カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
6月11日の朝日新聞長野版に掲載されていた記事。
富士見町在住の自然写真家である西村豊さん(64歳)という方が、これまでの撮影を通じてのキツネ(ホンドギツネ)とのエピソードを児童書(アリス出版『キツネにもらったたからもの』)にしたという紹介記事でした。
何でも、霧ヶ峰の山小屋でのアルバイトで、高原での最初の冬に偶然出合ったキツネに魅せられて、以来40年間撮影を続ける間に、その母ギツネとの5年半に及ぶ付き合いの中で“不思議な信頼関係”が出来、留守中には子狐の見守り役まで務めるようになったのだそうです。
そんなある日、その母ギツネは、冬の雪原に捨てられたであろう本来天敵である筈の犬に、ナント捕ったばかりの野ネズミを分け与えたのだとか。そして、その後(野生化した)犬と母ギツネの2頭が一緒に行動している姿も目撃したのだそうです。
それを読んで、正直信じられませんでした。
「死」しか選択肢の無い雪の高原に、分かっていて捨てた人間の酷さや狡さとは対照的な野生のキツネの打算無き愛や献身と。
人間の“格下の”小さな命に対する身勝手さとは、これまた対照的な野生動物の示した「生きとし生けるもの」に対する尊厳と。
何だか、頭をガツンと殴られたような気がして、朝から涙が浮かんで来るのを禁じ得ませんでした。
特に、我が家のチロルも、家を建てた17年前でしたが、生まれたばかりで玄関先に捨てられて雨に濡れて震えていただけに(そう言えば小学生だった次女が、泣きながら付きっ切りで寝ずに暖めていましたっけ)、他人(犬?)事とは思えませんでした(そのチロルも既に16歳を過ぎ今年で17歳。些かボケ気味ではありますが、まだまだ元気です。天から貰った命、長生きしなくっちゃ、ネ!)
ちょうどその日の会社からの帰路、松本市岡田地区の農道でのこと。道の両側には水田が拡がっています。
薄暮の中、ライトを点けた対向車がこちらの斜線にまではみ出し、ゆっくりと戻って片側に停車しました。「ナンテ運転してるんだろう?」と訝りながら近付くと、車の前にはカルガモが一羽、道路を横断中でした。
反対側の水田にエサがなくなったのか、道を横切って別の水田にヨチヨチと移動しているところ。こちらも停車して横断するのを待ちました。対向車のドライバーも、(多分)私メもお互いに笑顔です。
無事横断が終わり、再発進してのすれ違いの際、相手の方にナントナク「どうも、お疲れさまでした!」と会釈をしましたが、一日の疲れも癒されるような、ホンワカ、ほっこりした気分になりました。些か大袈裟ではありますが、「ウン、人間も捨てたもんじゃない!」。
少々前になりますが、5月上旬の朝日新聞にジャン=フランソワ・パイヤールさんの訃報が小さく報じられていました。しかも、亡くなったのが4月15日とのことでした。享年85歳とのことですので、天寿を全うされたと言えるのかもしれません。
パイヤール室内管弦楽団を率いていたジャン=フランソワ・パイヤールさん。生では勿論、TVでの映像にも接したことは無く、専らLPやCDでしか知りませんが、70年代から80年代にかけては、バッロク音楽では必ず名前が挙がるほどの人気で、一世を風靡した室内オケでした。そして、ずっと現地では活躍されているものとばかり思っていました。
学生時代に最初に買ったのは、ヘンデルの「王宮の花火の音楽」のLP。また、名盤と誉れの高かった(多分今でも)ランパルとラスキーヌを迎えてのモーツアルト「フルートとハープのための協奏曲」のLP(輸入盤)。そして、「王宮の花火の音楽」のLPの中に入っていて(パッヘルベルの3作品を収録)、初めて知ったパッヘルベルの「カノン」(正式には「弦楽と通奏低音のためのカノンとジーグ」の第1曲。当時は、今ほどポピュラーな曲ではなかったと思います)。どちらも、懐かしいフランスのエラート盤。そして、多分パイヤールのカノンをCDで聴きたくて買ったであろうバロック名曲選のCD。当時、ミュンヒンガー(シュツットガルト室内管)やクルト・レーデル(ミュンヘン・プロアルテ室内管)の「カノン」も聴きましたが、テンポだけの問題ではなく、編曲が快活すぎて、パイヤール盤のようなウットリするような“癒し”的な演奏ではなく、個人的にはパイヤール盤で決まり。
その後、古楽器演奏が流行り、特にバロックはもとより、古典派辺りまでピリオド奏法での演奏が主流となってからは、当事一世を風靡したパイヤールやイ・ムジチなどの名前があまり聞かれなくなり、いつの間にか、コレギウム・アウレウムや、アーノンクール、ガーディナー、ホグウッド氏らが率いる古楽器オケの名前を良く目にするようになった気がします。でも、パイヤール室内管弦楽団の甘美で明るい演奏は、気忙しいこんな時代だからこそ、ピリオドやビブラート云々という理屈抜きで捨てがたい魅力があるように思います。
そんな日本でも人気だった筈のパオヤールさんでしたので、記事を始め報道のされ方があまりに小さ過ぎるように感じたのは私だけでしょうか?
