は晩秋に入り霜が降りてもまだ摘むことができました(バジルは降霜に弱くすぐに葉が黒くなって枯れてしまいますが、ルッコラは何度かの霜にも耐えます)が、今年はこぼれ種でかなり早くから自然に生えたせいか、或いは花芽を摘むのが追いつかず採り切れなかったことも手伝ってか、8月くらいから葉や茎が枯れ始め、秋までは持ちませんでした。

もし来年もこぼれ種に期待するとすれば、土を掘り起こすことが出来ません(地中に深く埋まると発芽しない)ので、今年は菜種のような鞘から小さな種を事前に採取しましたので、来春に土を耕して肥料を入れた後にハーブガーデン(と言っても2㎡程の狭小スペースです)に種を蒔こうと思います(或いはプランターに蒔いて、芽が出た後で間引きをして、或る程度まで苗を育ててからの植替え)。
ところが、先日枯れた株を片付けた所、以前種を採った時にでもこぼれたのでしょう。土の中からルッコラが幾つも芽を出していました。これから秋から冬に向かいますので、寒さの中でどこまで大きく育つか分かりませんが、そのままにしておいて、冬の前に育った分だけ収穫してみようと思います。信州では難しいかもしれませんが、果たしてルッコラの二期作なるかどうか・・・?。
 一方、盛りを過ぎた花を摘んだり雑草を抜いたりして、家内が丹精込めて世話をしているフラワーガーデンは、春植えの際に、今年は苗の数を増やしたそうで、初夏から初秋に掛けて、色々な花が溢れんばかりに咲き乱れています。傾斜を生かした段差毎に、黄色、白、赤、青系と色を区別して植えた花壇の中でも、黄色系の花を集めた花壇がとりわけ見事です。花が少なくなっていくこの時期に、まだ随分と目を楽しませてくれています。

 列島を縦断し、各地で大雨の被害をもたらしながら駆け抜けて行った台風18号。嵐山の渡月橋が流されそうに見えるほどに、濁流で荒れ狂うような桂川に驚きつつ、TV画面を眺めていました。でも「休みの日で良かった・・・」。

 明けて9月17日。台風一過で秋晴れの朝。
虫の知らせか、通勤路の三才山トンネルの様子が何となく気になって、早朝PCでライブカメラの映像をチェックしてみると、トンネルの上田側坑口がタダならぬ様子。ネットで道路情報を検索したところ、土砂崩れによる全面通行止めの文字。「えぇー!」(しかし、必要な情報に辿り着くのにかなり時間を要しました。高速道以外の一般道の道路情報は検索し辛く、地方公共団体はもっと工夫が必要です。結局、リンクが貼られていた松本市の公式観光情報ポータルサイトが一番便利でした)
まさか、TV画面だけではなく、自分の足元でも災害が起こっていたとは思いもよりませんでした。確かに松本もかなりの量の雨も降りましたし、昼前は暴風雨圏に入っての横殴りの雨で、多少リンゴも落ちました。しかし、まさか自身に被害の影響が及ぶとは・・・。

 三才山トンネルが松本と上田を結ぶ唯一の幹線道路のようなものですので、大きく迂回するしかありません。下諏訪からの新和田トンネルか、高速で長野道から上信越道経由か。
以前、引退された会社の先輩から、もし三才山トンネルが通れない時は、姨捨SAのスマートICで戸倉上山田に下りた方が、高速で上田まで行くよりも早いからと聞いていたので、いつもより早めに出て、梓川SAのスマートICから高速に乗って行くことにしました。
姨捨は、“田毎の月”で知られた棚田の里。SAから車一台がやっとのような細い坂道を下り、千曲川沿いに県道77号線経由で、結局1時間40分掛かって会社に到着(三才山経由のちょうど倍)。
会社でその話をすると、同じ高速経由でも、麻績ICから修那羅峠を超え青木村経由の方が断然早いと教えられました。難所の青木峠に比べ、峠道も短く道幅も2車線あるので遥かに運転し易いそうです。
そこで、帰りは青木村から修那羅峠を越え、旧坂井村(現在は坂北、本城と共に合併し筑北村)を通り麻績(おみ:注記)ICから長野道で梓川SAへ。真っ暗い中、初めての峠道を運転するのも心配なので、この日は30分ほど早めに上がらせてもらい、ナビをセットしていざ出発。

