カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 高校駅伝の選抜大会とも言える、2013年春の高校伊那駅伝。
3月24日に、全国から過去最多となる男女合わせて167チームが参加して今年も開催され、地元のTV局で生中継(午前中行われた女子はダイジェスト)されました。優勝したのは、男子は伊賀白鳳高校、女子は立命館宇治高校。県勢では、佐久長聖が2位、女子は県立の長野東が5位入賞と健闘しました。

 女子は、長野東の監督のお嬢さんでもある玉城かんな選手が、エース区間の最長1区でのデッドヒートで、トップと2秒差の2位。その後、昨年の都大路優勝校の本命立命館宇治がトップ独走で見事連覇。長野東も頑張って3位争いの末、公立校トップの5位。エース玉城選手は今度新2年生の筈。しかも、当日のメンバーは、一人を除いて4人が新2年生という若いチームでしたので、都大路が楽しみです。

 男子は、恩師の急死をバネに、昨年の都大路で全国3位と復活した伊賀白鳳が、今回見事に旧上野工高時代以来となる22年振りという優勝で、秋の全国大会に向けて弾みをつけました。各選手が全区間5位以内という安定的な走りで、最後2位に1分の大差をつける独走で、これぞ駅伝とも云える区間賞ゼロでの優勝でした。
佐久長聖は、1区で何と1分20秒差の47位と完全に失速して出遅れ、最長2区でエース高森選手が34人抜きの区間賞。続く3区で春日選手の区間タイ記録での連続区間賞などで追い上げ、最終区で最後に山梨学院大付属をかわしての2位(昨年は3位)。駅伝は、1区間でも出遅れや失速があると、ケニア人留学生でも居ないと挽回は厳しいので、これから夏場の鍛錬に期待です。でも、全国で戦える戦力はありそうなので、高見澤監督になって3年目の今シーズンは、そろそろ秋への期待大でしょうか・・・。

 個人的に一番印象に残ったのは、5区で区間新記録をマークした山梨学院大付属の上田健太選手。山梨学院大の上田監督のご子息です。中学時代から全国でも鳴らしていたと思いましたが、2年生での持ちタイムが5000m14分9秒といいますから、既に全国でもトップクラスの実力。今後も怪我無く、順調に育って欲しいもの。
付属高校の山梨学院は、高校ではこれまで決して強豪校とは言えなかったのですが、昨年上田選手ら二年生の活躍で、見事全国で初入賞。特に上田選手は、面構えも良く目力もあり、大物の予感が漂う走り。多分、来年は山梨学院大へそのまま進学するのでしょうが、2年後の箱根が今から楽しみです。

 その他の男子では、4区でケニア人留学生がごぼう抜きの世羅が4位。昨年の全国初出場初優勝校の豊川は8位(今年も居るのかどうかも知りませんが、ケニア人は走らず)。伝統校復活で福岡大牟田が6位。毎年秋にはキチンと仕上げる西脇工が今回は7位(昨年は2位)でした。また昨年の伊那路優勝校の豊川工(愛知県予選で、仙台育英から転入生を大量に受け入れた豊川高に敗れ全国出場はならず、今も色々騒がれていますが)は17位でしたが、選手は負けるな!

 選手の皆さん、実りの秋に向けて頑張ってください。

 急な海外旅行で、夜行便で早朝成田に到着し、昼過ぎに帰郷される奥様を出迎えに松本駅へ。
ホームでスーツケースを受け取り、遅めの昼食は、「一週間振りの日本だから・・・」ということで、またまた『そば処 井川城』へ。
私メは、いつもの十割一枚と二八を二枚(一人前)。奥様は夜行便且つ時差ボケか、いつもの三種盛りではなく、大名と十割の二種盛りとのこと。

 二八はこの時期になっても香りや喉越しも良く、いつも通りに十割以上に腰もあって「やっぱり、旨いなぁ・・・!」。そしていつもの様に、最後にデザートでサービスの「そば大福」を(奥様が)頂きました。餡を包んだ皮の表面に黒っぽい粒粒が見えます。
「あれっ、何か変わりました?」
「粉が、粗挽き粉なんです」

 帰りがけ、ご主人が「今日の二八はどうでした?」
「えっ?いつもの様に美味しかったですけど・・・」
「玄蕎麦は一緒なんですが、十割だけじゃなくて、二八も自家製粉に代えてみたんです。粗挽きなので、少しザラザラした感じがしたと思いますし、蕎麦に使えない最後の“捨て粉”を大福に使ってます。」
「あっ、それで・・・」

