カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
長野県は南・北・東・中信と大きく4地域に分けられ、更に周囲を山に囲まれた各盆地毎に昔は小藩で別れていたように、地域経済的には独立しています。ただ歴史的にも、北信と東信、中信よ南信の繋がりが強く、交通網(嘗ての信越線や中央線)もまたしかり。また北信と中信は、長野と松本が県内では中核都市となるので、必然的にそれを結ぶルートも確立されてきました。
しかし、それ以外となると、関係も薄いことも手伝い、交通網などの整備も他に比べ貧弱で、例えば松本と上田など、日常的にはあまり意識にも無く、同県を意識するのは高校野球の県大会くらいと言っても過言ではないかもしれません。しかし、嘗ては信濃(科野)の国府・国分寺は上田に置かれ、その後国府は松本(筑摩=つかま)に移されますが、律令時代に整備された官道として、大和政権と東国を結ぶ東山道も松本から保福寺峠(注記)を越えて上田を経由しており、当時の大動脈は松本と上田を結んでいました。因みに、かのウエストンが、飛騨山脈を見て「日本アルプス」と名付けたのも(先に鉄道が東京から上田まで敷かれていたにせよ)保福寺峠からでした。
従って三才山トンネルは、片道500円と結構な通行料金ですが、他に道路が(上信越道、長野道、中央道で大回りするしか)無いことから、例えば群馬に主力工場のある富士重工の自動車は全てこの道路で松本方面へ輸送されて来るように、群馬と長野県の中部地方或いは岐阜の飛騨地方を結ぶ物流網であり、従って一般車両よりも運送車両のトラックの交通量が多いのが目立ちます。
しかし、松本方面からトンネル手前(野間沢橋付近)に標高1000mの標識があるように、トンネルは1100mの高さにあり、その前後は整備されてはいるものの、急坂・急カーブの連続で、前に荷物を積載した大型トラックがいると、時速30kmで後ろに車が数珠繋ぎになることも珍しくありません。時に追い越し禁止を無視して抜いていく不謹慎な車も無いではありませんが、中には途中引き込み線に入って後ろの車を先に行かせてくれる親切なトラックもあったりして、そんな時はハザードで感謝のサインを送って先に行かせてもらっています。そういえば、以前上諏訪駅から歩いて会社まで通勤していた時も、信号の無い横断歩道で良く停まってくれたのは、トラックを含むプロの営業車両でした。
(掲載の写真・・・三才山トンネル松本側入口、トンネル内、上田側の孫六トンネル手前にある料金所・・・は、朝の通勤路、前後に全く車がいないのを確認して、二ヶ月掛かって漸く撮影出来ましたので、念のため)
【注記】
『信濃路は 今の墾道(はりみち)刈株(かりばね)に 足踏ましむな 履(くつ)はけ我が夫(せ)』 万葉集14巻(東歌)-3399
この有名な東歌(あずまうた)は、大和政権から東国に派遣されて東山道を往く夫が、神坂(峠)・碓氷峠と並ぶ難所とされ、開墾されたばかりで木の切り株ばかりであろう保福寺峠を越えて行くのを心配して妻が詠んだ歌と云われ、その保福寺峠に万葉歌碑が建てられています。