カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 10月26日、日本経済新聞の朝刊の海外面に、今回のバンコクのチャオプラヤ川の洪水被害とその背景を解説する記事があり、「なるほどなぁ!」と興味深く読みました。

 例えば、昔メコン・メナムがインドシナ半島の2つの大河と地理の教科書で習った記憶がありますが、解説によればメナムというのは現地語で「川」の意味であり、「メナム・チャオプラヤ」が誤訳されて、一時期日本ではメナム川と表記されていたのだとか。確かに、シンガポール赴任中、バンコクに出張したり、タイのディストリビューターの人たちと世間話をしたりする中で、チャオプラヤは出てきてもメナムは聞いたことが無く、全く別の川だろうと思っていました。
 また、チャオプラヤ川は広大なデルタを流れるため、全長372㎞もありながら(流域面積は日本最大の利根川の10倍弱)その高低差は僅か24mしかないのだとか。そのため山からの急峻な地形を流れ下る我が国の河川と違い、一気の洪水は無い代わりに、じわじわとゆっくり水かさが増し、逆にちっとも水が退いていかないのだそうです。
バンコクで見た、茶色く濁って、川幅の広くゆったりとした流れを思い出します。

 さて、この記事の中で、タイ湾へ注ぐチャオプラヤ川という箇所が「台湾」となっていて、一瞬「???」。
解説記事ではしっかりと「タイ湾」となっていましたし、漢字で表記するなら「泰湾」とすべきであり、文脈でも台湾との脈絡は全く無いことから、完全なる「誤植」。

 現在はどうか知りませんが、確かその昔、英国の「タイムズ」は、もし誤植を発見した場合には賞金(謝礼)を払うと宣言していたと記憶していますが、実際事例があったかどうかは別として、その正確さへの誇り高き自信と伝統を感じたものでした。

 さて、日経の場合の対応は・・・?。訂正記事は気が付きませんでした。
我が家では日経のほかに朝日新聞も取っていますが、朝日には誤植が無いかどうかは分かりません。
というのも、朝日は出勤前に慌しく朝食を取りながら(行儀悪いですが)の斜め読み。一方の日経は、通勤電車の中で30分以上じっくりと読みますので、かなり日経にハンディがあると思います。

 マクドナルドの期間限定メニュー。
常に持ち帰りではありますが、時折若者に混じって購入し、家で楽しんでいます。(松本にもバーガーキング来ないかなぁ・・・シンガポールでは、むしろマックよりメジャーで、特に朝食メニューとチリソースはマックより美味しかったので、良くお世話になりました。オニオンリングも特徴的)
その期間限定メニューとして、前回好評を博したというテキサスバーガーやマイアミバーガー等は、世界統一ゆえ本国のアメリカとばかり思っていましたが、これが英国マクドナルドの開発した特別メニューで、日本マクドナルドも導入したのだとか。フィッシュ&チップスだけじゃないんですね、イギリスも。

 そして、この秋はマックリブの登場(10月27日で終了しました)。
何年前か忘れましたが、会社の仕事での外出時に時間が無く、慌しく駅のマックで食べてとても美味しかった記憶があります。
そこで喜んで、今回も昼マック。家に買って帰り、早速「いっただきまーす!」。ところが、「えぇー?これ違う!」

 決して不味くは無いのですが、確か昔のマックリブってサイズはもう少し小振りでしたが、ポークではなくビーフで、しかも通常のパテではなくもっと「肉らしかった(肉々しい?)」記憶があります。思い違いなのでしょうか?おっかしいなぁ・・・。
これなら、ボリュームは全く違いますが、通常メニューのマックポークでもイイや。
片や家内は、チキンタツタがお気に入りで、通常メニュー入りを期待していますが、私メは昔食べたビーフのマックリブの再登場に期待してマース!
      
 余談ながら、チロルはマックポテトが大のお気に入り。
人間の食べる他の物(食べたことがありません)は、たとえ焼肉であれ、大人しく寝そべっているのに、どういう経緯経過か不明ながら(一番甘やかす私メが昔食べさせたに違いないとは奥様の分析ですが)マックポテトだけは買って帰ると早速匂いを嗅ぎ付けて、もうイケマセン。
自らケージに入って早く欲しいと、吼えまくります(ナナは昼間母宅にいるので、幸いまだこの味は知りません)
こちらが食べ終わると、何事も無かったように静かになるのですが、変な犬!「チロルぅ、年寄りが塩分採り過ぎだってばさ!」
チロル、御年14歳。

 昨日に引続き、10月22日に行なわれた佐渡裕指揮ベルリン・ドイツ交響楽団松本公演鑑賞記、後半の部です(写真は、休憩中のホールの様子)。

 休憩を挟んで、生で聴くのが念願だったチャイコフスキーの交響曲第5番。学生時代、生まれて初めて買ったLPがこの曲でした。

 この後半からコンマスが入れ替わり、どうやら日本人の方のようです。
今や世界のオケの弦楽パートには必ずと言って良いほど日本人奏者がおられますが、DSOには管楽器(フルート準主席)にも日本人奏者(しかもうら若き女性)が活躍されているのには少々驚きました(パンフを買おうとしたら、家内がイラナイというので、アジア系であることは間違いありませんが、実際に日本人の方々かは未確認です)。
嘗てドイツのオケ(フランクフルト?)でオーボエ主席を務めた宮本文昭さん(現在は指揮活動に専念)くらいしか知りませんでした。
日本のオケの管楽器(ホルンやファゴットにも)も、今では女性奏者が珍しくありません。昔は弦楽器でさえ女性奏者が多いとパワーが落ちると言われたものですが、時代ですかね。今やVPOにも・・・。

