カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
次女がこの春から社会人となって成田へ引っ越して、新居のワンルームがケーブルTVのため、PCでのTVの視聴ができなくなってしまいました。
長女が貸してくれた小さなワンセグTVしかないというのも可哀想なので、前夜新宿で購入した小型液晶TVと頼まれた節電対策用の扇風機を両手に提げて、早朝6時半に新宿から一人成田へ向かいました(我ながら親バカだなぁ)。
8時過ぎに到着した成田は、この日がちょうど「成田祇園祭」とか。
表参道には、屋台や商店の出店が両側に立ち並んでいます。おそらく成田山までずっと続いているのでしょう。そして、これから山車を曳きに行くのでしょうか、法被に捻り鉢巻姿のいなせな若い女性たちが駅から新勝寺方面へ表参道を足早に歩いて行きました。賑やかそうで、来年は是非見に来ようかな(家内はねぶたが見たいそうです)。
東北三大祭りだってちゃんとやるんだから、三社祭もやれば良かったのになぁ。日本中元気出さなくっちゃ!・・・と思います。
さて、我が家では家内がAV担当であることを知っている次女は、「ホントに、一人で大丈夫ぅ?」と訝しがりますが、「まっか(任)せなさぁい!」とマニュアル片手に奮闘すること30分(既に母宅の地デジ化も、6月に残りの2台の対応を経験済みですので余裕です)。
無事両方の組立とTVのセッティングを終わらせて、段ボール箱も潰して紐で縛って片付けて全て完了。ベランダで一息つかせてもらっていると、遠くからヨイショ、ヨイショという掛け声が聞こえてきます。お祭りが始まったのでしょうか?
残念ながら、我々は表参道を成田山に背を向けて、電車で次女と一緒に長女たちと家内との待ち合わせ場所、今度は東京青山の表参道にある「PARIYA」というデリカテッセンの店へ向かいました。
次第に車内が込んで来て、やがて席が一杯になり、途中駅で乗られたオジイちゃんが目の前を通り過ぎて少し離れたところで立っています。乗客は、誰も気にも留めません。
席を譲ってあげようか、どうしようか、5メートルも離れているし・・・、と躊躇していると、隣に座っていた若い女性がすくと立って、オジイちゃんのところまで歩いて行って何か話して、どうやら席を譲ってあげたようです。オジイちゃんはお礼を言って座ります。
「エライなぁ、若いのに・・・。」
そんな風には見えませんでしたが、最近の都会の若者も捨てたモンじゃないですなぁ。
学生時代に好きだった、吉野弘(混声合唱曲「心の四季」や「祝婚歌」などの作詞)の詩が頭に浮かびます。
『夕焼け』 吉野弘(詩集『幻・方法』より)
*行数を減らすために、改行はオリジナルと変えてあります
いつものことだが 電車は満員だった。
そして いつものことだが
若者と娘が腰をおろし としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に 横あいから押しだされてきた。
娘はうつむいた。しかし 又立って 席を そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることは と言う通り 別のとしよりが娘の前に押し出された。
可哀想に 娘はうつむいて そして今度は席を立たなかった。
次の駅も 次の駅も 下唇をキュッと噛んで 身体をこわばらせて―。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて 娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持ち主は いつでもどこでも われにもあらず受難者となる。
何故って やさしい心の持ち主は
他人のつらさを自分のつらさのように 感じるから。
やさしい心に責められながら 娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで つらい気持ちで 美しい夕焼けも見ないで。
結果として席を立たない人間には、3つのタイプがあると思います。
全く意識の中に無い人、気付いても気にしない人、そして気になっても立てない人。
分かってはいても、勇気が無いと人間優しいだけではなかなか立てないもの。でも立てないでいると、今度はそんな自分を責める別の自分が現れます。
そう、立てない方が、時として「どうして自分は立たなかったんだろう?」と、後まで自己嫌悪を引きずる分だけ苦しいんです。弁解がましいですけど・・・。
そのすくと立った隣の若い勇気ある女性は・・・何と、次女でした。
親としてではなく、勇気が無く「立てなかった人間」として感心した次第。
親としては、いつまでもヒヨコだ、雛だと思っていても、ちゃんと巣立って成長しているんですね。
じゃあ、TVだなんて親バカで買わなくても良かったなぁ・・・。
ん?それはそれ、コレはコレ?あっそう。
以前にも書いたのですが、本業のグラフィックデザインよりも、“いい酒、いい人、いい肴”をモットーに「居酒屋評論家」の方が有名になってしまった「居酒屋放浪記」の太田和彦氏(因みに、「吉田類の酒場放浪記」という番組がBS-TBSで放送されていますが、「居酒屋放浪記」の方が先達です。また、居合わせた人たちとワイガヤで飲む吉田氏に対し、太田さんは一人酒場で静かにじっくりと呑む、という感じですね。特に“いい酒、いい人、いい肴”に出会った時の視線の暖かさが心に染みます)。
さて、我がバイブル『居酒屋放浪記』(新潮文庫)の中(第1巻「立志編」)で、故郷松本をいつもの帰省ではなく取材先として訪れ、昔懐かしい「塩イカ」を探す件(くだり)があります。
福井県の港町で見つけて買おうとしたら、「こんなもの、信州人しかよう食わん!」と言われガックリしたとか、どこの居酒屋でも見つからず、諦めて最後〆で入った小さな無愛想な店(「草枕」)で、お通しで出されて感激し、お代わりを頼んだら、無言で今度は山盛りで出てきたことなど(第5話参照)。