 青木村からの上田側に多少九十九(つづら)折のヘアピンの連続する急坂部分はあるものの、確かに全線2車線で走り易く、朝の姨捨に比べれば大型トラックも通行する程に遥かに良い道で、麻績ICまで40分程度。梓川のスマートIC経由で自宅まで1時間15分でした。因みに、峠名の由緒有り気な「修那羅」(正しくはショナラだそうです)とは、峠頂上付近の安宮神社に800体もの石仏群があるからのようです。
また青木村では、奈良時代の官道であった東山道沿いに建つ「大法寺入り口」の案内板も国道沿いにあり、いつか見に来ようと思っている国宝三重塔の「見返りの塔」の所在地も確認することが出来ました(もっと山間にあるのかと思っていたら、意外と開けた場所にありそうで、少し国道から入ってみましたが塔の影は見えませんでした)。
ところで、ETC搭載車だけという問題はありますが、最近はスマートICが出来てかなり高速道の乗り降りが便利になりました(長野方面からなら、我が家へは上高地線の渋滞の激しい松本IC経由よりも梓川SAのスマートIC利用の方が渋滞も無く、遥かに便利です。県内では、最近人気の小布施もSAからスマートICでアクセス出来ます)。この日も梓川SAのスマートICで降りて我が家へ向かいました。

 三才山トンネルも今日午後1時に復旧開通予定との発表がありましたので、来週からはいつもの通勤に戻れそうです。ヤレヤレ。
台風18号のとんだ余波ではありましたが、久し振りに快晴の北アルプスを眺めながら、こんな事でもないと普段は絶対に行かない修那羅峠や青木村を通ることが出来て、ちょっぴり歴史に触れた通勤路でした。
【注記】
奈良時代の官道である東山道の麻績宿。麻績(おみ)はその名の通り、麻糸を紡いだことに由来。平成の合併の際、筑北村の合併協議会から直前離脱(但し、その理由の一つは麻績村が主張していた聖高原から採った新町名候補「聖町」の名前が否決されたからとか)。少子高齢化時代で且つ山間地は過疎化が進む中で、合併を否定する者では決してありませんが、地名も歴史的文化財としてみれば、麻績に限らず、御牧(みまき)という地名は、奈良時代に東国4ヶ国に置かれた32ヶ所の勅旨牧(朝廷の官営牧場)の内、半分の16ヶ所の御牧が信濃国にあった事に由来(北御牧村は東御市になり、南御牧村だけが現存)します。また、大町市に合併された旧美麻村(みあさ)など何と美しい地名だろうと思います。そう言えば、青木村も上田市との合併協議会から離脱する道を選びましたが、もし財政的にそれで成り立つのであれば、自立するのも決して悪いことではないと思います。

 今年の“芸術の秋”は、ザ・ハーモニーホール(松本市音楽文化ホール。略称“音文”)主催のコンサートのどれに行こうか迷っている内に、何となく(月一ペースで)埋まってしまいました。それも、殆ど音文以外で。

 先ずは、9月21日に茅野市民館での小菅優のピアノリサイタル。
続いて、10月5日にすみだトリフォニ-ホールでの新日フィルを指揮しての十束尚宏さんの演奏会。
そして11月3日、同じく震災の損傷から今年改修なったミューザ川崎でのチェコフィル来日公演。
最後に、暮れも押し迫った12月21日の音文での恒例OEK松本公演。
私にとっては、何とも贅沢な芸術の秋になりそうです。
因みに、その後は2月に音文で松本バッハ祝祭管弦楽団の結成第4回公演。今回は何と「ロ短調ミサ」全曲演奏会(但し、合唱ではなく重唱版)。そして今回も、恒例の高校音楽部の大先輩でもある磯山教授による事前レクチャー(講演会)付きの豪華版ですので、是非聴きに行きたいと思います。      