 さて、第1楽章冒頭のクラリネットから、耳に慣れ親しんだメロディーが流れていきます。
多分にベートーベンの5番を意識したであろうと云われる「運命の動機」。
佐渡さんの指揮は、これまで聴き親しんだ演奏と比べると、どの楽章もややゆったりしたテンポで入って、次第にアッチェレランドしていきます。
飛び跳ねたり、腕をぐるぐる回したりというエネルギッシュな指揮は相変わらず。指揮者も時に腱鞘炎になると言いますので後年体を壊さないか心配ですが、でもこれが佐渡さんらしくて、まぁイイか(ただ、好き嫌いは分かれるでしょうが)。

 コントラバスの低音の風圧、弦の擦れる音。指揮者のアインザッツを示すブレスの音。そして会場の雰囲気。どんなに良いオーディオや名演奏の録音よりも、やっぱり生はイイなぁ!
特にこの日は、DSO2011日本公演の初日とあって、ホール中央にはオーケストラか或いは大使館の関係者だと思われるドイツの人たちも10人ほど来られていて、独特の華やかさと期待感に会場は溢れていました。
休憩中のロビーのパネル紹介によれば、DSOは旧名ベルリン放送交響楽団。東西ドイツ分裂後、東ベルリンから逃れてきた旧ベルリン国立歌劇場の楽団員を中心に組織化されたという、設立時からの謂わばヴィルトゥオーゾ・オーケストラ。近年では、佐渡さんも毎年のように定期に招かれて、現地で好評を博している由(コンクール前の辻井さんデビューCDもこのコンビでのラフマニノフだった筈)。
若き日のロリン・マゼールも指揮をしていたとのことですので、彼らの演奏でリヒャルト・シュトラウスの交響詩のLPがあったような。

 ワルツの第3楽章から、金管華やかな第4楽章へ。
ホルンの響きがやや硬く感じられたフレーズもありましたが、高らかなファンファーレから、ドイツのオケらしい重厚な弦の厚みと金管のパワフルなサウンドを以って、圧倒的な迫力で豪快にコーダを奏でながら華麗にフィナーレへ突き進みます。
アチコチからブラボーの声がかかり、立ち上がって拍手する聴衆もあちこちに。会場を包む嵐のような拍手に、何度かのカーテンコールに応えた後のアンコールは、同じチャイコフスキーの弦楽セレナードから第3楽章「エレジー(哀歌)」。普通なら “花のワルツ”辺りのような気もしますが、オケ側か或いは指揮者の意向か、大震災への哀悼の表れだったのでしょうか。
客席の5番での興奮も、エレジーで落ち着いてしまったのが個人的にはちょっぴり残念。最後のカーテンコールに応えた後、まだ拍手鳴り止まぬ中、佐渡さんが促して楽団員の皆さんもお互いの健闘を称えながら、舞台袖に下がっていきました。
「カーテンコールだけでも良かったのにな・・・。」
いやぁ、良かった!初めて生で聴いた5番、堪能しました。3月のBBCフィルよりもはるかに良かった。元気とパワーをもらったような気がします。

 因みにこの5番は、サンクトペテルブルク・フィルが横浜公演で演奏するようです。5番と言えば、旧レニングラード・フィル時代のムラヴィンスキーの十八番(おはこ)。確かLPもあった筈。きっとそれを髣髴させるようなロシアの響きが会場に溢れることでしょう。都会はイイなぁ。

 夕方5時半。秋の日のつるべ落としの如く、会場を出てすっかり暗くなった中を歩きつつ、頭の中を“運命の動機”がぐるぐると駆け巡っていました。中には奈良ナンバーの車で来られた方もおられましたが、遠路はるばる気をつけてお帰りください。DSOの皆さんも、ツァーの成功をお祈りしています。

 その後、娘のところに上京する家内を駅に急いで送ってから戻ります。家内からメールが届き、
「素敵なコンサートでした。では、これから余韻に浸りながらあずさで寝ていきます。」
こらぁ、寝るなー!寝たらせっかくの余韻が冷めちゃうってば!

 6月末に松本を襲った直下型地震の影響で、ハーモニーホール(略称音文)が改修のために2013年3月一杯まで閉鎖となったことから、ハーモニーメイト主催のコンサートが幾つか中止を余儀なくされましたので、個人的には、ちょっぴり寂しい今年の“芸術の秋”。
そのため、シーズン劈頭にして、いきなり棹尾を飾るコンサートとなってしまった、ベルリン・ドイツ交響楽団(DSO)の2011ジャパンツァー初日公演が、ここ松本で開催されました。

 来日公演が松本からスタートするというのは、恐らく大変珍しいことです。ツァー“初っ端”の緊張感と気迫に満ちた演奏を地元で聴けるという幸運。
指揮は、その気迫に相応しく、今年BPO定期デビューで話題となった佐渡裕。3月のBBCフィルに続いての松本への登場です。しかも今回のプログラム(Bプロ)のメインは、是非一度は生で聴きたかったチャイコフスキーの交響曲第5番。チケット購入も、実は佐渡さん目当てではなく5番が目的です。

 10月22日土曜日の午後3時開演。
周囲の木々も色付きを増した松本県民文化会館(略称県文)へ、期待に胸を膨らませて向かいました。
今年は、結局中止となったOEKや他のオーケストラコンサートを音文で聴くために、このコンサートはS席ではなくA席にしたのですが、でも大ホールの1階後部の真ん中で、かなり良い席です。

 ちょうどこの日は、近くの野球場で秋の北信越高校野球の準決勝があって、春の選抜の切符を賭けて県勢同士がぶつかり、しかも地元松商の登場。そこに満席の佐渡さんのマチネ・コンサートも加わり(尚且つ県文の中ホールでは或る学会の全国大会とか)、周辺は大渋滞(SKFのオザワさんの代振りも、桐朋出身ではありませんが、ブザンソン繋がりで佐渡さんにすれば満席になったかもしれませんね)。
しかし、主催者側は予想できなかったのでしょうか?こちらは地元なので、迂回して裏道の農道を走って漸くギリギリ開演5分前に入場できました。チケットは完売とのことですが、予定より遅らせた開演にもかかわらず、間に合わなかったお客さんの空席がまだあちこちに。