塩イカは、生イカが流通できなかった時代の山国信州では、日持ちするように茹でて塩漬けにしたイカしか食べられなかったことに由来します。
この塩イカ。そのままでは塩辛くて食べられないので、必ず塩抜きをします。そして、これをキュウリの輪切りと、ただシンプルに醤油で和えただけのものが、本来の“正統派”「塩イカ」です。松本ではキュウリの採れる夏の冠婚葬祭などの自宅での客呼びの際、昔は必ず出された定番料理でした。
子供の頃、母の実家のお盆に名古屋から帰省して来た新宅の叔父が、何が食べたいか聞かれて「塩イカ!」と即答していましたが、今なら分かる気がします。松本でしか食べられませんから(正確には「食べない」?)。
流通が発達し、今では信州でも生きたイカが食べられる時代。塩イカは信州の食卓から姿を消しましたが、今でも細々とは言え、ちゃんと地場のスーパーで売られていて、居酒屋でも時々郷土食としてメニューにあるのを見かけることがあります。
松本市内では、「草枕」以外でも、例えば「蔵のむこう」や「御代田」などの何故か蕎麦居酒屋に、この「塩イカ」が一品メニューとしてあり、これまでも時々懐かしくてオーダーしました。でも、ちょっと違うんだよなぁ。キュウリが細切りだったり、酢の物仕立てだったり・・・。
先日、いつものスーパーへの食料品の買出しの際、昔ながらの“丸”の塩イカの他に、塩抜きをして輪切りにカットされた塩イカがパック詰めにされて売られていて、これなら家で手間を掛けなくても良い(塩抜きは結構時間が掛かるようです)ので、何となく買ってしまいました。
醤油ではなく、居酒屋のようにポン酢でもイイかもしれませんし、ツユの素を使ったり、胡麻油を少し入れて中華風にしても良いかもしれません。
しかし、松本の“正統派”塩イカは、ただシンプルに醤油のみ。
家内は気色悪がって(どうやらゲテモノを見るような雰囲気で)食べませんが、昔懐かしい素朴な味です。
小分けにしたのに、結局一人で全部平らげてしまいました。うん、満足、満足・・・。今度、お袋にも作って食べさしてあげヨっと(ところが、入れ歯では食べ辛いとのこと。そりゃ残念)。
因みに太田和彦氏の『居酒屋放浪記・立志偏』での題は、「松本の塩イカに望郷つのり」。懐かしき郷愁の味です。
我々、生粋の“松本っ子”が当たり前と思っていても、県外から来られると驚いたり意外だったりすることも多いようです。そんな話題としてお送りします。題して「信州松本“ぶったまゲーション”」。
松本の住人は(当然のことながら)全く感じないのですが、県外から松本に来ると、当初景色に「違和感がある」のだそうです。
会社の同期の連中曰く、(今や彼等もすっかり松本の住人になりきっていますが、入社当時は)「予想している視線のさらにまだ上に山があって気持ちが悪い」と。因みに彼らは(信州人の私メからすると)「ぼやけた山」ばかりの関西から。
また、別の方は県外ではなく北信の中野市のご出身ですが、当時は高校の教頭先生で松本に単身赴任をされていました。
週末、中野のご自宅に帰られて、また松本に車で戻られてくる時に、長野道の明科トンネルを抜けると右手に常念を始め北アの峰々が目に飛び込んでくるのですが、慣れるまでは「何とも圧迫感があって、息苦しさを感じた」のだそうです。
そう言えば、以前会社の部下から、奥さんが東京から諏訪に転勤で移って来られた時に、周囲が山に囲まれていて「空が狭いために、ノイローゼになりそうで心配なんです。」と真顔で言われたことがありましたが(幸い、その後諏訪よりも「空の広い」松本平に家を建てられて移られました)、なるほど余所(平地)から(山国へ)来られると感じ方も違うものだと妙に感心したことがありました。
もしこれが、更に空が狭い木曽谷だったら一体どうなってしまうのでしょうか。
山国信州人の私などは、海を見ると“だだっ広い不安定な空間”に何となく落ち着かなく感じるのですが、それとは逆の感覚なのでしょうね。
松本駅に降り立ち、改札を抜けてアルプス口の大きな窓越しに、北アルプスのシンボル常念が出迎えてくれます。そして常念の左肩越しにはチョコンと盟主槍の尖頭も(梅雨明け後も山並みから、なかなか雲が取れず、写真は城山々系と松本駅アルプス口広場から昨年秋口に撮影した北アルプスおよび夏の常念岳です)。
余震もすっかり治まりました。本格的な夏山シーズンを迎え、“北アルプスの玄関口”松本駅は登山客で賑わいを見せることでしょう。
どうぞ、朝晩の涼しい信州松本へお越しください。
町屋の続く京の街並みに、しんしんと雪が降る大晦日の情景を描いた東山魁夷画伯の傑作-「年暮る」。
先日、NHK-BSプレミアム「極上美の饗宴」で3回に亘り東山魁夷が取り上げられていた中でも、この作品が紹介されていました。
この「年暮る」は、画伯が生前に多くの作品をまとめて寄贈した東京国立近代美術館でも長野県信濃美術館(東山魁夷館を併設)でもなく、また画題に縁の京都でもなく、東京広尾にある山種美術館に収蔵されていて、今回『美しき日本の原風景』と題した企画展で展示されているとか(今週末の24日まで)。
ちょうど娘たちのところに上京する機会があり、時間をやり繰りして実物を見に行くことにしました。
ちょうど東京では、国立西洋美術館で「大英博物館 古代ギリシャ彫刻展」も開催中。昔教科書で見た「円盤投げ」にも後ろ髪を引かれつつも、初志貫徹と恵比寿に向かいました。
山種美術館-山種証券の創業者である山崎家が収集した、近代を中心とする日本画専門の私立美術館。若い頃はルーブルやオルセー(3回は行ったかな?)などの西洋画が好きだったのが、齢を重ねた今は何故か日本画に心惹かれます。
