カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
以前から、美味しいという評判を聞いていた『そば処 井川城』。
その名の通り、松本駅南西の井川城地籍の住宅街の中にあります。
この井川城という地名は、鎌倉時代信濃の守護職だった小笠原氏の居城(館)があったことに由来します。今では田んぼの中に小さな祠と、その場所を示す案内板があるだけ。
「そば処 井川城」は、脱サラで始められたというご主人が奥様と切り盛りされる蕎麦屋さんで、場所が幹線道路からも外れ、道巾の狭い住宅街の中にあって非常に分かり辛いので、今までその評判を聞いても行くのを躊躇していました。
久し振りに娘たちが休みを合わせて帰省してきて、「お蕎麦が食べたぁい!」とのご要望で、時間節約のため遠出を避けて(ここで安曇野・翁は脱落です)市内のお蕎麦屋さんへと、ネットで地図を確認し意を決して行ってみることにした次第。
少々遠回りだったかもしれませんが、いつも南松本方面に行く時に使い慣れた脇道からのアクセスを大体頭に入れて、いざ出発。
何でも前科があるらしく、助手席からは本当に行き着けるのか訝(いぶか)る声がエンドレステープの様に聞こえてきます(ウルサイなぁ、もう)。
心配した(哀れんだ?)娘が、「食べログ」からの地図をアイフォーンのGPSで車中サポートをしてくれながら(しかし、「あっ、離れてくヨ!」、「あっ、大丈夫。また近付いた!」と、これまたウルサイこと)、無事到着。こりゃ、確かに分かり辛いワ。
住宅横に建てた一戸建ての小屋、小さなログハウスのような板張りの建物が目指す「そば処 井川城」でした。裏に8台くらい停められそうな駐車場があります。
靴を脱いでお店に上がると、4人掛けのテーブルが4卓ほど。昼時を少し過ぎていましたが、先客の皆さんが二組おられました。
蕎麦は十割、ニ八、更科を磨いた「大名そば」(他店で言う吟醸そば)の三種類。温(汁)蕎麦もあります(信州には珍しくにしん蕎麦も。京都丸太町の河道屋を思い出します)。
「もりそば」では、それぞれ好みでの組合せも可能です。家内と私は、十割(こちらでは江戸時代に習ってと“とわり”と呼びます)と二八。娘たちは、大名と二八。こちらの一人前は、セイロ2枚です(種類を組み合わせると、食べ終わる頃を見計らって次の蕎麦を出していただけるので、茹でたてが食べられます)。
蕎麦の実の芯を使う白い「大名そば」は、もちもちっとした食感だとか。
十割には緑町の「佐々木」同様ローズソルトのような岩塩が付き、「一口塩で食べて見てください」とのこと。蕎麦が甘く感じます。
個人的には、十割よりも二八の方が腰もあり蕎麦の香りも十分で、断然上。「翁」の二八とはまた違いますが(あちらは更科系)、「旨いなぁ!」。
翁に行けない時(最近は農作業で行けません)は、井川城でもイイなぁ。
そばつゆは、信州にしては濃い目の江戸前風。そば湯もしっかりいただいて。そば湯に、残っていた岩塩を入れるとこれまた美味で乙な味。
そして食後のデザートに、サービスでそば大福(クルミ餡)をいただいて、女性陣は満足気(写真は二度目に伺った時の、せいろ二枚重ねの二八の「特盛り」ですが、「大盛り」でも良かったかも)。
蕎麦は「三たて」と言い、打ち方によっても変わるとは思いますが、繋がりさえすれば、単純に蕎麦粉割合が高い方が良い(美味しい)と思っていただけに、こうやって食べ比べて見ると(勿論食べる側の好みもありますが)、むしろ二八の方が「蕎麦」としては美味しく感じられて、「井川城」のおかげで認識を新たにしました。
当然、蕎麦屋さん毎にそれぞれの拘りと技があり、例えば乗鞍の「中之屋」(第373話)は地粉を水車で挽いた十割、緑町の「蕎麦倶楽部 佐々木」(第31話)はご主人曰く九割五分、中町の「野麦」(第5・86話)は九一、「安曇野 翁」(第68・86・334話)は二八。
それぞれの店のご主人が、試行錯誤の末に一番旨いとして辿り着いた結果でしょうが、少なくともここ「井川城」では、個人的には(家内も)二八がベストでした。ただ「井川城」の売りはあくまで十割ですので、三種類を食べ比べてご自分の好みを決められるのが宜しかろうと思います。
さて、帰りは別の道を来ました。
あれっ?結構分かり易いジャン!・・・(タハ)。