 先ずは、ベートーベンの序曲レオノーレ第3番。
出だしから、弦の厚みに「あぁ、ドイツのオケだなぁ・・・」。舞台裏からのお馴染みのトランペットのファンファーレ。佐渡さんも指揮台で飛び跳ねるなど、スタートからアイドリングどころかエンジン全開です。
序曲が終わって、渋滞で間に合わなかったお客さんがどっと入ってきて満席になりました。

 休憩前のモーツァルトのピアノ協奏曲第23番。今回のツァー帯同のソリストは、ブルガリアの若手(と言っても27歳)、エフゲニ・ボジャノフ。
彼は、エリザベト王妃国際コンクール(2位)やショパンコンクール(4位)などの受賞暦だけではなく、辻井伸行が優勝したクライバーンコンクールでも決勝進出者(入賞せず)だったそうですが、個人的には今の時点ならむしろボジャノフの方が好みです(曲目は違いますが、チャイコのピアコンでは辻井さんはオケにまだ負けていましたから)。
第1楽章が始まっても、冒頭でカデンツァの運指の練習をしていた?(ように見えましたが・・・?)のは、ご愛嬌と言うかユニーク。
ボジャノフは響きが若くて明るいので、現時点では短調よりも長調の楽章の方が合っているように感じました。音の粒立ちは辻井さんですが、彼の技巧は確かです。特にアンコールで弾いてくれた、ナイーブでガラス細工のようなショパンのワルツ(変イ長調とのことでしたが何番?)はとても良かった。
(些か長くなりましたので、二つに分けて続きは明日へ回します)

 信州松本も秋が深まり、10月に入って最低気温が10℃を下回るようになりました。10℃を下回るようになると、晩生種のふじの着色が始まると言われている通り、だんだん赤く色付いてまいりました。

 今年は大震災や原発事故で、同じ“フルーツ王国”と言われる福島の果樹農家の皆さんのことを思うと心が痛みますが、せめて作りたくても作れない福島の皆さんの分まで頑張るしかありません。
幸いここ松本は、6月30日の震度6近い直下型地震や台風もリンゴには影響が無く、実りの秋を迎えつつあります。

 一方、昨年の猛暑の影響ではないかとのことですが、今年は一部の木の花付きが極端に悪く、当園でも例年に比べて収穫量の減少が予想されます。
例年同様、糖度が十分上がってからの11月中旬以降の収穫を予定しており、ここでH/Pからのご注文受付を開始させていただきます。

 毎年ご注文を頂くお客様から既に予約注文をたくさん頂いたこともありまして、当園は小さなリンゴ園ですので、既に特大と大玉は予定数に達してしまいまして、H/Pからの受付は中玉・小玉、ご自宅用(訳あり)のみとなりますが、何卒ご了承ください。
詳細は当園H/P上部の該当ボタンをクリックしてご確認ください。
何卒ご愛顧くださいますようお願い申し上げます。          -園主敬白

 10月中旬の週末。花の金曜日です。
夕方6時半に松本駅の改札に集合し、先ずは一目散に『キッチンヤマナミ』へ。
何故か電話が通じなかったので、事前に直接店まで予約に伺って、お客さんがいなければ7時前にも閉めてしまうというマスターに事情を説明し、この日は我々のために開けていただいてあり、しかも閉店時間を過ぎてもイイヨ!と了解までいただいてあります。

 Novaビルの地階にある店に伺うと、申し訳なくもお客さんは私たちだけ。
昔懐かしいメニューの中から、やはりヤマナミと言えば・・・ということでナポリタンは外せません。それともう一つ。「ヤマナミ風」は串焼きの車海老が載った豪華版ですが、4人で分けられないので、分け易いハンバーグが載った同じデミグラソース味の「ハンブルク風」にしました。なお、ベースの味付けは、他にカレー味(「インド風」)もあります。
2つのスパゲティーを4人で小分けしていただきます。ビールで先ずは乾杯。きっと夜のお客さんは少ないのでしょう。缶ビール(発泡酒)がストック2本だけとか。来てくれたからサービスでお代はイラナイとマスターが言うので、ちゃんと請求してもらうことにして、待つこと暫し。
普通盛なのに、大盛りと見紛うお皿が2枚。大盛りは+150円ですが、一体どれほどのボリュームになるのでしょうか?スパゲッティーには、自家製のポテトサラダとキャベツの千切りがレタスの上に載って添えられています。初めてのメンバーも興味津々(帰る時に精算すると、料金は2千円でした。安!)。

 早速、出していただいた小皿に2種類を小分けに盛っていただきます。
「いやぁ、懐かしいなぁ!!」
そう、麺は乾燥パスタではなく、このソフト麺。紛れも無く、この味、この食感です。ナポリタンと、甘めの自家製デミグラソースの掛かったハンブルク風。四半世紀どころか、もし結婚後に来ていたとしても30年振りでしょうか。
確か、昔はアルミ製?の金属のお皿だったように思いますが、今回は陶器のお皿だったのが唯一当時と違うところでしょうか。
果たしてメンバーの口に合うか、また見た目はモタレそうで、次もあるし大丈夫かなと思いきや、全く心配無用で、皆でキレイに完食しました(見た目ほどモタれることも無く、あればまだ食べたかも・・・という雰囲気でした)。