 でも、二八はいつも同様に美味しくて、その違いが良く分かりませんでした。     蕎麦好きとしては、もっと(食べる)修行をしないといけませんね。
(ということで、違いが分からず、この時は写真も撮りませんでしたが、その後またすぐに、帰省してきた娘たちと伺う機会がありましたので、早速撮影しました)

 この冬は、最近では珍しく2年連続で諏訪湖の御神渡が観測されたほどに、2月までは異常に寒かったのに、3月になると一転して信州も異常な暖かさ。さすがに夏日とは云いませんが、ここ松本でも20℃を越える日もあるほどです。

 松本城の梅も今年は早めに咲いたそうですが、我が家の母屋横の梅も、既にチラホラとほころんでいました。
20日の春分の日。暑さ寒さも・・・と言いますが、この日も農作業をしていても汗ばむほどで、「一輪ほどの」というよりは、一輪以上の暖かさを感じる春のお彼岸でした。今年の桜の開花予想も徐々に早まり、松本(城)は4月4日とのこと。

 また、この時期になると毎年ご報告させていただいていますが、リンゴ園のオオイヌノフグリも、この春の暖かさの中で、今年も可憐な花がこぼれるように咲いています。(写真はいずれも20日撮影)
 例年なら、この時期、冬用のスタッドレスタイヤを履き替えるのですが、通勤用の四駆だけは三才山峠越えなので、皆さんに聞いて、4月の中旬頃に履き替えることにしました。

 コーヒーを生まれて初めて飲んだのは、中学一年生の春。友達の家に遊びに行った時でした。お醤油のような液体を恐る恐る飲んだ記憶があります。農家である我が家では、お茶は毎日飲んでもコーヒーを飲むことは一切ありませんでしたし、小学校時代の友達も皆農家ですから、お互い遊びに行ってもコーヒーなど出す家などは当時皆無で、中学で町場の小学校と一緒になるまではそうした機会が無かったのだろうと思います。

 高校時代も友達と喫茶店に入ることもありましたが、自分で本格的にコーヒーを飲むようになったのは、京都での学生時代。
寺町近くにあった老舗のイノダコーヒーに行ったり、店名が思い出せませんが出町柳近くにあった名曲喫茶に入り浸ったりして(そこ頃はまだジャズに興味がなく、荒神橋にあった有名なシアンクレールには終ぞ入らず)コーヒーの味を覚え、ちょっと背伸びをしてインスタントを卒業し、出町柳にあった出町輸入食品(今もあるのでしょうか、懐かしいなぁ)で、当時学生向けだったのか格安で売っていた「粗挽きブルマンブレンド」なんぞを(食事はインスタントラーメンでも)格好付けて買っては、下宿でドリップして独り悦に入っていました。そして色んな豆(トアルコトラジャなんて、CMを見てどんなに美味しいのかと憧れましたね)を試した結果、我が嗜好は酸味のあるモカで決まり。

 卒業して松本にUターンしてからは、クラシックを一日中掛けていたこともあり、また当時はリクエストも出来た喫茶店「まるも」(第211話)がお気に入り。コーヒーも酸味の効いた濃い目で私好みの味でした。独身時代の休日は、本屋さんやレコード屋さん(未だCDは無かった時代です)に寄った後など、コーヒー一杯で半日いたものです(お邪魔しました)。

 結婚してからは、専ら自家焙煎の豆の小売もしていた大名町の「斉藤コーヒー」。家内は酸味が好みではないため、好きなモカを買えずに専らコロンビアを真空パックで小分けしてもらって、豆で纏め買いをして冷凍庫で保管し、自宅でドリップを楽しんでいました。粗挽きで、蒸らし何分、後は一気に注いで・・・と、挽きたて、淹れたてに拘ったものです。
夏は、濃い目にドリップしたのを冷やしておいてアイスで。そう言えば、関西ではアイスコーヒーを「冷コー」と呼ぶんでしたね(レモンスカッシュを「レスカ」と略してみたり)。
シンガポール赴任中も、日系のデパート内に豆を小売してくれる店(Suzuki Coffee)を漸く見つけて、海外でも東南アジア風の“甘苦い”粉コーヒー(濃い目のコーヒーに、店によってはコンデンスミルクがたっぷり入ります)ではなく、日本と同様のコーヒーを楽しむことが出来ました。