パイヤールさんを偲び、大好きなパッヘルベルのカノンを聴くことにします。どうぞ安らかにお眠りください-合掌
先日昼頃からの塩尻への外出の折、上田では食べずに移動し、広丘の国道R19沿いにある『レストハウス国堺』へ久し振りに寄って行くことにしました。
塩尻に通勤していた頃に出来た店なので、もうかれこれ30年近くなるでしょうか。元々は、山梨との県境の信濃境にあるドライブインが、高速道開通後客足が落ちたので、こちらにも出店したと当時伺いました。
その名の通り、定食やカレーなどの食堂メニューもあるのですが、こちらの売りは何と言ってもラーメン(他を食べたことはありませんが、多分)。それも流行のトンコツやコッテリ系ではない、昔ながらの醤油ベースの中華そば。そして、昔からここで食べるのは決まって「半チャンラーメン」。小盛のチャーハンにラーメンのセットです(他に半カレーなども)。
思い出しましたが、小鉢のサラダも付いてきました。
チャーハンは普通(焦がし醤油が効いています)ですが、売りのラーメン。鶏ガラ主体で、一緒に煮込んだ野菜か、かなり甘味のあるスープが特徴です。
混雑する昼時を過ぎて、すいていたせいもあるかもしれませんが、火傷しそうな程に熱く煮立ったスープが細麺と良く絡みます。「うん、この味!」。少なくとも4年振りくらいでしょうか、懐かしい味です。
お店の人が何度か注ぎに来てくれた冷水が有難く感じるほどに、熱々のスープ。中には、冷めたようなぬるいスープの店もあった中で、この熱さに感心です。トッピングのトロトロのチャーシューですが、昔はもう少し枚数が多かったような気も・・・? 次回は、チャーシュー麺にしようかしらん・・・などと思いながら、久し振りの味に、スープも殆ど飲み干して「ご馳走さまでした!」。元気になって、さ、又仕事頑張ろっと!
6月9日に行われた、音文会員であるハーモニーメイト鑑賞バスツアー(以下、感動のため些か長文になりますが、何卒ご容赦を)。
2013年は大ホールが4月まで改修工事で使えなかったこともあり、今年は特別に年2回実施とか。
2月に実施された前回の「インバル=都響マーラー・ツィクルスⅤ」が聴きたくて初めて参加(第707話参照)し、味を占めたもの。何しろ、ただバスに乗っているだけで、都会でしか聴けないコンサートが聴けるのですから、自分たちで行くことを思えば正に天国(極楽?)です。
今回は、マチネーでのフィリップ・ヘレヴェッへ指揮シャンゼリゼ管弦楽団とコレギウム・ヴォカーレ2013年日本公演での、モーツァルトの“ジュピター”と“レクイエム”の組み合わせ。近年富みに評価を高めている古楽アンサンブルの、これまたクラシックファン垂涎のプログラムでしょうか。会場は都内ではなく、珍しく所沢市民文化センター ミューズ・アークホール。
ツアーは毎回希望者抽選ですので、くじ運の全く無い我が家としては、今回も良く当選したものと感謝(しかもバスは満席とか)。また、“モツレク”は3月末に高校音楽部のOB演奏会(第728話)で聴いたばかりですが、(オケも含めたアマチュアの演奏会としては出色でしたが、そうは言ってもOBの一員としてはヒヤヒヤで、当然ですが)今回は娘も歌わないので、安心してモーツアルトの世界に浸れます。またジュピターは、先月ト短調を聴いたばかりですので、ここで最後の2曲を連続して聴くことになり、同じ室内楽団でも今回は古楽器ですので、奏法や響きの違いなど興味深いコンサートです。
当日は朝7時45分に音文に集合し、中央道から圏央道経由で所沢へ。
車中、参加者の自己紹介や事務局からの事前レクチャーなどで、あっという間に到着。音文事務局の説明によれば、今回は参加人員が集まらず、ハーモニーメイトの役員等に声を掛けて強制参加(自己負担)で漸く確保したのだとか。くじ運の無い筈の我が家が連続“当選”した理由がそれでハッキリしたものの、名声を高めているとはいえ新しい演奏団体のためか、はたまた声楽曲は人気が無いのか、合唱ファンとしては些か腑に落ちません。ただ、参加者の中には高校時代の音楽の先生もおられ、また事務所でのチケット購入時に時々音楽談義をする制作ディレクターの方が高校の5期先輩と分かりました。