 現在の公園通り(パルコ通り)にあった当時のお店で、確かアスコットタイをしていたマスターもダンディでしたが、山に囲まれた田舎のハナ(洟)垂れ小僧の高校生にとっては、ヤマナミのスパゲッティーが(たけしやのヤキソバに比べれば)何ともオシャレで、まだ見ぬ海外を“舌で想像させてくれる”唯一の場所だったでしょうか(本当に、ハンブルグのスパゲッティーはこうなのだと当時は信じていましたから)。彼女のいない運動部系は、「ドングリ」よりも断然「ヤマナミ」派でした。
      
 マスターもお年を召されました。現在のお店が地下ということもあるのでしょうが、客で溢れていた当時と比べて何となく店内が暗く感じられます。今では松本にもパスタ専門店や本格的なリストランテまで、イタリア料理店が何軒もありますので、さすがに夜食べに来るお客さんはいないのでしょう。また、今の若い人もあまり来ないのかもしれません。もしかしたら、ナポリタンなんて食べたことないのかもしれませんね。
何となく高校時代を思い出し、甘めのソースなのに、あの頃との対比に、きっと私だけが何となくしょっぱくさえ感じていました。グスン。悲しいなぁ・・・。

ヨシ、“当時の高校生たち”を誘ってまた来よう!家内を連れて、週末のランチに来てみよう!
(懐かしさと、様々な想いが交じり合って、写真を撮るのも忘れてしまいました)

 そんな想いを胸に、ヤマナミを出て次の予約をしてある「楽珍」へ向かいました(「楽珍」は殆ど前話書いた通りでしたので割愛いたします)。
【追記】
キッチンヤマナミ。松本駅前大通(駅を背に「あがたの森」を正面に見て)右側。駅前から数えて3つ目の信号横にあるNovaビル(モカパフェのアベも1階に入居)の地階。
階段入り口に看板が出ていますので、この写真の看板を目印に探してください。駅から徒歩3分。皆さま、どうぞランチにお出掛けください。もし夜行かれるなら、6時くらいまでに入られた方が宜しいかもしれません。

 以前(第116&117話参照)行ったメンバーと駅でバッタリあったら、「またB級に連れて行ってください!」とのこと。
その後、職場のメンバーとも行った(第377話参照)のですが、「ホンじゃあ、未だ行っていない所に行って見ますかぁ!」
と相成りまして、9月は忙しいので10月に行くことにしました。

 とは言うものの、松本B級グルメの代表格「たけしや」は行ったし、山賊焼も他で食べたし・・・。唯一、前回も、また職場でも時間が合わず食べられなかったのが、「たけしや」と並ぶ松本B級のもう一方の“雄”、「キッチンヤマナミ」のスパゲッティーです(但し個人的感想です)。
これはパスタなどと言えるほどオシャレでもなく、スパゲッティーと言うよりも“スパゲッチィ”とでも呼びたいような、(少々大袈裟ですが)誰もが貧しくとも頑張っていた頃の愛すべき郷愁を感じます。当時の男子運動部系高校生御用達でもあり、その頃はオシャレで都会の香りがしたものです。
ただ、一ヶ所だけではしょうがないので、考えた末、職場の時にガッカリした「串揚げ(串かつ)」を、別の店でトライすることにしました。

 以前大阪へ出張した時に「今夜はA級?B級?」と問われ、迷わずB級を選択し、大阪平野で連れて行ってもらった本場の「串かつ」(今回、その時のお店を先方に聞いたら「いぬい」という串かつ屋さんとのこと)。その味と雰囲気(名物土手焼もありました)が忘れられません(また行きたいなぁ・・・)。
そこは、道路に面した側は壁もないオープンな「コの字型」のカウンターで、昔風に言えば“会社帰りのサラリーマン”に混じって、若い女性たちだけのグループや、カップルも、何の衒いもなく気取らずに美味しそうに食べているのが大阪らしくて実にイイ。ひっきりなしに持ち帰りのお客さんも。
前回行った店が、「これぞ本場大阪の味」などと宣伝したら大阪に失礼です。同じだったのは、野菜スティックとソースの二度漬け禁止くらい。そこで、松本のB級グルメではないのですが、松本でもこのくらい食べられる串揚げ屋さんがちゃんとあるんです! と行ってみることに。

 その店は『串揚げ処 楽珍』。
駅前大通りコーナーの小さなビルの地階にあるので、一見さんには見過ごされがち。まぁ、せっかく観光に来られて松本で「串かつ」という選択をされる人も少ないとは思いますが・・・。でも、マスターは銀座の専門店で修行をして松本で開業したとか。ネタの数は昔家内と時々行った新宿伊勢丹会館の「法善寺横丁 串の坊」程ではありませんが、その季節に合わせて常時50種類近くあるそうです。前回の店では、切って串に刺してありガックリだったアスパラも、こちらはちゃんと一本揚げ(アスパラに付ける衣は、他よりも濃くしておかないと付きません)。また、ただの固まりの素揚げだったレンコンも、ちゃんと肉を挟んで揚げてあります。他にも、エビのしそ巻きとか、串の坊でもお馴染みのメニューも。
大分前になりますが一度家内と来て、店内もチョッピリ高級ぽくて、大阪並みとはいかないまでも、本格的でかなり満足しました。そういう意味では、庶民派の串かつと言うよりも、プチ高級な串揚げなのかもしれません。

 そこで、今回は先ずヤマナミでナポリタンのスパゲッティーをメンバーで小分けして食べ、その後で楽珍の串揚げを食べられるだけ注文することにしました。

 チロルとナナの散歩コースの一つ、「蟻ヶ崎台」へ上っていく坂の途中の畑に長芋(山芋)が栽培されています。
あと1ヶ月近くもすれば茎や葉が茶色く枯れて、長芋が掘り出されることでしょう。