 故あって(ホンノ)一時期禁煙した時、不思議なことに何故かコーヒーが全く飲みたくなくなってしまいました。
その後復活(これぞ“復煙”?)すると、何故かまたコーヒーが無性に飲みたくなりました。
でも今度はドリップが面倒くさくなって、インスタントコーヒーへ。
色々試した結果、ここ数年はずっとAGF(味の素ゼネラルフーズ)のMAXIM「モカブレンド」。キャッチフレーズは、“先ずはこの味ストレートで”。
これが“誇大広告”に非ず。その通りで、昔に比べるとインスタントコーヒーも格段に技術進歩をしていて、昔のようなただ焦げ臭いようなインスタントではなく、味や香りもかなり本格的で驚くほど美味しくなりました。
特に朝の出勤前の慌しい時に、手間隙掛けて(休日などは、それも一つの楽しみではあるのですが)ドリップしなくても結構満足出来ます。最近のインスタントもなかなか大したものです。
ところが、秋にコーヒー豆を頂いたこともあり、仕舞われていたコーヒーメーカーが再登場。久し振りのドリップに、「やっぱり旨いなぁ!」
そこで、いただいた豆が終った後も、東信系の地場のスーパーで売っている丸山コーヒーを買ってきて、インスタントと併用しつつ、時々はドリッも楽しむことにしました。
また、缶コーヒーも同様にかなり改善されています。新しい勤務先の自販機のコーヒーが今ひとつなので、朝通勤途中にコンビニで缶コーヒー(無糖ブラック)を買って行きますが、色々(コンビニにあったモノは全て)試した結果、一番美味しいのはJTの“Roots AROMA BLACK”。個人的な嗜好に合うということですが、他の無糖に比べ酸味が効いていて香りが良い。ただ、アイス用だけなのか、冬場はロング缶のホットが無いので、専らUCCの“The Deep”のBlack(無糖)ですが、もう少し酸味が欲しいところ。

 また喫茶店では、街中で駐車場が無いこともありますが、まるもへは行く機会が減りました。専らスタバ。でも個人的には苦いだけのシアトル系は好みではなく、別にラテに興味も無く、コーヒーのチェーン店ならドトールのコーヒーの方が程好く酸味があって味も遥かに好みに近く、東京への出張の時など一人の時なら絶対にドトールへ(松本駅前にあった2店は閉鎖)。

 そう言えば、定年退職したら、モーツァルトが(今ならジャズのピアノトリオかなぁ?)一日中流れている珈琲店の、無口で頑固なマスターになるのが若い頃の“夢”でしたっけ。
お愛想は奥様にお任せして、ただ黙って美味しいコーヒーを入れるだけ。お客さんが「旨い!」と唸ったら、独りニヤッとほくそ笑む・・・。
BGMには、スイトナーおじさんやクーベリックのモーツァルトか、或いは木住野圭子のジャズピアノが流れて・・・うん、イイなぁ・・・夢のまた夢。

 その季節季節で、何故か聴きたくなる曲が誰にでもあるものです。
春の季節、特にこの3月ですと、私にとっては、さしずめ『風見鶏』でしょうか。1977年に出た、さだまさし2枚目のアルバムで、そこに収録されている「最終案内」と「梅雨のあとさき」。
他に『風見鶏』には、東風(こち)で知られる「飛梅」などのタイトルに因み様々な“風”を盛り込んだ曲を中心に、「セロ弾きのゴーシュ」、「もう一つの雨やどり」等々を含めた珠玉の10曲が収録されています。      

 春、特に3月は別れの、そして4月は出会いの季節でもあり、歌にあるような原体験の有無には関係なく、幾つになってもこの時期になると聞きたくなる曲であり、学生時代に買ったアルバムです。
なぜ購入したのか今となっては不明ながら、彼のLP(およびCDも含め)はこの1枚のみ(あとはグレープ時代の「無縁坂」のEPが確かあった筈)。
そして車でも聴けるようにと、以前CDを借りてきてダビングしてあります。
特に、「最終案内」に出てくるジミー・ハスキルがアレンジしたという、飛行機の離陸を表現した弦のグリッサンドが効果的且つ印象的です。
また「梅雨のあとさき」にある“トパーズ色の風”なんて描写も繊細で旨いなぁ。