以前朝日新聞の「Be」で紹介されていた三代目山崎館長の言を借りれば(西洋画との違いを問われて)、余白を活かす日本画の特徴は「何を描くかではなく、何を描かないか」なのだそうです。ナルホド、深いなぁ。捨てる美、或いは切り取る美とでも言えば良いのでしょうか。国立博物館で見た等伯「松林図屏風」が思い出されます。
新宿から山手線に乗り、お上りさんには渋谷よりも分かり易かろうと、恵比寿駅から(歩くのが大嫌いな奥様故)バスに乗り二つ目の停留所。広尾高校の対面のビルの1階が美術館ロビーで、地下が展示室。温度と湿度管理上、地階が好適なのだそうです。
『美しき日本の原風景』展。
先ず、川井玉堂、奥田元宋の風景画が並びます。
「元宋の赤」と称えられる契機となったという東北の紅葉を描いた「玄溟」に圧倒され、雪の松島を描いた「松島暮色」に魅せられ、震災後の松島に想いを馳せます。
そして、お目当ての東山魁夷の連作「京洛の四季」。今回は春夏秋冬の4枚が一堂に会して展示されていました。
特に念願だった「年暮る」。
河原町御池に建つ旧京都ホテルから眺めた町並み(東山方面でしょうか:追記)だそうです。大晦日、しんしんと降り積もる雪が包み込むような、京の町の静寂の中に、確かに染み入るように除夜の鐘が絵から聞こえてくるような気がします。
暫くの間、その前から離れられませんでした(離れた後もまた戻って、「玄溟」・「松島暮色」、そして後述の「秋彩」と共に結局3度鑑賞)。
「京洛の四季」は、川端康成から「京都らしさが失われてしまわない内に、是非京都を描いて欲しい」と勧められて、東山魁夷は春の洛北鷹ヶ峰の「春静」と冬の「年暮る」を最初に描き、その二点を購入していた山種美術館の創立10周年と20周年に合わせて、残りの夏の修学院離宮の庭園を描いた「緑潤う」と、最後に秋の小倉山をモチーフに「秋彩」を描いて、京都の四季が完成したと言います。
「秋彩」は青い小倉山を背景に赤と黄色の紅葉の対比が鮮やかです(写真はギャラリーショップで購入した色紙から)。
鑑賞後、ロビーの喫茶コーナーで、今回の展示に合わせた和菓子(奥様のチョイスは、奥田元宋の大作「奥入瀬春」をモチーフにした銘「水のほとり」と伊東深水の「富士」からの同「はごろも」)とお茶のセットを頂きました。なかなか風流ですね(興味ある方は山種美術館のH/Pから見ることができます)。家内はお抹茶、私は珈琲(京都スマート珈琲・・・拘ってます)。
“絵よりも団子”とばかり、和菓子一つでは足りないと、二つとも私メに味見用の一欠を残して奥様が頂きましたが、至極満足そうで何よりです。ま、付き合ってもらったお礼で、宜しいんじゃないでしょうか。
奥様曰く、「上野の国立博物館とかは広過ぎて疲れるけど、ここは新宿からも近いし、こじんまりしていて丁度イイ」のだそうです。でもお上りさん的には、一度にたくさん見られる方がイイんですがね。
なお、次回の山種美術館の企画展は、『日本画どうぶつえん』と題して近代日本画の傑作、竹内栖鳳「班猫」(重要文化財)と速水御舟の「炎舞」(重要文化財)が特別展示されるとか。花鳥画に留まらず、昆虫にまで題材を拡げていった日本画。確かに蛾も動物です。
斑猫(はんびょう)が前半で、炎舞は後半展示。うーん、ズルイなぁ、一緒に展示すればイイのに。でも、見るなら炎舞かなぁ。妖艶というか凄みすら感じますもの。
帰りは余韻を楽しみながら恵比寿までゆっくりと歩きましたが、ずっと下り坂。駅までは僅か800mとは言え、特にこの猛暑の中では、家内でなくとも駅からはバスで正解だったかもしれません。
【追記】
この絵の上部に描かれたお寺の屋根。町屋の続く街並みだけではなく、この大屋根が京都らしさを更に醸し出しているような気がします。どこのお寺さんなのか?学生時代、京都に住んでいただけに気になります。
どうやら、河原町御池の京都ホテル(現京都ホテルオークラ)から東山方面(南禅寺の方角)を見ての線上にある「要法寺」ではないかとのことです。確かに学生時代、鴨川の左岸(東側)には絵の邪魔になるような高いビルは無かったような気がします。要法寺は日蓮宗の本山とのことですが、学生時代も残念ながら訪ねたことはありませんので、観光的には必ずしも有名なお寺さんではなさそうです。
但し、BS「極上美の饗宴」で3日目の風景画の時に取り上げられていた「光昏」(こうこん)は、野尻湖から見た黒姫山と箱根の紅葉の2つの風景を重ねたものだと解説していましたので、「年暮る」も、画伯は(当然かもしれませんが)必ずしも見た通りに描いている訳ではなく、景色を通じて自身のイメージを描写したのかもしれません。ただ、「京都らしさを描いて欲しい」という川端康成の希望をふまえれば、その時代に見た“京都そのもの”が描かれているのではないか・・・と思います。絵の一番下の道路に、雪の降る中を走る車が描かれているのも臨場感を演出しています。
7月16日。家内が娘たちのところへ上京し、汗だくで農作業を終え、風呂上りでのビール片手にほっと一息。
何気なくTVを付けると、NHKで祇園祭の宵山のライブ中継をしていました。歩行者天国の四条河原町から始まり、灯が入った提灯に照らされた長刀鉾を皮切りに鉾や山が次々と紹介されています。
コンチキチンというお馴染みのお囃子の音。町屋での「チマキ、どうですかぁー」という町内の子供たちの声。
懐かしいですね。通りを埋め尽くし身動きも出来ないほどの人出の中で、こちらはTV桟敷に居ながらにして、宵山の雰囲気を35年振りに懐かしく思い出して暫く見入っていました。
私の学生時代でも既に宵山はもの凄い人出のため、一度で懲りて、行くにしても宵々山、更に宵々々山と次第に前倒ししていったような気がします。
夏の京都の風物詩、祇園祭の直接の起源は、今年の震災で話題となった貞観地震のあった869年(貞観11年)とか。
怨霊の祟りにより都では疫病が流行し陸奥では大地震などが起こったため、鉾を立てその鉾に怨霊を集めて鎮めるために始まったと聞き、その巡り合わせに何だか感慨深いものがありました。