 小菅さんは、ベートーヴェンの「悲愴」と「熱情」にシューマンの幻想曲。その一週間後には“音文リニューアルオープン記念”と銘打っての仲道郁代さんのリサイタル(メインは大曲「ハンマークラヴィーア」)もあるのですが(しかもハーモニーメイトは、何と半額の2000円!)、会員としての後ろめたさを感じつつも、また仲道さんにはミーハー的関心を抱きつつも、今回は初志貫徹(第768話)で小菅さんを聴くことにしました。中でも、悲愴の第2楽章をどう弾かれるか楽しみです。
 新日フィルは、「クラシックの扉コンサート」での、ショパンのピアノ協奏曲1番とメインにチャイコの4番。ソリストは、これまた欧州で活躍する注目の若手菊池洋子さん。十束さんが指揮する本格的な演奏会を生で聴くのは、シンガポール以来20数年振り(昨年のSKF20周年ガラコンサートでは、序曲のみでしたので)。今回は土曜日のマチネなので日帰りも可能なことから、思い切って錦糸町まで聴きに行くことにしたもの。チャイコの4番は十束さん向きの選曲だと思いますので、特に第4楽章の指揮振りを楽しみにしています。
 チェコフィルは、20年振りに首席指揮者として復帰したチェコ出身のイルジー・ビエロフラーヴェクの指揮で、グリンカの「ルスランとリュドミラ序曲」で派手に開演し、ドイツ在住の河村尚子のピアノソロでラフマニノフの2番、締めに十八番(おはこ)の「新世界」というプログラム。娘が今年も誕生日のお祝いにプレゼント(お中元もお歳暮も、「ぜーんぶまとめて」とのことで、おかたじけ!)してくれたコンサートです。
OEK松本公演は、2011年の直下型地震で音文の天井が損傷し開催できなかったコンサートと同じプログラム。多分生では珍しいブラームスのダブルコンチェルトと運命(これでOEKでのベートーヴェンの交響曲は全曲演奏)。指揮は常任の井上道義(井上さんは滅多に「運命」を振らないそうですが、今回は「これで全曲になりますから!」と漸く“口説き落とした”のだとか)。
 今年の秋は、世界3大オケを始め、海外メジャー級オケの来日ラッシュだそうですが、娘が選んでくれたチェコフィルは、“弦の国”のオケとして、その響きは絹にも例えられ、“プラハの春音楽祭”のレジデントオーケストラとしても有名です(共産化に反対して亡命し、1990年の民主化“ビロード革命”後に要請に応え帰国したクーベリックが、万感の想いで「わが祖国」を指揮した映像を昔TVで見ました)。
学生時代の京都で、ノイマン指揮での“生”モルダウをどうしても聴きたくて生活費を切り詰めてチケットを購入したのが1976年(但し、メインは、確かに12月でしたが何故か第九で、附属の合唱団も同行。でも、生で聴いたモルダウは、フルートのあの出だしから鳥肌が立ちました)。
帰国後、岡谷のカノラホールでの公演(モルダウ、チェロ協奏曲、新世界という“これぞチェコ!”という演目)にまだ小学生だった娘たちを連れて聴きに行ったのが1996年。
そして今年と、ほぼ20年毎に生で聴くことになります。その意味では、私にとっての思い出のオーケストラでしょうか。しかも、歴代のクーベリック、アンチェル、ノイマンと続いたチェコ出身の首席指揮者の系統であるビエロフラーヴェクが20年振りに復帰しましたので、チェコの人々にすればまさに“おらがオーケストラ”でしょうか。
因みに、チェコフィルと同じ日のマチネで、チェコ国立ブルノフィル(チェコフィルに次ぐという評価のオケで、映画版の「のだめ」で千秋が常任で立て直すフランスのオケ役で出演)が松本県文で演奏会(こちらは定番の、モルダウ、チェロ・コン、新世界とか)。

 それにしても偶然とはいえ、この秋だけで小菅優、菊池洋子、河村尚子と注目の若手女流ピアニストを3人聴くことになります。

 大体週一程度で食べに行く、会社から車で5分のラーメン屋さん「夢の家」。
第758話でご紹介したように、『一切化学調味料や添加物を使わずに、地元中心に自然由来の食材を使う拘りで、スープにも「体に良い“磁化水”」使用とか。好みの醤油系では、普通の中華そばは薄口醤油を使って、煮干と日高昆布で出汁を採り、支那そばには地元の特注の手作り濃口醤油を使っているそうです。個人的には鶏ガラ系が好みなので、最初の一口は、ちょっと魚介系の違和感が口の中に残るのですが、舌が慣れるとあっさり系で食が進みます。』

 この、最初の一口目に感じる「違和感」。
確かに魚介ラーメン(スープは、魚粉の量によりこってり系とあっさり系の2種類)には、煮干の出汁には特に抵抗感は無いのですが、干しエビと魚粉もトッピングされていて、個人的にはこってり系の大匙4杯?近い魚粉はもっての外ですし、あっさり系でもトッピングの魚粉には些か抵抗があります。しかし、中華そばと支那そばは煮干と昆布で出汁を採っているにしても、魚粉は一切使われていません。
その違和感は、どちらかというと何となく薬っぽく感じられたのですが、最近漸く原因が分かりました・・・その正体は胡椒。
 各テーブルに置かれた(ラーメン店では)お馴染みの“GABAN” の缶。
普通は黒胡椒の方が一般的だと思いますが、こちらのお店は白胡椒で「ホワイトペッパー」の文字。粗挽きではなく、パウダー状のやや黄味を帯びた粉胡椒です(家庭用でお馴染みのSBテーブル胡椒は、擂ったエゴマのような色をしていますが、あれは白黒混合だそうです)。
因みに白黒は、実の熟成度合いと製法の違い(白は完熟した実の果皮を取り除き挽いたもの。一方の黒は未熟な実を乾燥させ、黒くなった皮毎挽いて使う)で、胡椒そのものは全く同じ種類なのだとか。薬っぽく感じたのもその筈で、胡椒に含まれるピペリン(piperine)という化学物質は薬にも使われ、完熟した白胡椒に、より多く含まれるのだそうです。
これまで、必ず胡椒を振り掛けてから食べていましたが、もしやと思い振らずに食べたところ、あの薬臭さが消えて、濃口醤油を使った支那そばも含めて、優しいまろやかなスープの味がしました。そして、蓮華にすくったスープに少し胡椒を振り掛けて飲んでみると、やはり最初に感じる味でした。慣れると気になりませんが、最初感じる“尖った”感じは、出汁ではなく胡椒が原因でした。