 さて、この春、若者たちにはきっと様々な別れがあったのでしょうね。
故郷との、家族との、友達との・・・、辛い、悲しい、切ない、甘酸っぱい、ほろ苦い・・・。そして、別れの後には新たな出会いもある筈。
新しい出会いを大切に、若者の特権である未来に胸ときめかせて、頑張れ、若造!・・・ですかね。
イイですね。若者にとって、別れの春は希望の春への前奏曲です。
でも、羨ましがってばかりいないで、“オッサン”も気持ちだけでも若くしないと・・・。サミュエル・ウルマンを持ち出すまでもなく。

 通勤路と言うには些か無理があるかもしれませんが、上田市沓掛酒造の銘酒「福無量」。知る人ぞ知る(当然ですが、飲兵衛以外はご存じないでしょうね)、過去全国新酒品評会での5年連続を含めて何度となく金賞を受賞し、しかも元禄年間の1688年創業と言いますから、優に300年を超える地元の銘醸です(記憶が定かではありませんが、その昔、お師匠だった元ボスが教えてくれた全国地酒番付?で、東の横綱か大関でした)。
そういえば、先月のバスツアーで上田駅から長野道の坂城ICへ向かう国道18号線沿い(上田市塩尻地籍)に歴史を感じさせる沓掛酒造の蔵がありました。機会があれば、是非一度訪問してみたいものです。

 そこで、お世話になっている上田に敬意を表して、ご挨拶がてらこれは飲まねばなるまい!と、変に理屈を付けて探していた純米酒(個人的には、色々試した結果、吟醸よりも純米の方がどの銘柄であっても私メには好みでしたので)。
街中のショッピングモールなどへ行けば(大吟醸から本醸造まで各種)買えるそうですが、帰路の酒屋さんや地場のスーパーには見当たらず、その内いつも週末に食料品を買いだしに行く東信が本拠のスーパー「ツルヤ」に、オリジナル(ツルヤ向け)の純米酒(但し500ml瓶)が七笑や大雪渓などに混じって販売されているのを新聞折込みのチラシ広告で知り、松本でも入手できることが分かりました。
そこで家内に買ってきてもらい、冷やして早速いただいてみました。多分、ツルヤ向けと本来のものとはラベルのデザインは異なるとお思いますが、それ向けに別に醸造しているとは思えないので、多分味は同じ純米酒だと思います。

 うーん、個人的にはやはり高天純米でした。
福無量純米は、決して悪い意味ではなく、舌が多少ピリっとするほどの酸味がある辛口で、端麗な味わい。スッキリしたお酒でした。ただ、同じ辛口でも、加えてコク、旨さのある高天純米の方が私メには好みです。
もしかすると、これだけ辛口であれば、福無量は純米酒よりも吟醸の方が、むしろ旨味が出て(私メには)良いかもしれません。ヨシ、今度試してみようっと(まぁ、それほど力む必要もないとは思いますが・・・)。

 以前から、「日本在住の(しかも一流の)ロシア人ピアニストがいる」と知ってはいて、「何故日本に?」と単なる興味本位で気になってはいたのですが、そのご本人であるイリーナ・メジューエワさんが、2月末のNHK-FM「きらクラ」に、遠藤真理さん産休中のゲストMCとして出演され、ふかわりょうさんとのやり取りから窺い知るその人柄と、スタジオでの生演奏に大変惹かれました。人柄がそのまま音に滲み出ているような、誠実で優しいピアノでした。

 日本語では「一期一会」という言葉が好き(正に演奏会そのものですね)で、月に何回か歌舞伎鑑賞(文楽や能にまでも)などに行かれるという日本通(それもその筈で、既に在日15年とか)。

 スタジオ演奏で譜面を見て演奏していたらしく、その理由をふかわさんから問われて曰く、「ピアニストそれぞれの考えがあって勿論良いのですが、私の場合は」と前置きされた上で、「演奏家は作曲者ではない。作曲者の意図は譜面の中にしかない」ので、10年前に譜面指示通りに演奏していないことに気付かされて反省してからは、演奏する時は(間違いなく暗譜もされた上で、尚且つ)必ず譜面を見るようにしているとのこと。
学生時代合唱をやっていただけで何も楽器を演奏できない素人ながら、指揮者の意図を意識しないといけないようなコンチェルトならばいざ知らず、楽器単独の時(例えばピアノソナタ)も、殆どの演奏家が暗譜で演奏することに些か疑問を持っていただけに、わが意を得たりでありました(弦や管楽器の無伴奏曲の場合と違い、ピアノであれば、演奏者の横に譜めくりの人が座れるので)。
勿論演奏家としての解釈はありましょう(バロック音楽など、細かな演奏記号が無い楽譜は尚更です)。また強弱やテンポなど、敢えて意図的に譜面指示とは違う解釈を是とする場合もありましょう。しかし、作曲家の意図を完全に理解した上で演奏するためには、「私は楽譜を見て演奏した方が良い」という彼女の意見に共感し、またそこに強い意志も感じました。