今年は震災を受けて、この国の安寧を祈るべく特に熱が入っているようにも画面から感じられます。
囃し手の方がインタビューに応えて曰く、10歳の息子さんが今年お稚児さんを務められると話しながら、ご自身も10歳の時に稚児を務めたと紹介されていたのが、さすが京都だなぁと感心した次第。
一方で、町内によってはマンションが立ち並び、古くからの住民は少子高齢化で小学生が一人しかおらず、そのため余所から移ってきたマンションの住人や子供たちが町内のお婆ちゃんから指導を受けて、今や立派に祭りの担い手とか。形を変えながらも、親から子、子から孫へと、子々孫々と1000年以上ずっと伝承されてきたお祭りです。
千年の古(いにしえ)の都と言いますが、千年前のことも、千年前の人も、それこそまるで昨日のことのように、また親しい知り合いのように、当たり前に語られ行なわれているのが京都の凄いところ。長年帝を守ってきた町衆の心意気なのでしょう。
京都の人々にとっては「ホンのちょっと、東京に行かはってるだけや。何しろ千年もの間、ずっと京が都だったんやから。」ということなのでしょう。
祇園祭のハイライトが翌日の山鉾巡行であるにしても、“らしさ”はやはり夜の宵山、宵々山ではないでしょうか。
宵山の様子をTVで見ながら、千年とはいきませんが、35年前が昨日のように思えてきました。
コンチキチン、コンチキチンと宵山の京の夜が更けていきました。
何度かご紹介した、今年の我が家の家庭菜園。
ナスは例年に比べて生育不良のような気がしますが、キュウリはグングンと伸び、6月下旬から毎日のように収穫出来るようになりました(写真は初モノのキュウリです)。
ハーブガーデンの方では、今年は何故かバジルが全く生長しませんが、8株植えたルッコラは余るほどです。
キュウリは、気を付けていないとすぐに大きくなってしまいますし、ナスやトマトと違って葉や茎と同色のため(キュウリもそのまま木において熟すと黄色くなりますが)葉陰などに隠れていて見落とすと、30cm超のオバケキュウリになってしまいます。
我が家では、キュウリは市販品ほど大きくしないで、人差し指大、或いは親指大くらいの太さで収穫し、モロキュウとして食べるのが好み。大きくなったキュウリに比べて、パリパリ感というかシャキシャキ感というか、歯応えがまるで違います。自家栽培ならではの贅沢です。
大きくなったのは、刻んでサラダや冷やし中華、或いは「忍び瓜」に。また母は揉んだり浅漬けにしたり。ヨーシ!今年は松本名物?の正統派「塩イカ」でも作ってみようかな?
トマトも、木は大きく成長しました。ミニトマトは、既に色付き何度か収穫しましたが、普通のトマト(サターン)も大きくなってきましたが、まだ大半は青いまま。もう少し時間が掛かります。ここで、木によってはまだ青いトマトの肌に黄色い斑点が見られます。雨のせいか、どうやら病気が入ったようです。うーん、トマトは難しいなぁ。
ナスは木の伸びは足りないものの、少しずつ収穫開始。
ピーマンもだんだん大きくなってきました。奥様が「これ、シシトウじゃないの?」・・・ピーマンじゃい!
今年は娘たちにも送ってあげられるようにと、どの野菜も例年の倍の本数を植えましたが、どうかなぁ?
キュウリに続いてナスやトマトも、いずれ続々と採れる・・・筈・・・なのですが、トマトは傷み易いので、どっちにしても送れないから、ま、イイかぁ。
そこで、上京の折、朝採れのキュウリとナスやピーマンに、ルッコラも摘んで、それぞれ2つに分けて、半ば押し付けで娘たちに渡すべく持っていきました。
良く、都会に暮らす子供たちに田舎の両親から野菜が届くCMがありますが、こちらも似たようなもの。すっかり“田舎の親”してますなぁ・・・。
【追記】
やりました、なでしこジャパン!しかし、W杯優勝ですよ、凄いですね。
『夢は叶えるためにある』と澤選手。名言です。まさに執念のダイレクトボレーでした。しかし、あんな筋書き。サッカーの神様は一体何を考えているのか。久し振りに日本に元気と勇気を与えてくれた、これも天の配剤なのでしょうか。
なでしこジャパン、見事ドイツで咲きました。こじ付けがましくも、我家の花壇に咲いた「なでしこ」です。
6月30日に発生した、松本市南部を震源とする直下型の震度5強の地震の影響が、当初確認された被害以外にも、色んなところに現れているようです。
阪神大震災にもびくともしなかった五重塔同様に、今回の地震にひび割れ程度で持ちこたえた松本城の堅牢さが地元で話題となる一方で、松本市島内にあるザ・ハーモニーホール(松本市音楽文化ホール、通称“音文”)のメインホールの天井の一部が損傷し、当初は7月の公演が延期と報道されていましたが、その後の検査で、もっと被害が大きく、このままでは、もしまた地震があると天井の一部が崩落する危険があり、音響も悪化するとのことから、ここで耐震補強と定評のあった音響(残響時間2.0秒!)の良さを両立させるべく、来年度一杯(2013年3月)までを掛けて、天井の設計をし直した上で全面改修をすると発表になりました。
『“楽都”松本の拠点として、ホールを蘇らせるためにも、きちんとした改修が必要』という菅谷市長の説明も理解はできます。
従って、音文のメインホール(小ホールは被害無し)で予定されていた今年度の全ての公演が、一旦ここで未定となってしまいました。
楽しみにしていた9月のブルーノ・ゲルバーのピアノリサイタル(チケット購入済み)や、ここでメイト向けに先行発売予定だった10月のOEKの第6回松本公演は一体どうなってしまうのでしょうか?金沢とは友好都市なので、毎年OEKは来演しており、多少の変更があっても中止にはしないと思いますが。同じく市で運営する市民芸術館で代替されると良いのですが、音文が756席、市民芸術館が1800席と座席数も全く異なりますので、どうなりますことやら。