 そこで気になって検索したところ、東京小岩のラーメン店のご主人がH/Pで書かれていた内容曰く(その店では、黒白両方の胡椒を各テーブルに置かれているそうですが、あるお客さんから「どっちを使えばいいんだ?二種類置く意味が分からん!」と文句を言われたのだとか)、
『当店のような背脂チャッチャ系のように濃いスープにはブラックペッパーが、鶏ガラベースで繊細な味付けをしている支那そばにはホワイトペッパーが良く合うと思います。
みなさんラーメンを見た瞬間、無条件で胡椒をかける方が大勢ですが(もちろん辛味が好みでかける方もいますが)、匂いがきつかったり口飽きたりする時、或いは味を締める時に使うと良いと思います。
元々胡椒には臭みを抑えたり、腐敗防止などに使われてきました。確かに昔のラーメンは、今と違い不完全な食べ物でした。だから臭みも伴っていたので胡椒が不可欠でした。それに大量に化学調味料を使っていたので、どうしても甘みが強く、それを締めるためにも胡椒が必要だったようです。しかし今の時代のラーメンは昔のような「不完全食」ではなく「進化食」だと思います。色んなラーメン店主さんが、知恵を振り絞り作り上げています。押しつけがましくなってしまいますが、まずは何もかけずにそのまま味わってみてはいかがでしょう? 』(関係部分の抜粋で、ほぼ原文のまま)
 ナルホドと目からウロコ、でありました。
個人的な嗜好は(あっさり系スープであっても)ブラックペッパーで、粗挽きが好み。我が家ではしかもミル付きで、その場でゴリゴリ挽いて使っています。
ただ一般的には、昔からラーメンにはホワイトペッパーの方が向くとされ、しかも黒よりも白の方が(手間隙が掛かる分)値段も高いのだそうです。
最近主流のこってり系のトンコツスープや魚粉を一杯使った“魚ってり”ラーメンならともかく、優しいあっさりしたスープならば、臭みや匂い消しも不要なので、自然の味を楽しむべく、むしろ胡椒無しの方が良いのかもしれません。これからは、胡椒無しでいただきまーす!(もう、いただいてます)。

 9月8日、日曜日の朝、日本中が歓喜に包まれました。
それにしても、前夜に中継されたIOC総会でのTOKYOのプレゼンは素晴らしかったと思います(仮に、3大会連続で招致を成功させたという英国人コンサルのアドバイスがあったにせよ)。

 高円宮妃久子さまの凛とした気品。震災支援への感謝として最初にスピーチされた久子さまが、正に日本という国の“品格”を示してくれたように思います。
そして佐藤真海さんの笑顔と涙、滝川さんの知性、太田さんの情熱。一国を率いる宰相としての安部さんの自信と落ち着き。本当に久し振りに、自国のリーダーが頼もしく感じられました。
TV画面に映った、久子さまの左胸に付けられた日本列島を象ったペンダント。背負われた責任への想いの深さとその大きさが拝察されました。ミズノ会長でもある水野さんの笑顔も素晴らしかった。また全員が英語とフランス語でのスピーチの中で、滝川さんが日本人の持つ自然で自発的なホスピタリティーの特性を、ご自身で原稿に入れたと言う「お・も・て・な・し」と日本語で表現したのも良かった(日本だけではなく、海外を知る滝川さんだからこそ説得力があったと思います)。
竹田理事長は今回の招致へのロビー活動で、(お母様の死に目にも会えずに)地球10周分も世界各地を飛び歩いたといいます。また、前日が7月に急逝された奥さまの四十九だったという猪瀬都知事は、名前が呼ばれるまで握りしめられていたという、奥さま(余談ながら、お二人とも信州大学での学生時代に出逢われたとか。知事は確か経済専攻の筈なので、松本でしょうか?)の写真の入ったペンダントをTVインタビューで見せてくれました。