 メジューエワさんの今後の演奏予定を確認してみましたが、レコーディング(何故か富山県の魚津らしい)とお住まいの京都での後進の指導(京都市芸大)がメインなのか、或いは「知る人ぞ知る」で頻繁な演奏会はどうやらされていないのかもしれません。
しかしこれまでも、過去ショパンのノクターンなどでレコ芸のレコード・アカデミー賞を受賞されている由。彼女のCDを探してみたいと思います。でも出来れば、是非一度ハーモニーホールでも演奏してもらいたいものです。

 新宿~松本間を走るJR中央東線の特急『スーパーあずさ』。
1994年に投入された振子電車ですが、藤色の鮮やかな車体も些かくたびれて、時にはリクライニングが壊れている座席や、故障中で使用禁止のトイレがあったりしました。

 このスーパーあずさはE-351系で、普通の「あずさ」(「かいじ」も)は、これより新しいE-257系。
 年明けの地元紙に、『JR東海のリニアに対抗するため、JR東日本は現行車両より快適性を高めた「スーパーあずさ」の新型車両を投入することを決定した。』との記事が掲載されました。
「そうかぁ、漸く新しくなるのか・・・。」

 出来ましたら、E-257系は何だか都会の通勤車両のような形で特急らしくないので、“スーパー”という名前に相応しいスマートな車体が投入されるように期待します。(写真は、1月に夕刻家内を迎えに行った松本駅のホームで撮った、E-351系スーパーあずさとE-257系あずさです)
 松本・上田両市が提携し、シャトルバスを運行する計画があるのだとか。
上田市は、長野新幹線が本来の北陸新幹線として2015年に金沢まで延伸すると、ますます通過駅化することを懸念し、一方の松本市は松本空港の東信地方からの利用増を期待してとのこと。その暁は、松本からの新幹線利用が増える(やっぱり1時間ちょっとで東京に行けるのは早くて便利ですから)代わりに、あずさ利用が減りかねないだけに、新型スーパーあずさに期待します(但し、時間短縮は山梨県内のカーブ改修と都内の複々々?線化が可能にならないと期待出来ないそうですので、今回はせめて“より快適に”とのこと)

 前回第713話で「イヤハヤ、この峠道は何が起こるか分かりません」とご紹介した三才山“豚ネル”の話題。
それから間もなくの2月上旬のことでした。その日は、昼過ぎには上がりましたが、朝から雪。

 夕方7時少し前だったでしょうか。
上田からの帰り道。既に道路には積雪はなく、順調に走行。鹿教湯を過ぎ、内村川を渡ると勾配の急な山道となり、カーブの続く三才山峠を登っていきます。
三才山トンネルまでに一ヶ所だけ登坂車線がある地点で、前の車が(県外車ではなく、地元の松本ナンバーでしたが)追い越し車線をゆっくりと走っていてどいてくれそうもないので、止む無く登坂車線から抜こうと左側に寄せた瞬間のことです。
左側の林の中から、何か黒い塊が急に道路に飛び出してきました。慌てて急ブレーキ・・・、それはナント鹿!でした。幸い後続車両もなく、ライトに驚いたのか、道路の真ん中で立ち止まった鹿の3m?くらい手前で停車。鹿は、大きな黒い瞳でこちらを見ると、何事も無かったかのように軽やかにピョンピョンと跳ねて反対側の林に消えて行きました。
鹿は群れ(家族?)で行動すると言いますので、続いて現れるのではと心配しましたが、続いて来る様子も無く、若い雄鹿だったのか、その時は単独行動の様でした。
「ビックリしたなぁ、もう・・・。おーい、もう車にぶつからないように気を付けなよー!」
と横切る鹿に向かって無意識に(意外と冷静に)車内から声を掛ける自分がいました。

 その間、物理的にはホンの数秒足らずの出来事だったのかもしれませんが、
ライトに照らされて、道路の真ん中で立ち止まって何かを言いたげに(と思えるような)こちらを見つめる黒い瞳としなやかな肢体。後から思うと、まるでスローモーションのように数十秒にも感じられた時間でした。