ハーモニーホールでは、例え大向こう受けするような華やかさはなくとも、クラシック音楽ファンにとっては、いぶし銀のように渋く魅力的なコンサートが多かっただけに、ハーモニーメイトの一人としては大変気になるところです。市民芸術館に変更して、空席ばかりでは演奏者の方にも失礼ですし・・・。
【追記】
今回を持ちまして、ブログ掲載500話となりました。日頃、ご愛読いただきまして、誠にありがとうございます。
もし内容的に、人知れずとも万が一にも何か失礼の段がありましたら、謹んでお詫び申し上げます。また、お気づきの点等ございましたら、何なりとお寄せください。
今後とも宜しくお付き合いいただければ幸甚に存じます。先ずは節目の御礼にて。
http://youkoso.city.matsumoto.nagano.jp/event/?p=3875
(もしアクティブになっていなかったら、松本市の観光ポータルサイトを検索してください)
全国の数ある“ゆるキャラ”の中でも、恐らく一番人気であろう彦根城の「ひこにゃん」をはじめ、姫路城の「しろまるひめ」、犬山城の「わん丸君」に加え、ホスト松本からは地元の子供に人気の「アルプちゃん」(地元では触ると幸せになれるという噂があるとか)と、長野県から「アルクマ」(JR東日本の信州デスティネーションキャンペーンで人気となり、終了後も要請を受けて長野県の観光PRキャラクターとして出向中!)もお出迎えとのこと。
期間中「松本城を応援に来ました!」とお城のチケット売り場で言うと、入場料1割引とか。またこの期間中を含め、浴衣でお城を観覧すると何故か8月31日まで入場無料だそうです。例年旧盆に合わせて、大手門前の公園広場では、櫓も組まれて盆踊りも行なわれる筈ですので、どうぞ浴衣でお出掛けください。
まだ松本市南部には、屋根瓦が崩れたりしてブルーシートを掛けた住宅が目立ちますが、余震もすっかり治まりました(昨日1週間ぶりに小さな地震があったようです)。松本は大丈夫です。
この連休に是非松本にお越しください。そして、松本城に行かれてみてください。
斯く言う私メは、3日間とも果樹園や家庭菜園の草刈をはじめ、溜まった農作業で行けそうもありませんが・・・。
最近の新聞の中で、“生きる”という文字や内容に惹かれました。
英文学者にして演劇評論家でもある東京大学名誉教授の小田島雄志さんが、日経の名物コラム「私の履歴書」に執筆されていて、その第一回。
「人生の幸せとは、金とか名誉ではなく、おれはこんなに笑ったり泣いたりしたぞ、という喜怒哀楽の情の総量である。」・・・なるほどと思い、心に残った名言でした。
その小田島さんが、終戦直後満州から引き上げて旧制中学へ編入し、職の見つからない父親を助けてバイトに明け暮れ、進学する意欲を失い中卒で働こうかと思った時、それを伝え聞いた担任の先生が、休み時間に急にクラスに飛び込んで来て、全員を前に「この中に勉強するのが嫌になった奴がいるそうだ。だが、人間生きている限り毎日が勉強なんだ。だから勉強が嫌な奴は生きている意味がないから俺が殺す。悔しかったら化けて出て来い!」と「血を吐くような声で叫び、涙をボロボロ流した」のだそうです。それを聞いて顔を上げられなかった小田島少年は、先生の“涙の渇”で吹っ切れたと書かれていました。そして、その日付までハッキリと記録されておられると。
何もかも失った焼け野原で、多分子供たちだけが将来のこの国の希望だと確信し、それこそどの教師も命がけで子供たちと向き合っていたのでしょう。
そう言えば、誰だったか、終戦直後の日本で、黙々と働く勤勉な大人たちと子供たちの目の輝きを見て、「大丈夫。この国は間違いなく復興する!」と確信したという外国人(ジャーナリスト?)がいたそうです。
そして、朝日新聞。「日記」と題された被災地からの毎日の小さなコラム記事での、ある日の報告。
避難所となった南三陸町の高台のホテルで、500人近い避難者や復旧工事関係者(記者の方もホテルの一室が臨時の仕事場)たちにいつも笑顔で接するホテルウーマンの遠藤さんに、記者が笑顔の理由を尋ねたその答え。真顔になり「娘に子供が生まれるんです。」
お嬢さんが結婚し、石巻市役所に婚姻届を出した当日に大震災が起こり、新郎は祖父母や妹を避難させるために助けに向かい、一緒に津波に呑まれて流されてしまいます。遺体で見つかった新郎を前に泣き崩れる義母に向かい、「私をこのままお嫁さんにしてくれますか?」と、お嬢さんはその場で申し出たといいます。お腹に新しい命を宿しながら。そして津波被害にあった市役所に再度婚姻届を提出し、市は3月11日付けで婚姻届を遡及受理したのだそうです。
そんな娘さんに、遠藤さんは「強く生きなさい。あたなは母親なのよ!」と語ったのだとか。だから自分も強く生きるのだということなのでしょう。
悲しみや苦しみ、全てを失った絶望の中で、若者や新たに生まれ来る命に希望を託す。或る意味、それは自分の命を次の世代へ託す“命のバトン”なのかもしれません。そうすることでまた生きてゆける。人間には、そんな強さもあるのでしょうか。
3年前に、お義母さんから喜寿のお祝い品のお裾分けで、家内が頂いて来たシンビジウム。
今年も4月に咲き始めて(第458話参照)、7月の声を聞こうというのにまだ咲いていました。
蕾が少なかったせいか、例年5本の花芽が今年は全部で7本も出て、しかも時間差で咲いたので随分と長い間目を楽しませてくれました。
その結果、鉢を大きくすれば、どんどん株が拡がって葉ばかりが植えていくので株分けした方が良かろうとのこと。そこで、家内が鉢を選んで、ついでに寄せ植えの植え替えと追加もお願いしたようです。
その間、私は同級生と談笑。勿論、TPOはわきまえつつも、同級生だと、オイ、オマエとお互い遠慮なく呼び捨て出来るところがイイですね。