6月中旬、休みを合わせて久し振りに帰省してきた娘たちとの昼食後、家内がせっかくだからどこかにドライブに行きたいと言うので、松本市街からの半日コースとして推挙申し上げたのは、木曽奈良井と乗鞍高原。
木曽の奈良井宿は中山道69次の江戸日本橋から34番目の宿場町。
この後に難所の鳥居峠(木曽川と、松本で梓川と合流して犀川となる奈良井川との分水嶺)を控え、往時“奈良井千軒”と謳われるほど賑わったと言います。同じ木曽路では、妻籠や馬籠(うーん、馬籠は今や岐阜県。従って島崎藤村も岐阜県出身)ほど有名ではありませんが、却って観光地摩れしておらず、素朴で宿場町の風情が今も残ります。何度か訪れていますが、個人的には奈良井の方がお薦め。現在は塩尻市。因みに安曇野が舞台の朝ドラ「おひさま」の街並みは、ここ奈良井でのロケ。地元民である私メは、なぜ安曇野に“突然”木曽奈良井宿の街並みが出てくるのか、少々違和感が・・・。
一方の乗鞍高原では、6月中旬にレンゲツツジが咲き出したとか。旧安曇村で現在は合併して松本市です。レンゲツツジは松本の「市花」でもあり、松本周辺では美ヶ原や塩尻の高ボッチ高原も有名です。
奈良井・乗鞍高原双方共、松本市街からは1時間半程度のドライブコースです。奥様のご選択は「新緑が見たい!」と、いざ乗鞍へ。
徳本峠への入り口となる島々宿からは、安房トンネル開通後部分改修されたとは言え、幾つものトンネルと急カーブの連続する山岳路(道幅が狭く、大型車が時折センターラインをはみ出して来るので要注意)ですが、途中稲核(イネコキ)の道の駅で小休憩し、乗鞍は一の瀬園地へ。
一の瀬園地の奥には一の瀬牧場が拡がり、残雪を頂く雄大な乗鞍岳(主峰3026mの剣ヶ峰を始め、23の峰からなる連峰)が白樺林越しの眼前に広がります。一の瀬では赤いレンゲツツジが咲き始め。小梨も満開を過ぎたとは言え、まだ高原の緑の中のあちらこちらに白い点描が見られます。花は梨というよりも、むしろリンゴに近い感じです。
こちらでは、散策は勿論、サイクリング道路が車道とは別に整備されていますので、白樺やコナラの林が拡がる高原のサイクリングも気持ちが良さそうです(貸自転車も用意されています)。6月下旬、ちょうど今頃はレンゲツツジが燃えるような満開を迎え、高原は赤と緑に包まれていることでしょう。霊峰を望む高原の爽やかな空気を、胸一杯に吸い込みます。
やっぱり山はイイなぁ・・・と“山国”信州人の独り言。
その後少し足を伸ばして善五郎滝へ。駐車場から滝まで距離600m。アップダウンの続く散策路です。女性陣は誰も付いて来ませんでしたが、サンダル履きだと正解だったかも。
独り善五郎滝のマイナスイオンをタップリ浴びてから松本へ戻りました。
梅雨、今外は雨。いつもこの時期に採るからと母がウルサイので、雨が上がった6月中旬の日曜日から2週に亘り梅の収穫をしました。まさに“梅雨”。
でも、今年は春先の寒さで全体に植物の生育が遅れ気味。そのため例年に比べ梅の実も小さめですが、全部で25kgほど収穫しました。
そして、リンゴ園の隅に父が植えたキーウィの花が、6月中旬に満開になりました(6月12日撮影)。小さなウチワの様な“丸っこい”葉と真っ白な花が特徴的。
信州でも結実しますが、さすがに糖度はあまり上がりません。でも藤のように棚にすると良い木陰を作るので、シェードガーデンとして植えられているケースも結構あります。
そして、キーウィの横には自生した桑。
放っておいたら随分大きくなってしまいました。我が家は戦前から祖父がリンゴを作っていましたが、小学生の頃までは未だこの周辺でもアチコチに養蚕用の桑畑が残っていました。
その後桑畑がリンゴ園に変わっても、桑は生命力が強いので、今でもリンゴ園の隅っこに自生していたり、また鳥が実を食べて運んだりしたのでしょう。庭先などに生えているのを見かけることがあります。
桑の実が、6月下旬になって段々と色付いて来ました。まだ赤い段階ですが、熟すと黒くなってとても甘くなります(6月12日・19日撮影)。
子供の頃は、小学校の帰りに友達と道草をして、皆口の周りや舌を紫色に染めながら(従って一発でバレますが)摘んで食べたものですが、この飽食の時代ではあまり見向きもされなくなりました。桑の実は、果実酒やジャムなんかにしても良いのですが、家内はイラナイとのこと。だったら邪魔なので切っちゃおうかな。
初夏、実る梅や桑の実。いずれも“梅雨のあとさき”の信州の里山の風物詩です。