前半にジュピター、休憩を挟んだ後半にレクイエムというプログラム。古楽器オーケストラ(2管編成)で古典派の曲を生で聴くのは初めて。学生時代のLPに始まり、モダンオーケストラを聴き慣れた耳には、ピリオド奏法でのモーツアルトは何となくあっさりとしていて、最初違和感がありましたが、指揮棒を持たないヘレヴェッヘさんの指揮は、メリハリと力強さもありながら指揮振りが大変柔らかく、特に第4楽章は堂々たる演奏。ただ、最初の音出しで、ステージ上に音が篭った(拡散して響いて来ない)ように感じたのは、後方にもステージがあるホールのせいか、古楽器のためか、はたまた私の耳のせいかは分かりませんでした。ツアー参加者の座席は1階中央部。
休憩を挟んで、モーツアルトのレクイエム(ジェスマイヤー版)。独唱陣はオケの後ろで、合唱団は女声が前列で男声が後列という並びで各パート8人ずつの32名。さすがプロとはいえ、その声量は人数を感じさせません。テンポは速め。
お馴染みのバセットホルンとファゴットの序奏に始まり、“♪Requiem aeternam”と合唱が入り、やがて“♪Te decet hymus Deus in Sion”とソプラノ独唱が・・・。
“Dies Irae(怒りの日)”で鳥肌が立ち、“Lacrimosa(涙の日)”で涙が溢れ出し、“Domine Jesu”では鼻水が止まらなくなり、やがて「あぁ、“Sanctus”だ。もう終っちゃう」と溜息をつき・・・。
メリハリがある指揮に統率されて、天井から降り注ぐような素晴らしい合唱でした。今更ながら、『人間の声は、最高の楽器である』と感じ入ります。また韓国出身のスンハエ・イムさんの、オペラではどうかは素人には分かりませんが、宗教曲やオラトリオには相応しい透明感溢れたソプラノ・ソロはとりわけ見事。そして、全体に凛としつつも“温かな”レクイエムでした。
何度ものカーテンコール(とりわけ合唱団への大きな拍手)が繰り返され、やがて、思いがけず(するならこれしかない!)、最初の一音で分かったアヴェ・ヴェルム・コルプスが、独唱陣も合唱に加わってアンコールに演奏されたのは望外の喜び(学生時代の定演で、フォーレのレクイエムの後でアンコールに歌った思い出の曲)。静謐な演奏に、また視界が曇ります。
最後にオケの皆さんが全員でお辞儀をして立ち去る間も拍手が鳴り止まず、誰も居なくなった後も消え入らぬ拍手に応えて、ヘレヴェッヘさんが最後にステージに登場し、漸くお開きとなりました。
来日公演ということもあり、最初に登場する時からの歓迎の拍手に始まり、カーテンコールでの拍手も含め、本当に暖かな所沢の聴衆の皆さんであり、遠く松本から同席出来たことを幸せに感じました。(但し、アンコールが最後消え入る中で、指揮者の手が下りる前に、余韻をぶち壊すような一人の聴衆のフライングの拍手はいただけませんでしたが)。ロビーでフォーレのレクイエムのCDを買って、ヘレヴェッヘさんのサインを貰おうかと思いましたが、考えてみれば団体行動。
終了後全員点呼し、ホール前で恒例の集合写真を撮り、バスの駐車場へ行くと、ナント演奏を終えたオケと合唱団の方々も隣のバス3台へ乗り込むところ。演奏への賛辞と感動を身振り手振りで伝えると、団員の皆さんも車中から両手を合わせた感謝のポーズで応えてくれました。彼らのバスが先に出発するまで、お互いに手を振りながら名残を惜しみました。彼らは、翌日の東京文化会館での最終公演に向かいます。どなたか、「このまま残って、明日も聴きたーい!」。同感です。
感動的な演奏会から松本へ向かう車中、何故か“Domine Jesu”のメロディーが頭の中でずっと鳴り響いていました。
また、音文事務局の制作ディレクターの方から、今回のバスツアーも東京文化会館(ジュピターではなく38番プラハ)だとS席1万3千円なのが、郊外の所沢なので9千円(しかも団体割引あり)という紹介に始まり、座席数僅か700席の音文の少ない予算(海外の名の知れたオケを呼ぶと一回で軽く吹き飛んでしまう程度の年間予算とのこと)をやり繰りしながら、ハーモニーホールらしい特徴あるプログラムを企画するご苦労(例えば、今回の団体を呼ぶには、「仮に同じ予算としても、音文の座席数だとチケットは3倍の3万円になりますが、皆さん来ていただけますか?」との、聞けば当然のご説明に、大変だなぁ・・・)や裏話を伺いながら、あっという間に音文へ到着。スタッフの方々への感謝と労いと、併せて次回の再会を約束しながら、皆さん名残惜しそうにそれぞれの家路へと向かわれました。
「この前のマーラーより感動した!」とは奥様。「へぇー、そうなんだ!」。
結婚直後、音文でのモーツアルテウム管で居眠りされていた方と同一人物とは思えません。でも確かに、心温まる本当に素晴らしい演奏会でした。