 全国的にも有名な産地である松本市郊外の山形村は、砂地で曲がらずに伸びるので長芋の栽培に適しています。長芋畑が広がる山形村では、さすがに機械掘りがされているそうですが、長い物は1メートル近くにもなりますので、この畑も10本足らずではあっても、人の手で掘り出すのはかなりの重労働です。

 さて、その長芋の茎に小指の頭大くらいの豆のようなもの(球茎)がたくさん付いていますが、これが「むかご」。
「零余子」という漢字を当てますが、知らないと読めませんね。一般的には余り見向きもされませんが、これが食べられるのだそうです。「むかご」自体は子供の頃から知っていて、投げたりして遊んでいましたが、これが食べられるとは知りませんでした。
写真の真ん中くらいに、緑の葉の中に黒っぽい「むかご」が写っていますが、分かりますでしょうか。



 何年か前に市内の和食料理店(「一鳩」)のコースに、〆で「むかご飯」が出され、生まれて初めて食べました。
家内には不評でしたが、長芋と言うよりも、むしろ蒸かした小粒のジャガイモのようで、やや苦味があり乙な味ではありました。
ただ、炊き込むよりも、煮っ転がし風に醤油と砂糖で苦味を残しつつ甘辛く味付けた方が美味しいのでは?と思いましたが、さすがにお店には出回らないようです。

 この「むかご」、捨てるのが勿体無いほど栄養価は高いのだとか。これも、秋を感じさせてくれる味でしょうか。

 午前中は農作業をして、午後から買い物や郊外の園芸店回りなどで遅くなりそうだったので、この日の夕刻はどこかで外食することにしました。
奥様からは「久し振りにバサラでもイイわよ~!」とのありがたいお言葉ながら、今回はどうしても「焼鳥が食べたぁーい!」と“駄々をこね”、渋々の承諾を得て、向かった先は駅から歩いて北へ5分ほどの、女鳥羽川近くの炭火焼鳥『正ざわ』。
7時頃でしたが、カウンターに数席を残してほぼ埋まっています。私たちの後に来られたご夫婦で満席です。女性客も多く、混んでますな。
 焼鳥では、上諏訪に「東京新橋に持って行っても恥ずかしく無い」(?)ほど(旨さの“例え”のつもりですが、実際に昔東京から来られた方がそう誉めてくれました)の断然美味しいお店があったのですが、移転拡張し(過ぎ?)て、残念ながら別の店かと疑うほどに味が落ち、足が遠のいてしまいました。
あれ程の店は他に無く、焼鳥からは縁遠くなってしまいましたが、遂に我慢ならず松本でと探して、通勤途上で気になっていたこの店にした次第。
松本には他にも昔から評判の焼鳥屋さんも幾つかあるのですが、女性が安心して入れる(内装や雰囲気の)店となると焼鳥屋さんの場合は限られます。

 一品でサラダや厚揚げ焼きと、メインの焼鳥は飯田産という「ぎたろう軍鶏」セット(5串+生湯葉で1380円)を二人分注文。焼鳥は、客が食べ終わるのを確認しながら、一品ずつ焼いてくれます。
この日は、ワサビを塗ったモモに始まり、手羽、ネギ間、レバー(事前に食べられますかと確認が)とつくね。

塩のレバーが美味しかったので、タレも追加。個人的には、もう少し生っぽくてもイイかなと思いましたが、家内は絶対ダメとのこと。
ユッケ問題以降、世の中敏感になっているのでしょうが無いかもしれませんね。でも、松本でこれくらい食べられたら、合格でしょうか?

 その後も、会社の同期のメンバーと二人で金曜日に伺いました。
上諏訪の割烹や松本の居酒屋も含め、何軒か上げた候補から彼が選んだのが焼鳥でした。
事前予約して、今回も人数からカウンター席。暫くすると満席になりました。ここは女性客も多く、繁盛何よりです。小ちゃなお子さんを連れられた若いご夫婦が来られていたのが、イイですね。
5串セットの後で更に幾つか頼んだ中で、プチトマトの豚バラ巻きが、トマトが甘くて豚肉とマッチして美味でした。

 トマトは熱すると甘くなりますが、次女が卒業するまで神楽坂に住んでいた時に、「今回は焼鳥!」と頼んで連れて行ってもらった界隈でイチオシという焼鳥屋さん『鳥焼き 金太郎』(第225話参照)で、店の一番人気だったのも頷ける美味しさでした。

 時間のある週末に、早朝チロルとナナの散歩に行く近くの農道。
実った稲穂が黄金色の絨毯の様に拡がっていた田んぼも、すっかり刈り入れが終わりました。
岡田地区は、農家の高齢化と省力化で、JA(農協)に頼んでのコンバインでの刈り入れが主になりましたが、中には自家用米にするのでしょうか、昔ながらの天日干しのハゼを作る田んぼも見られます。

 そんな中で、脱穀も終わり、籾を採った後の稲藁を何束かまとめて円錐形の様に並べて干してある田んぼも見られます。
来年のリンゴ園や野菜畑に使うために、藁を干しているのですが、昔良くやらされたなぁ。果樹作りで稲作まで手が回らず、父の代で貸せてしまいましたが、我が家の田んぼでも昔は同様に干していました。懐かしいなぁ。

 コンバインでは、収穫と同時に藁は細かく裁断してしまいますので、機械化と共に余り見られなくなった光景ですが、刈り入れ、脱穀の後の秋の田んぼの風物詩。幾何学的な模様が田んぼに広がっています。