さて、彼によれば、シンビジウムはむしろ寒いところの方が栽培には良くて、静岡の業者などは、夏の間わざわざ信州に鉢を移動させて栽培しているのだそうです。また、シンビジウムは花の咲く時期が休眠期なので殆ど水を上げず、それで花の持ちが良いのだとか。園芸店に運ぶために、最後の二本の花は切花にしましたが、確かに水があまり減らず、まだ枯れずに咲いています。
実家では、いただいた翌年から葉は元気に伸びても、なぜか花は一度も咲いていないそうなので(暖かい室内に置いていることもあるかもしれません。我家では、厳冬期だけは外の寒さを避けて外光の差し込む玄関に入れています)、ここで実家のシンビジウムもこちらに運んで来て、家内が3鉢共液肥等小まめに世話をして、来年花が咲くかどうか様子を見ることにしました。
もし冬になって花芽が出たら、その鉢を実家に持って行ってあげることに。また、たくさんの花芽が出るとイイのですが。
写真は6月5日のシンビジウムと、ここで株分けしていただいた2鉢と実家から持ってきた鉢。そして植え替えをしていただいた寄せ植えです。玄関が彩り鮮やかになりました。
また芝生の草取りの後、今年2回目の芝刈りも(家内の命令で)したので、庭がスッキリしました(時間が無く、エッジ切りは後日改めて実施予定です)。
関東甲信地方も梅雨が明け、これからが芝生の一番の成長期です。洋芝ほどではありませんが、7月から8月は隔週くらいで芝刈りをした方が良いでしょう。
これからは頻繁に水を撒かなくても良いように、夕立でも良いので時々は“お湿り”が欲しいですね。
『澪つくし料理帖』第5巻「小夜しぐれ」を大事に読もうと思い、その前にと購入したのが平松洋子著『おとなの味』(新潮文庫)。著者はフードジャーナリストでありエッセイスト。
これまでも名前をお聞きしたことはありましたが、著作としてまとめて読むのは初めてです。
これが、エッセイのタイプは全く違いますが、“女小泉武夫”(世に知られたのはどちらが先かは存じませんが、個人的には小泉センセの方が先なので)とでも言いたくなるような食に関するなかなかの名文家で、まさに味わい深いエッセイでした。
性別に関係なく、食に関するエッセイを書かれる方は、その驚くべき食(或いは食材)に対する好奇心がどうやら共通項。
ただ、平松女史は、(当然ながら)小泉センセとはタイプは全く異なり、“小泉ワールド”とも言うべきピロピロ、ピュルピュル、ジュルルといった類の擬音は勿論皆無。文章が色彩的でいかにも女性らしく、また品があってオシャレですが、飽くなき探究心(要するに食いしん坊)には感心します。
全62話のエッセイの中でも、特にナルホド!と思ったのは、「水の味」。
「煮る、さらす、浸す、茹でるといった水を中心とした調理法で、微妙な味わいで素材を引き立たせる日本料理は、京都の軟水だからこそ進化した」という件(くだり)でした。
その逆で、フランス料理は硬水だからこそソースがミネラルと結合することでしっかりと主張し、切れが出るのだとか。シチューのようにコトコトと煮込む欧州の料理も硬水だからこそ、なのだそうです。
また、我国でも関西の軟水と江戸の硬水の違いにより、お米の炊き具合が全く違うのだとか。その結果、硬水で炊くために米が“粒立つ”江戸では、一粒一粒がくっ付かず、空気を含めてフワっとなるからこそ握り寿司が発達し、一方の軟水の関西では米粒が融合し交じり合うことから棒寿司(箱寿司/押寿司)が発達したのだという解説は、まさに目からウロコでした。
そう言えば、シンガポール赴任時代、カリフォルニア米(ジャポニカ種)が、炊きたては美味しいのですが、オニギリだとパサパサになるのはお米の違いだとばかり思っていましたが、現地の水が硬水だったからなんですね。
また、家内は握りがフワっと柔らかくない板前さんはダメと良く言いますが、これもナルホドと納得しました(食通でもない私メは「あっそう?」と左程気になりませんが)。
料理について、その土地土地の食材の違いのみならず、水との関係を深く認識させられました。まさに水は食文化なんですね。
震災直後、原発事故を受けて多くの在留外国人が次々と離日していく中で、ドナルド・キーンさんが89歳にして「日本国籍を取得し永住する」と発表し、打ちひしがれて自信を失いかけていた我々日本人の心に、一筋の灯りをともしてくれたように感じた方も多かったのではないでしょうか。
先日、帰宅してたまたまTVを付けたら、NHKの「クローズアップ現代」でドナルド・キーンさんとのインタビューが放送されていて、興味深く拝見しました。
60年にも及ぶ日本滞在の中で、極右的に国を挙げて戦争へ突き進んで行った日本人と、それとは対極のように思いやり溢れる日本人を見て、日本人の本質が理解出来ずに、それを探求することが目的だったと語る、穏やかな目が印象的でした。
そして、その本質を探るべく30人にも亘る作家の戦前・戦中・戦後の日記を比較考量する中で、何となく近づけたと思ったのは高見順の一文を見つけた時だったそうです。
戦時中空襲で焼け野原になった東京を逃れるべく、母親を疎開させるため人で溢れる上野駅まで送って行った時のことを書いたというその日記。
(うろ覚えながら)
『・・・権力もなく、財力もなく、何も持たない人たちが家を焼け出され、全てを失っているのに黙々と列を作って並んでいる。
この国を愛し、信じて、ただ我慢する人たち。
自分は、この人たちとともに生きたい、この人たちとともに死にたいと思った。』
それは、今回の東北の人たちの震災後の姿にも見事に重なります。
愛すべき日本人の本質に近づき、今また未曾有の困難に立ち向かわなくてはならないこの国と結婚して、永住しようと決心したと言います。
おそらくキーンさん自身も、日本を愛するが故に「この人たちと共に生き、この人たちと共に死のう」と判断されたのでしょう。
そして、「これまでの日本人との触れ合いの中で、一番印象に残っていることは何ですか?」との国谷キャスターの問いにキーンさんが答えます。
