カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 日経新聞日曜日の文化蘭には、作家や文筆家の方のエッセイが毎週掲載されています。
この9月16日は、脚本化でもある作家の早坂暁氏(「夢千代日記」他)。
「生きたくば蝉のように哭け・・・」と題された表題に「一体、どういう意味?」と惹かれて読むと、これが出色、まさに珠玉のエッセイでした。

 「いきなりの話だが、切腹(ハラキリ)は、日本独自の自決法である。」で始まり、エピソードを交え、氏のかねてよりの疑問として、「自決の方法としてはまことに死ににくい方法をとっているという点だ。たとえば、心臓一突きのほうが、早くて潔いではないか。」と指摘(確かに、映画やドラマで見ると、例えば戊辰戦争の会津藩で銃後を守り懐剣で自害する武家の婦女子は喉や心臓だった筈です)。
「しかし、一人の海軍中将が、私のモヤモヤとした疑問を一掃してくれた。」として、「特攻の生みの親」として知られる航空司令長官大西瀧治郎中将の自決(注記)を紹介しています。
大西中将は、その特攻作戦を自ら「統率の外道」とし、送り出した2500人を超える若者やその遺族への謝罪として、敗戦の日に司令室で割腹自決し、駆けつけた部下に対し、「介錯はするな、不要だ。まして医者など呼ぶな。」
「オレは出来るだけ苦しんで死にたいんだ。外道の統率者として長く苦しんで死にたい。」
「夜半に割腹し、絶命したのは明け方。8時間あまりも苦しんで、死んだ。」と紹介しています。

 知りませんでしたが、早坂氏は、大西中将から38年後の最後の海軍兵学校第78期生で、「海軍の司令官が責任をとるとは、こういうことだと、(大西中将の)ハラキリで教えてもらったと思っている。」と記しています。

 そして本題。氏の二つ目の疑問。「割腹の真の意味を教えられた私は、彼が命名した神風特攻隊の意味を、ずっと考えてきた。あの、“神風”という言葉はどこから来たものなのか。」(注記:記載の都合上、元のカギ括弧からダブルコーテーションへ変更)

 「最後には神風が吹く」と信じていた、終戦時海軍兵学校で15歳だった早坂少年が、その“究極の迷信と信仰”をこっぱ微塵にくだかれたのが、終戦で故郷松山に戻る途中で見た広島に落とされた「核爆弾」の惨状だったそうです。
たどりついた松山の家では、蝉しぐれの中、戦災をまぬがれた町の人たちが句会をひらいていて、「さ、あんたも(詠みなさい)」と促されて氏が詠んだ一句が、表題の、
 『生きたくば 蝉のように哭け 八月は』

 昭和20年8月中旬、15歳の夏。涙が浮かぶのを禁じえませんでした。

 氏は最後にこう結んでいます。
「(神風を生んだ元寇は)真の国難だったのか。調べるほどに日米開戦のシステムが600年前の鎌倉時代と酷似していることに驚くしかない。日本はなにも変わっていなかった・・・。だから大西中将は神風という名を冠したのである。いま、私は、あの国難は、いわば自作自演の国難ではなかったか、とさえ考えているのだ。」

 悩み、葛藤の後、受け入れざるを得なかったにせよ、その判断の責任を取るとはどういうことなのか。それが、国のリーダーにせよ、小さな組織の長にせよ。早坂氏の疑問とそれへのアプローチとは別に、考えさせられたエッセイでした。
(最後に大西中将の遺書を最後に載せておきます。責任を取るということ、国を、そして人類を愛するということ、未来を若者に託すということ。決して特攻や戦争賛美ではなく、ましてや右でも左でもなく・・・)
【注記】
大西中将の遺書(もう一通、別居中だった奥様宛の遺書もあったとのこと)
 『特攻隊の英霊に申す 善く戦いたり 深謝す
 (中略)
 吾死を以って旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす

 次に一般青壮年に告ぐ
 (中略)
 諸氏は国の宝なり 平時に処し猶お克く
 特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と
 世界人類の和平の為 最善を尽せよ』