5月20日から3日間、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(BPO)の定期演奏会に、客演指揮者として招かれた佐渡裕。
報道によれば、近年では常連のマエストロ・オザワに続き、日本人二人目(??定期演奏会では?・・・。その昔、日本人としては今や特筆モノのバイエルンとドレスデンの両国立歌劇場の音楽監督を務め、更にはチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の主席指揮者を務めるなど、欧州で大活躍された故若杉弘さんや、また佐渡さんと同じ京都出身で、当時のカラヤンコンクールに優勝した小泉和裕氏なども振った筈ですが、特別演奏会だったのでしょうか?)の快挙として話題になりました。
さて今回のメインは、ショスタコの交響曲第5番『革命』。
そのリハーサル風景を交え(初めてその一部始終の撮影が許された由)、本番までの道のりを追ったNHK-BSプレミアム『情熱のタクト-ベルリン・フィルへの挑戦』が6月12日に放送され、農作業のため録画してもらい先日視聴しました(なお、前日の土曜深夜には『プレミアムシアター』で演奏会のライブ録画も放送されました)。
BPOは、おそらく世界でも最も民主的に運営されているオーケストラの一つだと思いますが、10年ほど前から楽団員が客演指揮者を指名推薦できる制度があり、今回は主席コントラバス奏者のサクサラさんが佐渡さんの「新世界」のCD(インタビューでサクサラさんが手にしていたのは、シエナのCDでしたが、もしかしたら「新世界」はBBCフィル?)を聴いて推薦したのだとか。
番組は、一編のドキュメンタリーとしても見応えがあり、特にリハーサルでの火花散るような緊迫感の中に引きずり込まれるように、あっと言う間の1時間半でした。
“ファースト・コンタクト”-最初の10分間で全てが決まるという2日間のリハーサルの中で、佐渡さんらしいエネルギッシュな指揮振りと、天下のBPOに対しても、真摯に曲に向かい、ストレートに対峙しながらもやがて彼等に受け入れられていく様が画面から伝わってきます。しかし、リハーサルで全てを見せてはいけないのだとか。本番でのインスピレーションなど何かを残しておかないといけないのだそうです。
そして迎えた本番。最終日の演奏終了後、何度かのカーテンコールを経て団員が退場し誰も居なくなったステージに、スタンディング・オベーションと共に耳の肥えたベルリンの聴衆からの鳴り止まぬ喝采の拍手に、佐渡さんは再度カーテンコールで呼び戻されます。良かったですね(この模様は前日のプレミアムシアターだったかもしれません)。
地元紙でも、“大勝利(Triumph)”として「ベルリン・フィルが初めての指揮者に対し、いつもこれほど献身的に演奏する訳ではない。」との講評が掲載されたそうです。
当日の第一コンサートマスターを務めた樫本大進さんが、インタビューで語っていた話が、私としては一番印象的でした。「入団して初めて分かったのですが・・・」と前置きをして曰く、
「このオケの恐ろしいところは、団員が受け入れ難い指揮者だと判断した時は、決してイジメではなくBPOとしての演奏水準を保つために、団員全員が阿吽の呼吸で演奏の途中から指揮者の指示を無視して演奏してしまうことです。」
団員に世界一流の演奏家が揃い、“世界最高峰のオーケストラ”と称されるベルリン・フィルの凄さを改めて認識させられたエピソードでした。
再演の可能性は、演奏後の団員のアンケート結果も含めて決まるそうです。演奏会終了後、ソリストとしても超一流のクラリネット主席のマイヤー、同フルートのパユ氏等楽団員が佐渡さんの楽屋に次々と祝福に訪れていましたが、またいつか客演指揮者に招かれるとイイですね。
10月のDSO松本公演も期待してまーす!(幸い抽選漏れにならず、先日チケットが手許に届きました)。
さてBPO定期への次なる日本人指揮者候補は・・・?
同じドイツで活躍する上岡(敏之)さん、いつか指名されないかなぁ?
何年先でも良いので、BPOが彼の棒にどう反応するか、是非見て(聴いて)みたいものです。
【追記】
因みに同じの日の早朝、NHK-BS「プレミアムクラシック」で放送された、N響4月定期でのサー・ロジャー・ノリントンの振った「巨人」も良かったなぁ。感動的でした。通常と異なる楽器配置に驚きましたが、最後立ち上がって演奏したホルンパートも上手かった!