(今回含め、最近ちょっと散財したので、暫くコンサートはお休みにします)
今年も、スーパーから買ってきたクレソン(ウォーター・クレス)一束をビンに入れて発根させ、水を張ったプランターに移植しての水耕栽培に挑戦しています。
過去に一度だけ、越冬した芽が春になって1本だけ出てきたことがありましたが、やはり冬の寒さの厳しい松本だと、野生のものは水辺で越冬出来るのかもしれませんが(もっと寒い軽井沢でも野生化しているそうです)、プランターは土が浅い分どうしても寒さで凍って根が枯れてしまいますので、毎年新しく植え替えが必要です。
その間、最初にスーパーで買った時の、ハウス栽培の大き目の葉は黄色くなり、代わって小さめですが、自然の丈夫そうな葉に生え変わりました。そして、伸びた葉は一度サラダで食卓へ。茎も、ハウス栽培での柔らかそうな緑色から、自然の逞しい黒緑に変色しています。
それから、多分枯れた根が腐食しているので、昨年使ったプランターの川砂を良く洗ってから移植します。ヒゲ根を埋めるために一緒に付け根に生えてきた小さな芽も砂の中に埋めてしまいましたが、やがて砂の上に頭を出して来る筈です。
繁殖力が旺盛で、我が国では明治時代初期に欧州から初めて輸入され、料理に使った切れ端が流れ出て野生化した(注記)と言うクレソンですので、柔(ヤワ)ではなく想像以上に丈夫で逞しい植物です。なお、クレソンは、なぜか青虫の大好物なので、(消毒をしないのであれば)防虫網は必須です。さすがに4シーズン目ともなると、自作した防虫網の木枠が外れそうだったので、木工用ボンドで再度接着しました。
近くに綺麗な湧き水でもあれば自然栽培も可能ですが、田舎とはいえ川上の集落を流れて来た母屋横の川では水質も心配なので、人工的に水耕栽培可能な環境を作るしかありません。そこで、今年も水を張った発泡スチロールの箱にプランターを入れて、修理した防虫網を被せて準備完了。あとは、日当たりの良い屋外ですと、どうしてもアオコが発生しますので、3~5日毎に水を入れ替えます。(掲載の写真は、ビンに入れて3週目までの一週間毎の発根の様子と、プランターに移植直後と10日目、20日目、そして1ヶ月後の様子)
一時のハーブブームの時に出回った地植え可能な種類(アメリカン・クレス)なら楽なのですが、その後は園芸店にも見当たりません。その時は生え拡がってたくさん収穫できたので、サラダだけではなく、さっと炒めたり、お浸しにもしたりして好評でしたが、ただ茹でてポン酢を掛けただけのお浸しが一番美味でした。
プランターに移植して一ヶ月弱。大分茂ってきました。最初芽生えた茎は、薹が経って一部の葉が黄ばんできましたので、今シーズン初めて摘んで、ルッコラと一緒にサラダ(無骨な“男”サラダですが)にして食卓へ既に三度ほど。今年も、上手く育ってサラダ用にたくさん収穫出来ますように・・・。
【注記】
Wikipediaに拠ると、文明開化のシンボルでもある上野の精養軒(上野は明治9年開業。ごく自然に、店内に数点大観の絵が飾られていたのはさすがです)の厨房から排水と一緒に流れ出た切れ端が、不忍池で野生化したのが我が国で確認された最初とか。こんなところにも登場するとはさすがは精養軒です。なお、全国的には、外国人宣教師が布教で軽井沢など各地に居留した際に持ち込んだクレソンが、野生化したものとのこと。クレソンの繁殖にも歴史的背景があります。
前日の朝は生憎の雨でしたが、この日は曇り空だったので、いつも通りに5時前に目覚め、一人散策へ。城好きとしては、30年前の大学訪問の折に訪れた松山城へまた行きたかったのですが、市電もまだ動いておらず断念し、道後温泉本館へ行ってみることにしました。
ツアー最終日は、今治から三連吊橋の来島海峡大橋を通る、通称「しまなみ海道」(西瀬戸自動車道)で広島県の尾道へ。実際通ってみると、公募だそうですが、良くぞ名付けたと思わせるセンスの良さを感じます。また、本四連絡橋で唯一歩行者と自転車用の専用道路が併設されていて、芸予諸島を巡る人気のサイクリングロードとか。