 大震災で傷付き打ちひしがれた日本を勇気付けてくれたのは、W杯のなでしこジャパンでした。そして更なる勇気を与えてくれたのは、ロンドンオリンピックの選手たちでした。このオリンピック招致決定で、もしかしたら日本は三度スポーツに救われたことになるかもしれません。
国内世論には、オリンピックより復興だろうという批判もあると聞きます。また、確かに国内で首相がフクシマについてあれ程明確に答えたことは無かったかもしれません。しかし、首相が全世界に向けて明確に公約したのも同然なのですから、この招致をきっかけに、改めて福島や東北の被災地に世界の耳目が集まり、そして7年間という期限を自ら定めたオリンピック招致が、正に震災復興への起爆剤にとなってアクセルが踏まれれば、結果としてそれが何よりも意義深いのではないかと期待しています(個人的には、もし日本で二度目を開催するなら、過去落選した大阪や、一度は断念した一都市開催ルールを超越しての広島&長崎の方が大義名分があると思いますが、最初は白い目で見られた言い出しっぺの石原さん以来の東京都自身の頑張りがあったことは勿論、このタイミングで震災復興と関連付けられるのは東京しかなかったと思いますし、2016年では結果として震災からは短過ぎ、2024では長過ぎるので、7年後の2020は正に絶妙のタイミングかもしれません)。

   (写真は、小学生時代に集めた中の1964東京オリンピック記念切手)
 そして、高度成長期の幕開けを担った前回のオリンピックとは異なり、例えばリニアを2020年に無理して間に合わせるよりも、マンデラさんから指摘されて初めて気付かされた「勿体無い」精神の素晴らしさや「おもてなし」の心のように、日本の、そして日本人の良さって何なのだろうと、我々が自身に問い掛けて自らを見つめ直し、それが十分に発揮されて日本らしさを感じられる大会になれば素晴らしいと思います。
(7年後は既に引退しているので、ボランティアに応募してみようかな?。出来れば“Singlish”の使えるシンガポール選手団のフォローで・・・。
江戸時代、初めて日本を訪れたシーボルトは、庭園の様に手入れされた田畑と掃き清められた街道に驚き、本国へこの国を絶賛するレポートを送ったと言います。2020は日本中が、例えゴミ拾い一つであれ、「見るより参加する」になればイイですね)。

 奥さまが、知り合いの方(降旗監督のご親戚)から薦められ、公開中の「少年H」を是非見たいとのことから、南松本のシネマライツへ出掛けました。

 昔、市内に6館もあった映画館もDVDや他の娯楽などの影響か、次々に閉館し(その内3つの跡地はマンションへ)、今や映画館は郊外を含めても2軒のシネコンしかありません。
シネコンに改装し残っていた市中心部最後の映画館、演技座が数年前に閉館になってからは、我が家からは些か離れているので、映画館からは足が遠のいてしまいました。
それに昔の映画館と比べると、シネコンは画面が小さい(学生の頃、古い.名画を格安で上映してくれていた中劇附属のシネサロン並み)ので、昔ほどの大迫力を画面からは感じなくなってしまいました(一方、家庭ではホームシアターの普及で、画面も大きくなり音響も向上しています)。

 今回は奥さまのご要望もあり、DVDレンタルを待っているといつになるか分からないので、買い物がてら(私メは)初めて出掛けました。
午後の予定もあったので11時過ぎからの第一回上映を見に行きましたが、思いの外空いていました。やはり映画人口は減っているのでしょうか?(でも館内はお子さん連れが多かったので、子供向け映画は盛況だったかも知れません)。

 見終わっての印象は、「戦争シーンの登場しない、市井の人たちの戦争映画」。
時代に翻弄された日本中の市井の人たちを通しての、戦争の愚かさ、悲惨さ。そして、例えば雨のように降り注ぐ焼夷弾へのバケツリレーなど、(戦争を知らぬ人間が)アイロニックな言い方をすれば滑稽さ(と同時に沸き起こる同じ日本人としての惨めさ・・・)。
戦時中に周囲で起こる悲惨な現実に少年らしい素直さで「何かおかしい」と感じていた主人公の肇(H)少年が、敗戦での玉音放送の後、林の中で「この戦争は、一体何だったんだー!」と大声で叫ぶシーンに、全てが凝縮されていたように思います。
エピソードの中で、父敏夫がお得意先の神戸居留ドイツ人から頼まれて修繕するボロボロの洋服が、「日本のシンドラー」こと杉原千畝がリトアニアで発給したビザを持ったユダヤ系の人たちの洋服だったとは知りませんでした(その多くは、シベリア鉄道経由でウラジオストックから敦賀などに上陸し、神戸経由で当時ユダヤ租界のあった上海などに向かったそうです)。
地元TV局のインタビューだったか、79歳になられる降旗康男監督が少年だった頃(終戦の一年前)、国民学校の先生が放課後「普通の軍国少年」だった彼を呼び出して「この戦争は負ける。だから、少年兵の募集があっても絶対に手を挙げるな!」とか、(降旗監督とは関係なく、地元紙でも取り上げられましたが、当事旧松本空港での飛行訓練のために浅間温泉に寄宿していた)特攻隊員から「君たちは絶対に兵隊にはなるな!」と諭されたと述懐されていて、この少年Hは戦時中の自分自身をも描いたと語っておられました。また最近のCGの進歩(その第一人者である「Always三丁目の夕日」の山崎貴監督は松本県ヶ丘高校OBです)も映画化可能と判断させた要素だったとか。
(家内が伺った)親戚の方の話によると、原作が妹尾河童さん自身の記憶を元に書かれていて、結構記憶違いや事実や年代に誤認があったりするのを、映画化にあたり、監督自らが丹念に記録などの事実確認を行って、年表を作るように時系列にきちんと並べ直したのだそうです。      