 ここで啓蟄も過ぎましたが、虫ならいざ知らず、信州では野生動物にも結構遭遇します。例えば、野生のタヌキ(一度夜の平井寺トンネル付近で、道路脇から出て来そうになったので、パッシングしたら戻ってくれました)やサル(安曇野市堀金の須砂渡渓谷上流にある延命水の近くで群れに遭遇)はこれまでも見たことはありましたが(そう言えば、昔上高地では崖の上に立つ孤高のカモシカも)、野生の鹿を見るのも、ましてやあんな至近距離で遭遇したのも初めてです。考えてみれば鹿教湯というくらいですから、あの辺りに居ても不思議ではないのかもしれません。
最近増えすぎたのか、「鹿害」が新聞等でも報道されてはいますが、それにしても実際に遭遇し本当にビックリしました。
環境破壊などの人間のせい(道路開発や、オオカミなどの天敵の絶滅)で、自然の循環サイクルが崩れているのでしょうか。

 先日、朝の出勤途中、鹿と遭遇した辺りを走行中ふと見ると、道端に鹿教湯の旅館らしい「鹿鳴荘」と描いた大きな看板が・・・。
ナルホド!と妙に納得した次第・・・。
【追記】
会社でこの話をしたら、他にも峠道で鹿に遭遇した人や、10年ほど前には鹿とぶつかって車が大破した方もおられるのだとか。熊に会うよりもまだイイかも・・・。
また、地元紙の報道によれば、営林署員の長野県内での鹿の目撃情報では、美ヶ原、八ヶ岳、霧ヶ峰周辺に集中しているのだとか。三才山は、霧ヶ峰から美ヶ原を経ての東山々系の一角ですので、当然だったかもしれません。

 2月25日の月曜日の朝。通勤の車の中で聴いていたFM放送のニュースで、N響の桂冠名誉指揮者でもあったウォルフガング・サヴァリッシュさんの訃報を知りました。89歳とのことでした。
初共演から実に40年に亘り毎年のように指揮をされたマエストロは、放送中にN響からのコメントでもありましたが、 「N響の“育ての親”のような存在」でもあり、また最も団員から敬愛された指揮者だったそうです。

 私自身は、70年代くらいからでしょうか、TVでN響を指揮される姿に長年接してきました。思えば、マタチッチ、シュタイン、スウィトナー、サヴァリッシュと、独墺系の世界的マエストロたちが綺羅星のごとくN響の指揮台に登壇されていました。中でも大好きだったマエストロ・スウィトナーが3年前に亡くなられた時も大変ショックでしたが、これで、自分の中で一つの時代が終ったような気がします。もう誰も居なくなってしまいました。
N響は、長年に亘り独墺系中心の指揮者に鍛えられたために、そのサウンドは重厚でややもすれば保守的と批判もされ、その結果その後のデュトワさんが新たな色彩を加え鮮やかに変化させたと評価されてもいますが(ようですが・・・)、私自身の好みもあって、スウィトナーさんやサヴァリッシュさんが振るN響のドイツ的な響きは、個人的にはむしろ好きでした。

 マエストロ・サヴァリッシュは、フィッシャー・ディスカウ等のドイツ・リートの名伴奏者としても活躍されたように、ピアニストとしても一流で、またバイロイトの指揮を当時歴代最年少で振られたと記憶しています。
そのドイツ出身の若き天才指揮者は、帝王カラヤンにその才能を疎まれたのか、ドイツ出身の正統派でありながら結局BPOには呼ばれず、些か派手なフィラデルフィア・サウンドというイメージにはそぐわないように感じましたが、後年には団員からの“三顧の礼”でフィラデルフィアPOの音楽監督に迎えられたそうです。

 指揮振りは端正で、見た感じは穏やかな正にジェントルマン。雰囲気は、音楽家というよりも学者然としていて、むしろ見た目はバンカーというか企業経営者のような雰囲気でした。

年を経て、端正さにいぶし銀のような重厚さが加わり、SKドレスデンを振られたシューマンの交響曲は往年の名盤(但し、1972年録音とありましたので、まだお若い御年47歳での録音でした)であり、また我が愛聴盤でもありました。このところプレーヤーの調子が些かおかしくて、残念ながらLPが聴けませんが、マエストロの指揮振りは(N響との演奏でもそうだったかもしれませんが)大向こうを唸らせるような派手な演奏ではなく、背筋を伸ばし聴く人の心に染み入るような誠実な演奏だったように思います。

 謹んでご冥福をお祈りします。どうぞ、安らかにお眠りください-合掌