“たくさんありすぎて思いだせません。でも今浮かんできたのは、本当に何気ないことなのですが・・・”と前置きをされて曰く、
「以前、室生寺を訪れた時にもの凄い雨に合い、お寺で雨宿りをしていると、見知らぬご婦人が傘を差し出してくれたのです。私が“多分お借りしてもお返しできません”と言うと、そのご婦人は微笑んで“構いませんよ”と言われたのです。」
国籍を取得したら、日本文学研究者として「死ぬまで文士でいたい」というキーンさん。
既に鬼怒鳴門(キーンドナルド)という漢字名まで考えられているとか。
我々以上に日本を、そして日本人を理解され、むしろ我々の方がこの国について教えられることが多いように思います。
文士-まさに“サムライ”ですね。どうぞ幸せな結婚生活を送られて、長生きしてください。
日経の朝刊では毎週火曜日に連載されている、小泉武夫センセの名物コラム『食あれば楽あり』。
料理の上で小泉センセに私淑する、言わば私メの教科書です。
2ヶ月ほど前だったでしょうか?「イワシのフライ」が取り上げられていいました。それも開きではなく、刺身用の新鮮なマイワシを買ってきて、いつものようにセンセの厨房「食魔亭」で、ご自分で、しかも手開きで調理するというのが如何にも凄いなぁ、さすがだなぁ(最近歯医者さんで読んだ“本”・・・『魚河岸三代目』。これ、勉強になります・・・によれば、鰯は本来手開きが基本だそうです)と感心しつつ、ピュルピュル、ハフハフといったいつもの小泉ワールドを楽しみながら朝の通勤電車で読んでいたところ、フライに添える「キャベツの繊切り」という件(くだり)で、「えっ、千切りじゃないの?」と目が点に。
「でもなぁ、(定年で既に退官されましたが)大学教授の文章だからなぁ・・・。」
調べて見ると、「繊切り、或いは千切りとも表記」とあり、どちらも正しいのですが、表記順からすると繊切りの方が本来の用法ではなかったかと思われます。
ただ、千切りよりもやや太め(字面からは更に細く切るように感じますが、これが逆)に切るのを「千六本」とも言いますから、数字も無関係ではなさそうですし、細かくたくさん切るという意味からは、数え切れないという意味で「千」という数字を当てたであろう先人の気持ちも良く分かります。
一方で、キャベツの場合は、(丸ごとでなく、家庭で葉を数枚の場合は)葉脈に対して直角に刻んでいきますので、“繊維を切る”と書いた方が、何となく調理の際の道理に合っているような気もします。
うーん、しかし調理用語一つとっても、切り方、剥き方で様々な言葉(方法)があり、繊細な日本料理らしく調理用語も奥深いなぁ、と本題のイワシのフライを離れ、「繊切り」の単語一つで暫し感慨にふけったのでありました。(ま、どうでもイイことかもしれませんが)
なお、これもセンセのファンでなければどうでもイイことですが、フライ系でも断然醤油派だった筈の小泉センセですが、今回はウスターソースだったのが「なぁんだ、ソースでも食べるんジャン!」とソース派の私メとしては鬼の首でも取ったような気がして、一人ほくそ笑んでいたので、知らない人が見たら恐らく気色が悪かったかもしれません。
さて、発酵学者らしく小泉先生が別の日に書いておられました。ご自身が福島県のご出身です。
「避難所生活などでは、パンやカップヌードルなどではなく、オニギリと味噌汁を食べなさい。お米は古来日本人の主食として民族のDNAに訴える力の源泉であり、また発酵食品には未だ解明出来ていないパワーが秘められている。日本人は味噌汁でイイ。インスタントでもイイから、必ず味噌汁を飲みなさい」と。
私たち日本人の元気と健康の源は、やっぱりご飯と味噌汁のようです。
7月の声を聞き、さすがに信州も山里の初夏の恵みである山菜シーズンは終了です。
・・・と思いきや、前回のコゴミに続き、先月末に実家から諏訪の後山産という地物のワラビをいただきました。
ワラビは、しっかりと灰汁抜きをした後の茹で加減がポイント。茹で過ぎて柔らかいと、ベチャっとした感じになってしまいますが、大丈夫?・・・と、しっかりとお義母さんがもう茹でてあるのを頂いて来たそうです。
そして、いつものスーパーに週末の食料品の買出しに行くと、何と今年も諦めていた「ネマガリダケ」が並んでいるではありませんか!
「山形県産」の表示で5本入り。6月に「蔵のむこう」でも食べましたが、スーパーで見たのは今年初めてです。一昨年は青森県産のネマガリダケが並びましたが、昨年は入荷が無かったので二年振り。喜び勇んで購入です。
近くで、「お父さん!ネマガリダケが売ってるヨ!」とのご婦人の声。お気持ちは良~く分かります。
実は、6月中旬に乗鞍高原に行った時に立ち寄った稲核の道の駅にもあったので帰りに買おうと思ったら、夕刻既に閉店していて残念ながら買えませんでした(地物かどうかは不明)。
このネマガリダケ。本州では日本海側中心に雪深い山地に生えているチシマザサという笹の一種。おそらく、その場所に辿り着くのも危険で大変であろう、貴重な山の恵みです。信州でも栂池や黒姫、志賀高原など県の北部に自生しているそうです。
海の幸が豊かで余り山菜など食べない山形県の庄内地方でも、月山のネマガリダケだけは「月山筍(ダケ)」と呼び、筍の根元の皮が一際赤いことから“赤いダイヤ”と称されて珍重されています(採りに行って崖から落ちる事故も多いとか)。
また、北信(長野県の北部)では、これに鯖缶を入れて味噌汁仕立てにするのだとか。そう言えば、以前高校の学校評議員をしていた時、官舎の庭に出たというタケノコを、当時の校長先生(長野市のご出身)が同様に調理したタケノコ汁にして出席者に振舞ってくれました。
さて、早速オーブンで皮付きのまま焼いて、皮を剥いて味噌を付けていただきました。シコシコ、コリコリ。素朴ながら、旨いなぁ。