途中、先ず日本三大急潮(鳴門、来島、関門海峡)の一つとういう来島海峡の渦潮見学も兼ねての観光クルーズです。高速船で海峡大橋を何度かくぐり、来島の造船所や村上水軍の来島村上家縁(ゆかり)の島などを巡ります。最大10ノット(時速約19km)で海の難所とも言われる日本一の急潮も、この日は穏やかで表示は2ノット。途中、「青雲丸」と書かれた大きな白い船とすれ違い、甲板にはたくさんの制服を着た若者たちが。手を振ると、彼らも手を振って応えてくれました。名前からして練習船なのでしょう。“海の男”となって、やがて世界の大海原を駆け巡るのでしょうか。「頑張れヨー!」と、思わずエール。(帰宅後ネット検索すると、航海訓練所所属の我が国初の5千トン超の大型練習船でした。旧東京商船大や旧神戸商船大などの実習に使われており、出合ったのは2代目となる現役船で、東京港船籍とのこと)。
その後、また「しまなみ海道」に戻り、製塩で有名な伯方島から大三島へ。ここで大山祇(おおやまずみ)神社へご参拝。個人的にこのツアーのハイライトとして楽しみにしていた大山祇神社は、山ノ神、海の神、そして戦の神として、源平を始め多くの戦国武将の信仰を集め、戦勝祈願やその御礼として数多くの武具が奉納されており、中でも甲冑は我が国の国宝・重文の8割がここにあるという、正に“国宝の島”でもあります。子供の頃の“切手少年”時代に集めた「国宝シリーズ」の中にもあった、義経が源平合戦勝利の御礼に奉納したという国宝「赤糸威鎧」もここに収められている筈です。
ところが僅か30分の滞在時間で、国の天然記念物指定の一本でもある樹齢2600年といわれる「小千命御手植えの楠」を見てから重文の本殿で参拝した後、あろうことか国宝館は素通り・・・。「えっ、えっ、エーっ!」
ここばかりではありませんが、前回の兼六園もそうでしたし、今回の屋島も同様でしたが、ガイドさんはお茶屋さんや土産物店に所属されているケースが多く、慣れたもので中々の名調子なのですが、お土産を買ってもらうのが本来の目的。その代わりの無料ガイドなので、ツアー会社とは持ちつ持たれつで止むを得ません。今回は15分で駆け足の見学の後、残りは土産物店へ。「おい、おい、15分かヨー・・・」。じっくり見たければ(また、今回で言えば、茹でたての本場の讃岐うどんを食べたければ)、それを目的に自分で来るしかないのでしょうね。
車中でお弁当を食べながら、生口島を経由して因島へ。こちらも村上水軍の因島村上家の本拠地で、水軍城を見学。但し城跡への再建でもなく、小山の上に建てられた現代の城(歴史家奈良本辰也氏監修とか)で、武具や古文書など村上家縁の資料が展示されてはいるものの、些か興醒め。『日本で唯一の水軍城』とパンフにありますが、もし西洋のお城を作れば、それも「日本で唯一」の筈。「意味、分からん」と独り言。だったら、この時間を大山祇神社で使って欲しかったと思ったのは私だけでしょうか?・・・。
高速に戻る間、集落を通ると、セレモニーセンターでご葬儀が営まれており、「村上家」の文字が。きっと一族の末裔の方なのでしょう。
この村上水軍の祖は、源氏の一門である「信濃村上氏」という説が有力。平家との戦いに参戦し、瀬戸内に従軍した一族がそのまま住み着いたと云われています。遠く山国信州が生んだ海の衆である村上水軍に、歴史のロマンを感じます。
旅の最後は、尾道の千光寺公園へ。残念ながら霞んでいましたが、展望台から瀬戸内の島々を眺めると、尾道が坂の街であることを実感します。こちらの千光寺は弘法大師が開いたという古刹で、付近に巨岩が多く点在し、夏至や冬至には対面の向島から昇る太陽の光を反射する岩(玉の岩伝説)が残るなど、古代宗教との関連も指摘されるのだとか。瀬戸内の島々を眺めながら、今回のツアーも幕となりました。
バスの運転手さんによると、名古屋発着での今回のツアーの行程は、11府県を通り約1200キロとか。3日間とはいえ、無事終ることが出来、一番の功労者に感謝でありました。
今回は昼食も含め全て盛り込まれた夫婦限定のお得なツアーでしたが、「じっくり」というよりも“盛りだくさん”で駆け足でしたので、昼食くらいは自費で、自分たちの気に入った所で食べた方が良いかも。また、我々は初めての瀬戸内でしたので、今回見られなかったところを次回自分たちでじっくり回るのも良いかも・・・と、そんな機会になりました。今回で言えば、ルネッサンスリゾートと、讃岐うどんに、松山城と大山祇神社の宝物館でしょうか。
二日目は雨の中、先ず高松のシンボルという屋島へ。
高松に近付くにつれ、雨も上がり薄日が差して来ました。少なくとも我々ではない、ツアー内の晴れ男/晴れ女の方々に感謝です。