 肇の両親役を演じた水谷豊、伊藤蘭両氏の演技は勿論ですが、何より、オ-ディションで選ばれたという肇役(偶然にも神戸出身だったという吉岡竜輝君)と妹好子役(花田優里音ちゃん)の子役二人が何とも好演でした。またお二人の夫婦での共演は初めてとのことですが、味のある演技でした。特に蘭さん演じる母敏子の、天然気味の明るさがストーリーの中では救いでした。
終わって出ると、入り口に「少年H」のポスターがあり、故郷に舞台挨拶に訪れたであろう降旗監督直筆のサインが描かれていました。
そう言えば、深志高校の学校犬「クロ」が映画化された際、「どうしてOBの降旗監督にメガホンを撮ってもらわないのか?」という非難の声が同窓会で上がったそうですが、先述のTVインタビューの中で、故郷松本でのロケはしないのですか?という問い掛けに対し、今でも知り合いがいる故郷松本で「ヨーイ、スタート!」とは照れ臭くて言えないからと笑っておられました。また、10年前程前、娘が在学の頃、主演の高倉健さんを伴って母校を訪れ、「鉄道員」を上映し、高倉さんと共に後輩諸君にお話をいただいたのを思い出しました。

 さて、予告編によれば、原作を読んで感動した百田尚樹著「永遠の0(ゼロ)」が12月封切りとか。これは絶対に見に行かなければ・・・と思っています。奥様は、きっと悲惨な映画は嫌と言われるかもしれませんが、この映画(原作)は、単なる戦争の悲惨さを描いているのではなく、究極の家族愛を描いている筈ですので。しかも、これまた松本出身の先述の山崎貴監督作品(ご自身は、CGではなくVFX=Visual Effectsと称す)です。

 前回(第777話)は時間が無く市内観光だけだったお客様の一日お休みの日がちょうど週末だったので、「さて、どこに行こうかなぁ・・・?」。
この時期の夏山は雲が掛かることが多いので、余程天気の良い日でないと信州らしい高原に行っても北アルプスが望めません。従って、街並みや建物を見る方が無難です。そこで、今回は少し足を延ばして(と言っても毎日の通勤先ですが)“信州の鎌倉”塩田平(別所温泉)をご案内することにしました(因みに、昨年は木曽奈良井宿へ)。

 10時過ぎにホテルを出発し、三才山越えのいつもの通勤路から先ず向かった先は、塩田平の“未完成の完成塔”と呼ばれる国の重要文化財の三重塔で有名な前山寺(地元では「ぜんざんじ」とも呼ばれていますが、正式には濁らずに「ぜんさんじ」だそうです)。
前山寺は弘法大師空海が開いたとされ、40以上の末寺を傘下に治めていたという往時を髣髴とさせる参道からの長いアプローチと、塩田平を一望する独鈷山の山懐に建つ堂々たる古刹です。