一度(しかも途中から)聴いただけですが、N響との相性も凄く良さそうで、包容力に溢れたノリントンさんの指揮振りが何とも素敵でした。ウン、生で聴きたかった!
今年はリンゴの開花が例年より遅れて摘花作業が出来なかったので、いつもより早く(例年だと摘花作業終了後の5月中旬ですが)野菜苗を買ってきて、5月上旬に移植しました(第475話参照)。
その後、関東甲信地方は5月27日に平年よりも17日も早く今年は梅雨入りし、前半は結構降水量があり、また肌寒い日が続きました。
そのためでしょうか。畑に植えた自家用野菜のうち、なぜかトマトはいつも以上に順調に伸びているのですが、キュウリとナスがちっとも伸びませんでした。いつもならキュウリの花が咲いても良いのに蕾すら膨らんできません。そしてキュウリもナスも最初の頃の葉は黄色く枯れてしまいました。一昨年などは、雨が多くてキュウリは困るほど成長したのですが・・・。
例年と違い、今年は雑草対策も兼ねてマルチングでシートを敷いています。
そう言えばハーブも、バジルは例年困るほど生長するのに、今年はまだ小さいままで花芽が付きました。
4月中旬にいつもの園芸店に家内を連れて花壇の春のメンテナンスの相談に行った時に、ハーブや野菜は(遅霜の心配から)未だ植えるのは早いので連休になるまで待った方が良いとアドバイスがあり、5月4日と別の場所は15日に追加で植えたのですが、今年はおかしいなぁ。
さすがに5月に平地では霜は無かったとは言え、5月23日には2000m級の山々では季節外れ(過ぎ!)の降雪があったりと、今年は春先から気温が低めだったのと、例年に無い早い梅雨入りがやっぱり影響しているのでしょうか?
一方、ナスも花は咲いていますが生育は今ひとつ。もう少し暑くならないとダメなのでしょうか。
どの植物も、成長する適温があって、植物センサーが敏感に反応するんでしょうね。リンゴのふじも20℃を下回らないと着色が始まりませんし、桜は積算気温が或る一定数値を超えないと開花しないと言います。植物は偉大です(一方で順応性は弱く栽培適地は限定されてしまいます)。心配しましたが、今年もナントカなりそうです。(写真は6月12日時点の、全体、キュウリ、なす、トマト、ミニトマトの順番)
去年のように堆肥が効いて雑草畑にならないように、今年はマルチを敷いてありますし、野菜たちの頑張りに応えて、こちらも少しはサポートすべく、先日万能(マンノウ)を使ってマルチ周りの草取りをして、残りの畑スペースの部分は小型耕運機で生え始めた雑草退治で耕しましたので、暫くは大丈夫でしょう。
「今年の野菜は大丈夫だよね?」と家内から。
「キュウリくらいは欲しいわねぇ」とは母が。それぞれプレッシャーを掛けてきます。
「ま、ナントカなるっしょ!」
出来れば今年はたくさん収穫して、子供たちにもハーブと野菜を送ってあげたいものです。一つだけですが、内緒で初めて植えた苗もありますし・・・。
おーい、みんな頼むから頑張ってよネ!