高速を降り、屋島ドライブウェイを通り、最初に鑑真が開いたという屋島寺を参拝した後(境内ではのんびりと猫が昼寝し、キツネならぬタヌキを祭る祠も)、霊がん茶屋の展望台から、源氏が勝どきを上げた際に陣笠を投げたという故事に因むという「かわらけ投げ」に、ナント奥様が挑戦するとのこと。昔の文学少女が投げた小皿のような「かわらけ」は、3枚共ひらひら(ふらふら)と谷底へ落ちていきます。替わって、いつも河原や溜池で小石投げに興じて、何回跳ねるかを友達と競い合っていた田舎の野球少年にとっては、スライド具合のコツさえ掴めば後はお手の物(多分)。
そこを通ると願い事が叶うという丸い輪の中を、残りの3枚を投げた内の一枚が見事に通過。日頃はともかく、この時ばかりは「凄ーい!」という奥様からの称賛の声と尊敬の念を一身に浴び、「ヤッタネ!」と、早速今回の旅の目的でもある夫婦共通の願掛けをしました。
その後、街中にある国の特別名勝の栗林公園へ。兼六園などと同様、歴代藩主が何代にも亘って整備した75haにも及ぶという広大な庭園です。背後の山を巧みに借景に取り入れていて、自然に似せた雄大さを感じます。また築山の周囲に池や水路が張り巡らされ、時間があれば小船で回るのも一興です。
そして、今回の奥様の目的でもある金比羅宮(金刀比羅神社)への参拝です。
門前町である琴平町到着後、本場の「さぬきうどん御膳」の昼食。しかし、この人数の団体では茹でたてとはいかず、また腰も無く、スーパーに売っているような“普通の”うどんに些かガッカリ。中には残されたご婦人方も。
昼食後、自由散策でしたが、全員が歩いて象頭山(ぞうずさん)中腹に建つ金比羅さんの本宮まで785段という階段を上りながら参拝へ(奥社までは1368段とのこと)。多くの方が無料貸し出しの竹製の杖を借りて(帰りに同じ店に返すのがルールとか)、いざ出発。階段の続く(表)参道の両側には、土産物店や茶屋が上までびっしりと立ち並んでいます。
お伊勢参り同様に、生きている内に「一度は参れ」と江戸時代の庶民の願いであったという金比羅参り。体力的にお参りに行けぬ飼い主の代参で、お参りに必要なお賽銭や旅費などを入れた、丸金マークの袋を首に巻いた飼い犬が、道中人々に助けられながら(助ける側にも同様のご利益があるとされ)お参りをして、お札を入れてもらってまた飼い主の元にちゃんと戻って行ったということに因んだ狛のお守りも。エライなぁ!
大門までの365段を上り境内に入ると店も無くなって、暫くは平らな参道が続きほっと一息。その後また急階段が残り400段ほど。カゴ(上りだけ5千円で、往復6500円也)も大門までで、後は自分の足で行くしかありません。途中旭社を過ぎ、手を清めてから最後の階段を上って、我々も何とか無事に785段をしっかりと上りきって、今回の一番の目的であった本宮にお参りです。
夫婦共通のお願い事をお願いし、絵馬も奉納してと、しっかりとお参りをすることが出来ました。ヤレヤレです。グループの皆さんも、中には途中大門までのカゴやタクシー(裏参道経由)などを使いながらも、お互い励ましあい、また労いながら、何とか全員が本宮に自力でお参り出来たようです。エライなぁ、良かったなぁ・・・。
登りきった本宮からは琴平町を眼下に讃岐富士が望め、達成感を倍加させてくれました。
なお、旭社へ向かう途中に「高橋由一館」(美術館)とあり、出身地でもないのに「どうしてここに?」と思いましたが、何でも、ここで開かれた博覧会に出展し、その際に金比羅宮へ資金援助を頼み、後日そのお礼に30点近い作品を奉納したのだとか。我が国最初の洋画家と金比羅さんとの意外な関係を初めて知りました。
帰り道の参道を下りながら、ここに来たら買いたかった銘酒「凱陣」を探しましたが、どこにも無く、聞けばお土産店では扱っていない(事情は分かりませんが、置かせてもらえない)のだとか。蔵元まで行く時間も無く、残念ながら(こちらのささやかな目的は)諦めざるを得ませんでしたが、旅の主目的を果たした後、雲に隠れた西日本最高峰の石鎚山付近を通り、今宵の宿泊地である松山道後温泉へ。
宿泊先の部屋も食事(「夫婦御膳」とか)も、前日が良かっただけに、鯛の兜煮の味付けは良かったものの、全体的には“今二つ”。でも、道後温泉は日本最古の温泉というだけに、金比羅参りの足の疲れもほぐしてくれるようでした。
5月末、二泊三日の日程で旅行に行ってきました。
父が倒れて以来9年振りに行った旅行での、前回のバスツアー(第715~717話参照)が思いの外良かったこともあります。