最後に念願のネマガリダケを頂いて、これにて今年の山菜シーズンは終了。山の恵みに感謝です。
先週の日曜日の午後。長野県松本文化会館(略称“県文”)で、県下の男声合唱団ばかりが集う「第5回長野県男声合唱フェスティバル」が開かれました。今年は松本での開催のため、義弟の合唱団が事務局とのことから(聴衆確保の要請で)聴きに行きました。
私自身も学生時代は混声合唱団に在籍し、卒業後は男声合唱がやりたいと思い、当時同様の合唱祭に聴きに行きましたが、好みの男声合唱団(多田武彦ばかりを歌う-あるべくもありませんが)が無く、諦めた記憶があります。
その後、シンガポール赴任中にシンガポール交響楽団の事務局長の方と知り合い、SSOコーラス(交響楽団附属の混声合唱団-日本人赴任者で参加されている方も数人おられ、メサイア全曲を年末恒例で演奏していました)に入れてもらおうかと思いましたが忙しく、帰任後もまた忙しさにかまけ、唯一高校時代の音楽部OB会の定期演奏会に、たまたま当時長女が現役部員だったので、親子で同じステージに立ったのが卒業後唯一の合唱経験。その後もOB会で興味深い曲目(確か戴冠ミサだったかモツレクか、そして今年は「島よ」)もありましたが、“歌を忘れたナントカ”(バスゆえ、カナリアの様な高音ではなく、さしずめカラスでしょうか)で、今では週末の農作業で練習参加もままならず。
義弟は、SKFの公募合唱で目覚めたのでしょう。その後、地元の男声合唱団に入団し、今や貴重なトップテナーの戦力です。自営業なので、人脈作りや付き合いなどでも有益なのだろうと思います。しかも今年は初めてソロを務めるとか。これは聴きに行ってあげねばと、妹が母を連れて行くというので、朝から農作業をした後、家内と出掛けました。
チケットのお礼にと、家内が近くの花屋さんで用意した花束。
「ちょっと、リサイタルじゃないんだからさぁ、これ大き過ぎでしょ。」
「あら、そうお?」
県下の男声合唱団7団体が出演。
「いざ立て戦さ人よ」の合同演奏に始まり、各団の歌う、多田武彦の名曲「雨」と「富士山」、そして早グリ(編曲)の愛唱歌「見上げてごらん夜の星を」などなど。最後の合同演奏では、「柳川」、「月光とピエロ」などの男声合唱の古典的?定番ともいえる懐かしい曲が続きました。脳裏にバスの旋律が流れます。そして聴衆の拍手に応えて、これまたクロージングへのアンコール曲の定番「遥かな友に」で演奏会は終了。
参加者の中には、既に引退された会社の先輩が岡谷の合唱団で歌われていたり、やはり最後母校の校長を務められた先生は塩尻の合唱団で歌われていたり。皆さん、お元気そうです。
義弟の合唱団は指導者が替わり、昔に比べて団員も増え、演奏水準もかなり上がっています。彼は、これまた名曲の清水修編曲「最上川舟歌」のテナーソロ。なかなかお見事でした。
これなら大きな花束で、ちょうど良かったかも。
演奏後のロビーには、高校の音楽部の先輩も奥様と聴きに来られていて、娘たちが中学で同級だったことから暫し夫婦同志で歓談。
学生時代は100人以上が当たり前だった、大学の名門グリークラブも団員集めに苦労しているとか。
確かに今や一般合唱団も若い人は見当たらず、中高年の方々が中心です。合唱団によっては、せっかくの人数がいながら声量がなかったり、地声で喉を絞め過ぎていたり。ボイストレーニングをキチンとやればもっと良くなるのにと惜しまれましたが、コンクールに出るのでなければ、歌うことは腹式呼吸で健康にも良いので、演奏の質云々より楽しんで歌えば良いのでしょうね。
「♪ 降りそそぐ 翠藍(すいらん)ガラスの 大驟雨(だいしゅうう)」(草野心平詩・多田武彦作曲「富士山」より終曲の「作品第弐拾壱」)
口ずさみながら県文を後にしました。帰ったら、CDとハモろうかな。
(写真は「富士山」もカップリングされている多田武彦作曲の男声合唱曲集のCD『雪明りの路』)
梅雨が未だ明けません。梅雨入りが早かった分だけ今年は長そうですね。
松本でも漸く紫陽花が色付いて、梅雨に間に合いました。
写真は、我が家の玄関先のアプローチに植えてあるガクアジサイです。少し赤味がかっていたので、いつもの園芸店のアドバイスで春先に酸性の強い鹿沼土を根元に撒いたら、今年は青色が濃くなって雨に映えています。
幼い頃、雨音やせせらぎの音が好きで、特に昔の家(茅葺でした)にはトタン屋根の部分があって、そこに降る雨音を聴いているのが好きでした(ちょっと根暗のような気もしないでもありませんが)。
また、現在の母屋には自分の部屋の横に屋根裏の倉庫部屋があって、そこだと家の横を流れる川のせせらぎの音が聞こえるので、高校時代わざわざ屋根裏に布団を敷いて寝たことがあります(かなり根暗のような気もしないでもありませんが)。
雨音、せせらぎ、波の音。
これらは、自然な一定の繰り返しによる癒し効果-1/fゆらぎ効果(F分の1ゆらぎ効果=パワーが周波数Fに反比例するゆらぎ)があると言われています。私も、これらの音源だけが入ったヒーリングCDを持っています。
娘たちも当時受験勉強で疲れると、持って行って聴いていたようです。
また、今でもベランダでずっと降る雨を見ていることもありますが、特にこの時期は、雨に洗われると芝生や木々の緑が一層鮮やかさを増して、緑のエネルギーやパワーを発散しているかのように感じます。
梅雨-雨音から癒しを、雨に濡れた新緑からは元気をいただきましょう。
【追記】
大震災とは比べるべくもありませんが、昨日朝発生した松本を震源とする震度5強(丸の内=市役所?)の地震。その後も余震が続いています。
市内では十数人の方がケガをされ、また松本城の乾小天守にも小さなひび割れの被害が発生したそうです。松本市の南部(平田~南松本)では、屋根のブルーシートが目立ちました。震度5弱(沢村=測候所?)だった我が家周辺では、幸い特に目立った被害はありませんでした。
ご心配いただき、誠にありがとうございました。