   尾崎喜八『高原詩抄』より第47編(昭和17年刊行)
       「美ガ原溶岩台地」   

   『 登りついて不意にひらけた眼前の風景に
     しばらくは世界の天井が抜けたかと思う。
     やがて一歩を踏みこんで岩にまたがりながら、
     この高さにおけるこの広がりの把握になおもくるしむ。
     無制限な、おおどかな、荒っぽくて、新鮮な、
     この風景の情緒はただ身にしみるように本源的で、
     尋常の尺度にはまるで桁が外れている。
     秋の雲の砲煙がどんどん上げて、
     空は青と白との眼もさめるだんだら。
     物見石の準平原から和田峠の方へ
     一羽の鷲が流れ矢のように落ちて行った。     』


 松本市内の学校では、小学校5年生で美ヶ原、中学2年生で北アルプス表銀座の燕岳(どうやら最近は学校によっては白馬方面など違う山もあるようです)に集団登山をする慣行です(因みに最終学年で修学旅行)。
私の時は美ヶ原への往路はバスで登り、山本小屋に一泊して(確か皆でカレーを作り、キャンプ・ファイヤーをして・・・。満天の星空の記憶が微かに残ります)帰路に王ヶ鼻から百曲がりを下って三城牧場まで歩く、という行程でした。
娘達も(10年ちょっと前ですが)昔と全く同じように、美ヶ原登山と燕岳登山を経験しました。因みに諏訪出身の家内は、中学生の時に八ヶ岳の主峰赤岳だったそうです。

 冒頭の「美ヶ原溶岩台地」は、東京出身ながら信州をこよなく愛した“山の詩人”尾崎喜八の代表作の一つです。また、彼には「田舎のモーツァルト」という詩があり、いつかその中学校にあるという詩碑を見に行って来ようと思います。因みにその時に音楽室から流れてきた曲は「トルコ行進曲」だったとか。また多田武彦が曲をつけた男声合唱組曲「尾崎喜八の詩から」もあります。そう言えば、娘たちの母校、信大附属松本中学校の校歌も作詞は尾崎喜八だったような・・・。

 さて、文中に「秋の雲の砲煙」とありますので、この詩を書いた時の喜八は、きっと秋の紅葉の時期に、三城牧場からその百曲がりを登って行ったのでしょう。季節は春ですが、別の詩(「松本の春の朝」第72&456話参照)でも、三城へ向かう始発のバスを待つ松本駅前の様子を書いています。

 美ヶ原は、松本からの遠景では台形の上辺しか見えないことから、王ヶ鼻越しにテレビ塔が肉眼でも見えるその向こうに、標高2000m級の広大(南北約10km、東西約8km)な台地が広がるとは想像すら出来ません。
一方、(松本からは)裏側の上田・佐久方面からはなだらかに続く丘陵(と言っても2000m級)が望めます。
因みに、我家からは、城山々系に遮られて北アルプスの峰々は全く望めず、代わりに美ヶ原や鉢伏と言った東山を毎朝眺めています。
(写真は、このところ霞んでいてキレイに見えないので、以前撮った中から、季節は2年前の冬ですが松本駅から駅前大通り越しに見える美ヶ原と、H/Pでも使用している岡田からの秋の東山々系。中央で台形の頭だけ出ているのが美ヶ原です)

 登りついて、突然目の前に広大な台地が開けた時、「世界の天井が抜けた」という表現はまさに至言。そして、2000mの「この高さにおけるこの広がり」は、確かに直には理解できない気がします。
また、実際台地に立ってみると、谷へ「鳥が落ちていく」というのも実感として納得できます(この詩は「美しの塔」に刻まれています)。

 因みに「美ヶ原」というちょっと不思議な名称は、山岳研究のパイオニアと言われる日本山岳会初代会長の木暮理太郎が命名し、日本山岳会の会報に掲載(大正10年=1921年)されて広まったと言います。それまでは、東山とか王ヶ鼻と呼ばれていたそうで、一帯を表す呼称が無かったことになりますので、正に名付け親。

 今では、美ヶ原へは松本からもビーナスライン経由で(冬期間は閉鎖、且つ車の性能が試されるようなかなりの急勾配ではありますが)小一時間で行けてしまいます。

 10月に入り、週末娘のところに上京した家内を夕刻松本駅にナナと一緒に迎えに行くと、上高地か、乗鞍か、或いは美ヶ原か、皆さんトレッキングを楽しんでこられたであろう中高年のツァーの方々や、登山帰りの大きなリュックを背負った若者たちが、たくさん駅のコンコースにいらっしゃいました。
山ではもう紅葉が始まっている頃でしょうか。

 海外赴任から帰任後、母屋の横に別棟として家を建ててから15年弱。さすがにアチコチくたびれてきました。

 ここに来て、相次いで家電製品が寿命を迎えました(毛が抜けるチロルのために毎朝の必需品の掃除機だけは早4代目)。
先ず、ビルトインのオーブンレンジ。電子レンジだけが壊れてしまいました。いずれIHにしたいとのことで、今回はビルトインタイプではなく単体のレンジを購入することに。
電器店の店員さんの話では、オーブンが使えるならガスオーブンの火力には敵わないので、そちらを使った方が良いとのアドバイス。娘たちが帰省して来れば家内がローストビーフや、Xmasには私が丸鶏を焼いたりするので、今回はオーブン無しの単機能の電子レンジを購入。

 また同じく新築以来使っていた冷蔵庫が、ドアの取っ手のプラスチック部分だけが割れてしまい、手を添えないとドアが閉まらなくなってしまいました。
今の製品は、家電に限りませんが、軽量化やコストダウンのためにプラスチック部品などはかなり薄くしていますので、昔に比べて色々な性能は上がっても、逆に強度や耐久性は落ちているような気がします。
ただ家内に依れば、15年近くも使ったなんてかなり物持ちが良いとのこと。でも部品交換すれば(ありさえすればネジ止めだけなので、素人でも簡単に直せそうです)まだ十分使えるのですが、メーカーのH/Pを見てもさすがに15年前の型番は載っていませんでした。確かに家内が大事に使ったので、中も全く汚れておらず新品同様です。勿体無いなぁ。
子供たちも巣立って平日は二人だけなので、この際省エネタイプの少し小さ目の冷蔵庫に替えることになりました。週末、幾つかの家電量販店を見比べて、気に入った製品が見つかったようですが、「うーん、もうちょっと考える・・・」
9月上旬に家内が娘のところに上京した折、同じ量販店の新宿店で、同じ製品がたまたまタイムサービスで更に安かったから注文してきたとのこと。
「あっそう、そりゃ良かったね・・・」
先日、運ばれて来て無事新旧交替と相成りました。
代わりに運ばれて行く15年間頑張ってくれた旧型に、何となく「お疲れさま!」。