個人的には、前山寺を含めこれまで3回ほど別所には観光に来ているのですが、こちらに異動になる前に職場の部下から「上田に行ったら絶対食べるべし!」と薦められていたこともあり、今回初めて前山寺名物の「くるみおはぎ」を事前に予約しておきました。このくるみおはぎはご住職の奥さま手作りで、これで商売をされている訳ではないので数に限りがあり、事前に予約が必要というものです(辛党の自分一人なら食べようなどとは絶対に思わないのですが、お客様がスイーツをお好きなので)。      
 拝観料(入山料200円)を払い、先に三重塔やご本堂へのお参りを済ませてから、予約してある旨を告げ、本堂に隣接する庫裏のお座敷にご案内いただきました。
お寺に代々伝わるという名物の“くるみおはぎ”は、クルミのタレを敷いた上におはぎが二つ並べられ、向付(むこうづけ)にシソの巻かれた梅漬けと香の物(味噌漬け)が一緒に供されます(700円)。
甘過ぎず、程良い甘さのクルミダレと、お餅に近いくらいに良く搗(つ)かれたおはぎ。また信州らしいカリカリの梅漬け。辛党の私メですが、こちらのおはぎはしっかりと全部平らげてしまいました。
お聞きすると、通常のおはぎがうるち米ともち米を混ぜて作るのに対し、こちらはもち米だけで搗いたおはぎなのだとか。またクルミも、普通の菓子ぐるみではなく、良く山に自生している実の小さな鬼ぐるみ(一般的な菓子ぐるみに比べ、殻も厚くて硬いので、割るのが大変だと思います)を使っているのだそうです。そのためか、濃厚なのに甘過ぎず上品な感じがするようでした。お客様も絶賛されて、残念ながら(製法から)持ち帰り不能とのことで、代わりに向付にも出された自家製の梅漬け(大きさにより12個程度入って一箱500円)をお土産に買われたほど喜んでくださいました。
「ごゆっくり休んでいってください」というお言葉に甘えて、ちょうど昼時に掛かったためかもしれませんが、二組の先客も居なくなり、我々だけになったお座敷の縁側からは、手入れされた中庭越しに一望する塩田平の眺望も見事で、のんびりと素敵なひと時を過ごすことが出来ました。
 前山寺のくるみおはぎ・・・これ絶品です。
ただ観光でお寺を見るだけではなく、何とも穏やかな“癒し”的時間が流れていきます。前山寺は四季折々の“花の寺”としても有名ですが、これからですと紅葉の季節にでも、今度は家内もおはぎをいただきに連れてきてあげようと思います(提供期間は、春のお彼岸頃より11月末頃までとのこと)。
この日は飛び込みでもお願いすればいただけたようですが、ご住職の奥さまに寄れば、「せっかく来ていただいても、法要等で対応出来ないこともありますので」とのこと。是非事前に確認の上、予約して行かれることをお薦めします。
 その後別所温泉に回り、同じく重文の石造多宝塔の残る常楽寺(後述の北向観音を所有管理)、そして国宝八角三重塔(青木村の旧東山道沿いに建つ「見返りの塔」大宝寺三重塔と共に、大正年間の県下国宝指定第1号)で有名な安楽寺、最後に、嘗ては愛染桂で一世を風靡し、また善光寺だけでは“片参り”とも云われる北向観音(因みに南向きの善光寺と正対)と代表的なお寺を歩いて巡り(各お寺の間が1km弱と、ちょうど良い散策範囲に点在)、鄙びた“信州の鎌倉”塩田平の古刹を堪能いただきました。
何とも落ち着いた佇まいを感じるのは、禅宗のお寺というだけではなく、前山寺、常楽寺、安楽寺とも、本堂が茅葺屋根で造られているせいかもしれません。

 お盆休みの最終日。「一日くらいどこかに行こうか!?」ということで、奥さまのリクエストは戸隠神社。
10年ほど前に、長野市から上って宝光社と中社には行っている筈なので、今回は奥社へお参りしたいとのこと(何でも、金比羅さまのように、多少苦行してお参りする神社仏閣でないとご利益が無い気がするのだとか)。
吉永小百合さんのJR東日本「大人の休日倶楽部」のCMで取り上げられて以降、パワースポットとしても人気だそうですし、私メは信濃美術館で8月一杯開催中の黒田清輝展(切手にもなった重要文化財「湖畔」も展示されています)に興味があったので、戸隠参拝から長野市経由を前提に行ってみることにしました。

 私のイメージでは、松本から1時間半程度の行程。荷物搬入中に家内がナビをセットしたら、1時間10分とのこと。ルートは高速利用で、長野道から上信越道信濃町IC経由。
「信濃町ィ~!?長野市じゃないのぉ?」
別ルートの長野市経由だと30分余計に掛かるとの表示に、半信半疑ながら「じゃあ、ナビにお任せしましょう!」と相成りました(距離では、松本からだと白馬経由が最短ルートで、時間的には信濃町経由が最短との表示)。

 長野市を過ぎ、飯山を過ぎ・・・次第に県境が近付きます。
「まさか、新潟県に戸隠神社の“小宮”があったんじゃないよね・・・?」
「失礼な。ちゃんと奥社で設定しましたっ!」

 信濃町ICで高速を降りて、黒姫高原経由で、やがて戸隠の案内表示が出てきた時は正直ほっとしました。県内とはいえ北信濃の土地勘が無いので、戸隠(地籍は長野市です)は長野の奥とばかり思っていました。

