カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 会社の住所は、上田市下之郷(シモノゴウ)。
ここは塩田平の東端になりますが、この下之郷に延喜式にも登場する『生島足島神社』があります。しかも古いだけはなく、その延喜式での位置付けは諏訪大社に継ぎ、格式は同格である大社に位置付けられる、信濃国でも別格の神社であったと言います。しかも本殿の御神体は大地そのものという古代宗教との関連を伺わせます。

 この地方は嘗て信濃国の国府(その後松本に移設)と国分寺が上田に置かれたように古くから開けた場所で、この塩田平には塩田荘が置かれ、別名“信州の鎌倉”と呼ばれるように鎌倉時代には北条氏一門が治めて鎌倉仏教が花開き、今でも安楽寺を初めとする古刹が点在しています。

 この生島足島神社は、国家創建にも繋がるという生島大神(生みの神)と足島大神(足る=満たす神)の二神を祭神とし、諏訪大社の建御名方命(タケミナカタノミコト)が出雲から諏訪に下る際に立ち寄った折に、生島足島の二神に建御名方命が米粥を奉献したという言い伝えがあり、この生島足島神社でも7年に一度御柱祭が行われているとのこと。
偶然にも諏訪との繋がりを知り、上諏訪からこの地へ異動してきた身には何とも不思議な気がしました。きっと“諏訪大明神”が見守っていてくださるのかもしれません。
 ただ、タケミナカタノミコトが国譲りで敗れて出雲から敗走する際には、襲撃を避けるべく、陸路よりも安全で早い海路で日本海沿いに北上し、おそらく母である“翡翠の女神”ヌナカワヒメ(注記)縁の糸魚川から構造線(フォッサマグナ)に沿って姫川を遡って、越の国から科の国の諏訪に至ったであろうと一般的には考えられますので、ここに立ち寄ったかどうかの真偽の程は不明ですが、生島足島神社が延喜式で式内大社に位置付けられているように、古代にも繋がる由緒ある神社であることは間違いないようです。
また、この神社は北条氏以降武士たちの信仰も厚く、武田信玄の川中島合戦前の戦勝祈願の直筆の請願文や、武田家臣団の忠誠を誓う起請文が現存し、国の重文指定を受けています。

 朝夕の通勤時に神社の前を通るので、会社の帰りに初めて立ち寄ってみましたが、それほど広い境内ではありませんが、その規模以上に厳かな霊気が辺り一帯に満ちているような不思議な感じ(今流行のパワースポット?)がしました。
お参りの際には、諏訪からこの地へ参ったことをご報告しご加護をお祈りしたのは言うまでもありません。
【注記】
諏訪平でも、茅野市の蓼科と白樺湖に行く道路が分かれる所に、どぶろく祭でも知られる御座石神社がありますが、ここの祭神はそのヌナカワヒメを祀っていて、タケミナカタとは親子とはいえ、諏訪と越の国の繋がりが伺えます。