今回もクラブツーリズム主催で、名古屋発着のバスツアー。題して『ご夫婦で行く瀬戸内海じっくり周遊3日間』の旅。
当初申し込んだ熊野古道・南紀ツアーが、あろうことか、その回が最低実施人員に達せずにドタキャンになってしまい、同じ日程で別のツアーに代替えしたもの。お陰で、新宿発着であれば何とか当日帰宅出来たものが、名古屋からは電車も高速バスも終っていて、名古屋に一泊せざるを得なくなり、出発前から踏んだり蹴ったりではありましたが、その分旅行が長くなったと思えばイイかと、せっかくの旅行ですので楽しみに出掛けました。
ただ、よりによって出発日に中国四国地方が10日近くも早い梅雨入り。先が思いやられます。
朝8時に名古屋駅を出発し、先ずは淡路島へと向かいます。今回のツアーは夫婦限定ですが、さすがに悠々自適?のリタイア組中心と思われる旅慣れた中高年のご夫婦ばかり。我われと言えば、家内が「京都から西へは行ったことがない(連れて行ってもらってない!)」という初心者で、二人とも初めて明石大橋を渡ります。
「あっ、海だぁ!」「凄い橋だねー」と、まるで山国からの修学旅行。
最初の目的地である「淡路夢舞台」は、関空など人口島建設のために土砂を採取した跡地に、安藤忠雄氏が設計を担当して兵庫県が建設した大掛かりな施設。回遊式庭園を中心に、国際会議場、ホテル(ウエスティン)、植物園などが、広大な敷地に設定されています。昼食後、フラワーパークの「淡路花さじき」へ。ポピーが一面に咲いていた外は端境期でしたが、展望台からは明石海峡や紀伊半島が一望できました。
島内には、子供の頃習ったように、タマネギ畑が点在しています。日本の島は急峻な地形が海面上に残ったと理解できる急勾配の地形に、棚田や段々畑が点在し耕作の苦労が偲ばれます。途中、ハーブ園や「たこせんべいの里」にも立ち寄りましたが、残念ながら、ハーブは池田町のハーブ園のほうが上。もしも種があればと思ったのですが、アメリカンクレスもご存知無し。
その後、降り始めた雨の中を、海峡の急流を眼下に鳴門大橋で渡り、その日の宿であるルネッツンスリゾートナルトへ。奥様によれば、こちらはマリオット系のリゾートホテルなのだとか。
鳴門海峡の海浜に建つ全室オーシャンビューの客室からは、シケ模様で押し寄せる高波が目の前に臨めます。1/fゆらぎ効果(多分)の潮騒の音が、締め切った客室に居ても、山国の人間の耳には心地良く響きます(奥様はうるさくて眠れなかったそうですが・・・)。
夕食は和洋バイキング。新鮮なワカメや甘味のあるタマネギなどのサラダ、信州では食べられないシコシコした食感の鯛(天然?)、マグロや蒸しタコの刺身に、鯛しゃぶ、竹に巻いたままのチクワなどなど。食べ過ぎて、一口味見だけに留めましたが、締めの鯛メシも甘くて美味。旅先では、何よりも地産地消の食材が一番。大満足でした。
市街地ではないので、館内にはアミューズメント施設や、夜は阿波踊りなどのイベントもあり、出来れば二泊はしたいホテル。奥様も、珍しく「ここ、また来たいねー」とかなりの高評価でした。
松本市音楽文化ホール(ザ・ハーモニーホール。通称“音文”)大ホールの、地震損傷の改修工事が漸く終了し、4月にリニューアルオープンしました。
定評あった残響(2.0秒!)維持と、座席数を減らし、ゆとりを持たせた客席での私メにとっての最初のコンサートは、5月26日マチネーでの『アンサンブルof トウキョウ』の松本公演でした。
このコンサートは、地震のあった2011年度に企画され中止になったもの。
今回プログラムもその時と同じで、“リニューアル記念特別演奏会”と銘打って行われました。
我が国を代表するフルーティストでもある金昌国さん率いるアンサンブルof トウキョウは、他のオケや大学で教えるトップ奏者等が集まっていて、コンマス(コンサートミストレス。以下コンマスでご容赦を)は地元松本出身の大林修子さん。現在はN響の第二バイオリンの次席(フォアシュピーラーと最近は呼ぶのだとか)で、N響定期では、指揮者越しに映る清楚で知的な演奏振りがとても印象的です。他にも読響ソロホルン奏者の山岸さんが上田出身、同じく読響バイオリン主席のお一人である大町出身の平林瑞枝さんなど県内出身の方もおられ、またN響オーボエ主席の青山さん、ファゴット主席の水谷さんなど、TVでもお馴染みの国内のトップ奏者が集まる実力派の室内オケです。
プログラムは、中止となった前回と同じで、ハイドン、モーツアルトの協奏交響曲と、お馴染みの40番ト短調の組み合わせ。