 農家の直売所が並んだ黒姫の通称“もろこし街道”(多分)を通り、森の中の緑のトンネルを、エアコンを止めて窓全快にして高原の涼風を感じつつ、さながら“森林浴ドライブ”です。
戸隠キャンプ場を過ぎて奥社参道入口に到着。有料駐車場(一日500円)に停めて、早速参拝へ向かいます。
駐車場横の大鳥居から奥社までの中間地点にある随神門(山門)、その先に続く杉並木で有名な参道を通り社殿までは各1km、20分ずつで片道2km、40分の行程とのこと。

ゆっくりと歩を進めつつ、パワースポットとして最近人気というのも頷ける老若男女の人の波。
大鳥居から真っすぐに伸びる参道は森林浴の味わい。道端の可愛らしい山野草を愛でながら森の中を歩きます。随神門から先は、映像で見た樹齢400年という参道両側に聳える見事な杉並木に見とれ、最後に金比羅さまほどではありませんが石の階段(段差があるので結構キツイ)を上って漸く到着。二つの社殿が山肌を背に上下に隣接しています。
天照大神が隠れた天岩戸を開けて投げ飛ばした天手力雄命(アメノテジカラオノミコト)を奉る奥社と、元々の地主神である九頭龍大神を祭る九頭龍社双方にしっかりと参拝して帰路へ。思ったよりも小さかった社殿の背後には、天岩戸伝説(投げ飛ばされた岩戸が山になった)や修験道で知られる戸隠山が屏風のように牙を剥いて聳えていました。
帰り道で、75歳というご老人が息も絶え絶えに、
「奥社までは、あとどのくらいですか?」
「この石段を昇れば、もう直ぐですから頑張ってください!」
気持ちは良く分かります。来る時は気付きませんでしたが、奥社から随神門、そして大鳥居までと、ずっと坂で下っているのが見渡せますので、往路は結構な上り坂でした。
駐車場に戻ると、駐車場は既に満杯で道路に駐車待ちの車の列。そこで、少し遅めの昼食は、お蕎麦屋さんが立ち並ぶ中社へと、車はそのままに、フリーパス(一日500円)を購入しシャトルバスで向かいました(2.5kmで約5分)。
すると、前回はどうやら宝光社(祭神は中社祭神の子供である天表春命。アメノウワハルノミコト)だけで、智恵の神と云われる天八意思兼命(アメノヤゴコロオモイカネノミコト。天照を岩戸から誘い出すための策を考えた神様)をお祭りする中社にはお参りしていなかったようなので(二人とも景観に記憶無し)、今回しっかりと参拝しました。
中社周辺には宿坊(廃仏毀釈前は神仏混合で、戸隠全体で宿坊の数三千坊と謳われたとか)も含めて幾つものお蕎麦屋さんが立ち並んでいますが、一番有名な「うずら家」は長蛇の列で2時間待ちとか。諦めて、直ぐ横の宿坊「徳善院」へ。そこも行列でしたが、20分ほどで店内へ。
茅葺の風情ある宿坊(登録有形文化財)に隣接された店内でしたが、蕎麦屋というより観光客相手の食堂という感じで、お茶うけの蕎麦かりんとうや、そば豆腐の小鉢なども付いた、極細で一口ずつ小分けされた「戸隠そば」らしい盛り付けのざる蕎麦で、二八だと思われましたが腰が弱く味も普通。前回宝光社にお参りする途中で立ち寄った「そば打ち体験館」の方が、10年前の記憶ではシンプルですが腰もあって美味しかったそうです。
「う~ん、戸隠そばに期待して来たのにナ・・・」
「まぁ、(観光客相手なら)こんなもんでしょ・・・」
「やっぱり、うずら家じゃないとダメなのかも・・・。また来よ!」
「おいおい・・・」
 奥社への参道を歩き、しっかりと願掛けもして、パワースポットの杉並木で“気”もいただき、前回行っていなかった中社にもお参りすることができました。
本来戸隠神社は「五社巡り」と云われるように、もう一つ天岩戸の前で踊った天細女命(アメノウズメノミコト)をお祭りする火之御子社があるのですが、地元の方々の参拝が中心の小さな神社で、駐車場も少なく中社から歩くと30分くらい(バスルート無し)とのことで今回は断念しましたが、メインの三社(と九頭龍社を合わせて四社)には、これで全てお参り出来ました。
またシャトルバスで奥社に戻り、些か歩き疲れたので長野市に寄るのは諦めて、往路と同じルートで一路松本へ戻りました(途中、高速が事故渋滞で往路の倍以上の時間が掛かりましたが、これも戸隠参拝への苦行の一部と思えば、またご愛嬌・・・)。