 そして、今度は電子レンジ用に、レンジの上の空間部分を棚に利用するという整理棚を通販で注文したとのこと。
お待ちかねの棚が届いて早速組み立ててみると、食パンを焼く時などに使っている小さなオーブントースターの厚みでは上手く入らないとのこと。
「それじゃ、意味無いじゃん!」
「うーん、そうなんだよねぇ・・・」
そこで、今度はもっと薄型のオーブントースターを会社帰りに買って来たそうです(薄型は、一般的なのに比べて値段が倍近くしたのだとか)。
「うん、今度は大丈夫!ああ、スッキリしたぁ。」と、ご本人は至極ご満悦。
うーん、何だかスッキリしないなぁ・・・。

 最近、松本でも庭木として金木犀が植えられているのを時々見かけます。
見かけるというより、10月くらいになって、どこからともなく香しい芳香がして、周囲を見渡すと金木犀が植えられていた、という感じでしょうか。
 写真は、母屋への通路沿いの、お隣のお宅に植えられている金木犀。オレンジ色をした米粒ほどの細かな花が満開を迎えています。
金木犀は花木としては見て楽しむ木ではなく、香りを楽しむ木。そのためか、目立つ所ではなく、庭の隅などにひっそりと植えられていて、どこからか風に乗って芳香が漂ってくる感じがします。
そういう意味で、花の咲いた時以外は目立たぬ可哀想な木ですが、この時期だけは周囲の耳目ならぬ“鼻目”を集めて、小さな花も心なしか誇らしげ。

 少なくとも、子供の頃の記憶の中にあの香りは出てきませんので、どちらかと言うと西日本などに多い暖地系の木だと思っていましたが、これも温暖化と関係があるのか、信州でも最近は時々見かけるようになりました。

 私が、初めて金木犀の香りに出会ったのは、京都での学生時代。
合唱団の部室があった、学内の古びた「学生会館」への通路沿いに、3メートル近くもありそうな金木犀の巨木?があり、10月になると(京都ではもう少し遅かったように思いますが)むせ返るような芳香が周囲に立ち込め、初めて金木犀なる存在を知りました。

 私にとっては、「青い檸檬の味」ではなく、「甘酸っぱい」ような金木犀の香りが学生時代を思い出させてくれる、言わば「青春の香り」です。

10月、何となく京都の街中が金木犀の香りに包まれていたような印象があります。

 毎週日曜日のBSプレミアムで、早朝6時から放送されているプレミアム・クラシック。
9月18日、早朝チロルとナナの散歩から戻って、何気なくTVを点けたら、「特選オーケストラ・ライブ」として、クリストフ・エッシェンバッハ指揮パリ管弦楽団のライブが放送されていました。

 エッシェンバッハは、元々人気と実力を兼ね備えたピアニストですので、弾き振りのモーツァルトの協奏曲は当然として、この日(首席指揮者を務めていた2007年と2010年の演奏会の録画のようでした)の放送のメインは、大好きな(と言っても、LPやCDのみで、今まで生では聴いたことはありませんが)マーラーの1番『巨人』(これは2007年の演奏)。
昨年は、11月下旬からのサンふじ出荷の夜なべ仕事で、疲れてくると必ず最後に聴いて毎夜元気をいただいた曲でした(第393話参照)。
 若い頃のようにLPやCDを全く買っていないので、最近のクラシック音楽事情は分かりませんが、パリ管と言えばミュンシュやクリュイタンスの『幻想』が思い浮かびます。
 それにしても、エッシェンバッハが、長髪を綺麗に分けて貴公子然とした端正なピアニスト時代から、いつの間にかユル・ブリンナーばりの(それにしても我ながら例えが古いですね)スキンヘッドだったのには些か驚かされました。(逆に指揮振りは、風貌から受ける印象も加わり、非常にエネルギッシュ)

 しかし、この日も巨峰を朝採りして発送しなければならず、(幸い私メはスキンヘッドではないので、まだある)後ろ髪を引かれつつ(しかし何故か録画まで頭が回らずに)農作業にブドウ園へ。でも途中で、どうしても我慢ならず最後の第4楽章だけを聴きに戻りました。

 いやぁ、ライブとは言え、派手な巨人にビックリしました。
パリ管らしい煌びやかなサウンドは当然としても、第4楽章のファンファーレなど、オーボエやクラリネットなどはノダメ・オーケーストラばりに時々上を向いて吹き、特にホルンは(これは楽譜の指示通りだそうですが)最後の部分のコーダで全員を立たせて演奏していました。
全楽章を聴いた訳ではありませんが、第4楽章はかなりゆっくりとした遅めのテンポで、アクセントを極端に効かせ、またテンポも揺らしながらの壮麗な演奏です。もし音だけを聴けば印象は異なるのかもしれませんが、地元局の絶妙のカメラワークで映し出される映像と相俟って、まさにカッコイイ!と唸らせる快演でした。賛否が分かれる演奏だったかもしれませんが、その場に居合わせた聴衆から、この演奏を“見て”ブラボーの声がアチコチから掛かるのもナルホドと頷けました。団員たちの演奏後とても満足そうにしている様子が印象的でした。