モーツアルトは、青山さん、山岸さん、水谷さん、クラリネットの山本さん、ハイドンは大林さん、チェロの河野さん、青山さん、山本さんがそれぞれ独奏を務められましたが、それぞれ見事な演奏でした。
ただ、気になったことが一つ。それは、最初のモーツアルトの第一楽章が終了した後、指揮者の金昌国さんが、振り向いて、ずっと客席の後ろを見て何か確認しようとされていたこと。
ステージ上からの響き具合か、それともステージライトの当て方なのか、前方の客席からでは分かりませんでした。そう言えば、演奏自体はモーツアルトらしくとても柔らかでしたが、良く響いてはいたものの、響き方が以前よりも少し固いような感じがしました(思わず天井を見上げましたが、どこが変わったのか、素人目には良く分かりませんでした)。しかし、ホールの響きはどんどん変わっていくもの。やがて、熟成されていくのだろうと思います。
アンコールでは、青山さんや山岸さんもオケに加わってのオールキャスト。
何度もカーテンコールに応えられ、最後鳴り止まぬ拍手の中、楽団員の皆さんが一礼されて舞台袖に下がって行かれましたが、その間中もずっと拍手が続いていました。
ハーモニーメイトにとっては、2年間我慢したメインホールでの演奏会。聴衆の皆さんも、この日を待ちかねたように開演前から嬉しそうで、演奏自体も、何とも和やかな、優雅な、そして幸せな雰囲気でのコンサートでした。
2000名の大ホールでのフルオケも良いですが、僅か700席のホールで今回は30人足らずの編成でも、ほぼ客席中間の中央部で聴いたので、十分な音量とモーツアルトの優しい響きに包まれて、改めて「やっぱり良いホールだなぁ・・・」と感じました。
終了後にはロビーでのCD販売もあり、大林さんのサインを是非戴きたかったのですが、「食料品の買出しに回らないと!」いう奥様に急かされ、泣く泣く会場を後にしました。それが唯一の心残り。でも、間近で生の大林さん(黒とブルーのロングドレスが素敵でした)の演奏姿を見ることができ、幸せなオープニングコンサートでした。
普段は年寄り三人ですので、食材に関してはあまり贅沢をせず(年を取ると、こってりからあっさりへと好みが変わり、例えばしゃぶしゃぶでも、昔あれ程好きだった牛肉よりも豚肉の方が好きになるので、そうした味覚的変化=経年劣化?もありますが)、むしろ慎ましやかとも言える我が家で、唯一?贅沢品と言って良いのが、味噌でしょうか・・・。
昔から出汁入り味噌などもっての外。化学調味料は一切不可で無添加のみ。味噌汁の出汁も必ず煮干で採る奥様。エライなぁと感心しています(時々、不在時に頼まれて味噌汁を作る時は、些か面倒クサイ気もしないではありませんが・・・)。
そうした無添加味噌を幾つか試した中で、ここ数年すっかり我が家の定番となっているのが、地元松本の「丸正醸造」の『二年味噌』です。
赤味噌(?多分)ですが、ただ塩辛いだけの味噌ではなく、何とも言えない旨味とコクがあり、とにかく味がイイ。本当に美味しい味噌だと思います。
長女も気に入って、無くなると(東京のデパートなどでも売っていないらしく)頼まれては家内が時々送ってあげているようです。
以前、飛騨高山での散策の折、蔵元で幾つか味噌を試食しましたが、「丸正」に優る味は無く、結局お土産には買いませんでした。
県内産を主に、良質な国産大豆と天然水に拘ったという無添加味噌で、500gのカップ容器で、スーパーでは600円ほど。他にCMでも見る大手ブランドの商品など200円くらいからありますので、その意味では高級品でしょうか。でも、食べてみると3倍以上の価値は十二分にあると納得出来ます。味噌汁だけではなく、煮込みや鍋物など、味噌仕立てのどんな料理も美味しく感じます。
昔ながらの手作りに拘った小さな蔵ですので、全国販売はしていないかもしれませんが、この時代ですし、お店に売っていなくても多分ネットで取り寄せ可能だと思います。またお越しの際は、信州松本のお土産にも(些か重いですが)良いかもしれません。どうぞ、お試しあれ。
【注記】
戦国時代から信州では、お酒同様に水が良いからでしょうか、元々味噌作りが盛んだったそうですが、醸造会社が特に諏訪・岡谷地方に多いのは、製糸会社では、住み込みで働く多くの女工さんたちの食事用に自家製の味噌を大量に作っていて、製糸業の衰退を受けて醸造業に転業したからなのだとか。味噌にも、近代工業化の影に歴史ありでしょうか。