 ただ、個人的には、以前同じくプレミアム・クラシックで放送されたノリントン&N響定期での「巨人」が、とても温か味のある演奏で良かったですね。

 しかし、どこかのオケが来て、松本でもマーラーの「巨人」を演奏してくれないかなぁ・・・。絶対に聴きに行くのですが。

 今月下旬には、これまた生で一度は聴きたかったチャイコの5番を、佐渡裕&DSOで聴きに行って来ます。ムフ、楽しみ♪

 善光寺に隣接する城山公園に佇む、唯一の県立である長野県信濃美術館。ここで、飯田市出身である菱田春草の没後100年を記念する特別展が開かれていて、今回の長野行のお目当てです。

 春草晩年の傑作として有名な「黒き猫」や「落葉」(いずれも重要文化財)は細川家所蔵(永青文庫)で、残念ながら今回の展示には含まれていません(10月に京都国立博物館での「細川家の至宝展」で展示されるそうです)が、それでも今回の展示はその数120点という、如何に出身県とは言え、これほどまとまって春草の作品が見られるのは、地方では稀有のことでしょう。
今回は、岡倉天心を中心に春草が横山大観や下村観山等と共に新しい日本画を追い求め、「朦朧体」と呼ばれる輪郭に線描を用いない画法を確立する過程に焦点を当てた展覧会です(片や、彼等と共に四天王の一人として将来を嘱望されながら中央画壇から失踪してしまった、松本出身の西郷孤月を想います)。
東京美術学校(現東京芸大)入学後の作品から始まり、天心や大観等と行動を共にした茨城県の五浦(いづら)、病静養のため東京に一人戻った晩年(あの「落葉」は静養中に自宅周辺の雑木林を描いたものとか)まで、僅か36歳で夭逝した春草の足跡が見られます。
展示も、所蔵品のみならず、東京国立博物館や、地元長野の水野美術館(キノコのホクトの創業家の収集品を展示)、同時に春草展を開催中の飯田市立美術博物館、茨城近代美術館など、全国の美術館や所蔵家からも協力を得て今回のために集められた120点にも及ぶ作品が、3つの展示室に分かれて展示されていました。朦朧体への彼等の挑戦が、天心の「何とか空気を描けないか」という問い掛けがキッカケだったという解説が、時系列に並べられた作品を見て行くと何となく実感できます。

 その後、もう一つ見たかった併設の東山魁夷館へ。
画伯本人から長野県に生前に寄贈された取材スケッチ等を含む960点もの作品の中から、期間ごとにテーマを変えて展示されていますが、この時は「ドイツ・心の旅路」と題して、ドイツに取材した作品70点余りが展示されていました。
見たかった「晩鐘」と名付けられた、フライブルクの大聖堂の尖塔と紅に染まる街の夕暮れを描いた作品。
展示は習作とのことですが、オリジナル(諏訪市北澤美術館所蔵)よりも全体に紫がかった紅色で、個人的にはむしろ習作の方に惹かれます。見ていると、薄紫に染まる街に響き渡る鐘の音が、絵からも聴こえてきそうな気がします。
そして、ローテンベルクやハイデルベルクなど、30年近くも前ですが、新婚旅行で行ったロマンティック街道の懐かしい風景など。
山種美術館で見た「京洛の四季」とはまた違う、敬虔な祈りの風景がそこにありました。

 因みに入館の際に、両館とも観覧可能なチケット(1500円)を購入するとお得です。ただ、せめて展示作品のリストくらいは、手作りでも良いので配って欲しかったですね。

 双方とも、都会に比べればそれ程混雑しておらず、じっくりと間近に作品を鑑賞することができました。しかし、2時間近くの立ちっ放し。いやぁ、美術館や博物館の鑑賞って、思いの外足が疲れます。
でも、初秋の一日、東京まで行かずとも、信州縁(ゆかり)の画伯の作品を思う存分に堪能することができました。
 その後善光寺を後にして、門前らしく宿坊や仏具店に土産物屋さんなどが軒を連ねる仲見世のお店を覗いたり・・・。また途中には、七味唐辛子で有名な八幡屋磯五郎本店や、北野文芸座があり、落語や文楽のポスターが貼られていています。長野はイイですね、定期的に古典芸能が見られて。一度、寄席で生の落語を聴いてみたいものです。
ゆっくりぶらぶらと門前町の風情を楽しみながら、仲見世から大門通りを歩いて県町の「ふくや」に向かいました。
しかし、参拝客の賑わいも仲見世から大門までの参道のみ。一歩脇道に入ると、シャッターを降ろした商店が目立ち、人通りも余り無くその対比が際立ちます。
善光寺に着いた時は、ちょうど朝のお勤めが終わったのか、坊に戻られるお坊さんがたくさん歩いておられ、会釈しながらのすれ違いに、街に自然に溶け込んだような仏都らしい落ち着いた情緒が感じられたのですが・・・。
新幹線開業の逆効果で日帰り客が増えて宿泊客が減少し、駅周辺でもホテルが廃業したりと、三連休の観光シーズンなのに善光寺界隈を除いて街に余り活気が感じられませんでした。勿体無いなぁ。お坊さんとの触れ合いとか、せっかくの門前町(の持つソフト)をもっと活かすことはできないのでしょうか。そんなことを感じながら長野を後にしました。

 帰路も特急しなのに乗って、4時に松本到着。
三連休の最終日で、指定席は全て発売済みとのこと。自由席も混んでいました。往復の車中では遠方からの旅行客に囲まれて、そして善光寺さんにお参りし、念願の美術館とラーメンも食べて・・・。プチとは言え、旅行気分に浸った一日でした。
「さぁ、また明日から頑張りますかぁ!」。