6月12日まで、松本市美術館で特別展『マイセン磁器の300年』展が開催されていました。
これは、サントリー美術館を皮切りに全国4ヶ所を回る巡回展で、その中でこの松本で開催されるなど異例のこと。音楽はともかく、美術に関しては県内でも不毛地帯であった松本も、松本市美術館が出来てから時々こうした魅力的な展覧会が開かれるようになって、市民としては大変ありがたいことです。
数ヶ月前、日経新聞の文化面で紹介があり、その中で東京の後の巡回先に松本が載っていて、驚き且つ楽しみにしていた美術展でした。
こうした試みは素人にとってはとてもありがたく、しかもこれが無料(入館料のみ)なんですね。
午後二時からのギャラリートークには、会社の後輩も奥様と来られていてご挨拶。全体で30人を超える方々が集まっていました。前回の「出光美術館特別展」の時よりも盛況です。県内はもとより、中には県外から来られたという方もいらっしゃいました。他のお客さまの邪魔にならぬよう、学芸員の方のお話をイヤフォンで聞ける無線の小型レシーバーを各自装着してスタートです。
17世紀。中国や日本から東インド会社を通じてもたらされる磁器の収集癖(その数2万数千点だったとか)が嵩じて、時のザクセン選定候であったアウグスト1世が、当時の化学者とも言える錬金術師のベットガーをマイセンにあった城に幽閉し、1709年、遂に領内で発見された土を使って西欧で初めて磁器を生み出し、その後絵師のヘロルトが独自に16色の色絵技法を開発したことにより、柿右衛門様式などの写しが作られるようになったという解説に始まり、ドイツ国立マイセン美術館が所蔵する中からの150点(有田柿右衛門様式の壷と、それをそっくり写したマイセンの壷という2点の出光美術館からの特別出品を含む)を超える実際の展示品を見ながら1時間ほど掛けて解説を伺いました。
その後で改めてじっくりともう一度最初から、現代のマイセンに至るまでの300年に亘る展示品を鑑賞しました。
マイセンの磁器は、殆ど全て70万点にも及ぶ型が保存されていて、今でも300年前と全く同じ形の磁器を焼くことができるのだそうです。
またマイセンのマークで有名なX字にクロスする剣はザクセン選定候の王家の紋章から採ったのだそうです。
アウグスト1世の死去後、シノワズリから次第にロココやアール・ヌーヴォーなどの影響を受けてマイセンも西洋的な独自の絵付けに変化していく様が手に取るように分かります。
そしてセルヴィスと呼ばれる食器セットは、王侯貴族がパーティーで大勢の招待客をもてなすために作られ、産業革命後市民階級が台頭する中で、カップ&ソーサーとして一脚ずつ何年も掛けて揃えていくという楽しみが西欧全体に拡がったのだそうです。
面白かったのは、今やマイセンを象徴する玉葱文様(ブルーオニオン)が、景徳鎮や有田の絵模様にある桃や石榴を知らずに、玉葱だと勘違いして描いたのがキッカケだとか。
展示を見終わった最後に、「余談ですが」という前置きで、今回の大地震があって開催が危ぶまれたそうですが(ちょうどサントリー美術館の展示が終わり、松本への移送の準備中だったそうです)、国立マイセン美術館からは「こんな時だからこそ、日本の方々に是非楽しんでもらいたい」と、展示継続の意思が示されたと伺いました(原発にはひと際敏感なドイツですのに、マイセン美術館の温情に感謝です。実際幾つもの美術展が、原発事故による日本への貸し出し中止により取止めを余儀なくされました)。
その配慮に応えるべく、もし大きな余震があっても万が一のことが無いようにと、6台しか免震構造の展示ケースの無い松本市美術館に、サントリー美術館やこの後巡回する兵庫陶芸美術館、大阪市東洋陶磁美術館から免震の展示ケースを必要数無償でお借りすることが出来たのだそうです。
こんなところにも震災の影響が出ていたことを知りました。
普段は知りえない、そんな美術界の舞台裏のお話も伺って特別展を後にしました。今回は目と耳で、マイセンを十二分に堪能することができました。
良い目の保養になりました。
隣で、「あぁ、マイセンが欲しくなっちゃったな・・・」とブツブツ独り言が聞こえます。ここは“見ざる、聞かざる”で・・・と。
【追記】
草間弥生作品を常設展示する松本市美術館らしく、玄関ホール脇の赤い水玉模様のカボチャのオブジェと、ピロティーに面する通路に置かれた、草間弥生“文様”の自販機とゴミ箱。最上段の水玉模様のコーラは非売品とのこと。遊び心だなぁ・・・。因みに市内には同じカラーリング(草間弥生ご本人のデザイン)が施された観光スポット巡りのバス“タウンスニーカー”が、“蔵の街”を通る美術館経由の路線を走っています。
NHKの総合放送で放送されている『新日本風土記』が、BSプレミアムでも何度か再放送されています。
先日は未明から終日の雨で、チロルやナナの散歩は勿論農作業が(庭仕事も)出来ず、“晴耕雨視”とばかりに朝TVを見ていました。
一般放送には見たい番組が無く、選んだのはBSプレミアムで毎週日曜日の朝6時から放送されている「プレミアムクラシック」と、その後に『新日本風土記』の「出雲」編。
国譲りの神話(注記)から、出雲大社を始め、今も神々と身近に暮らす出雲の暮らし振りが放送されていました。その中で初めて知った幾つかの興味深い事実。
国譲りの交換条件として建てられた出雲大社の本殿の中心にある、神が宿るとされる心御柱を真似て各家でも建てるようになり、出雲大社が大国主命(大黒様)を祭ることから“大黒柱”と呼ばれるようになったのだとか。
また代々出雲大社の神官(宮司)を務める出雲国造家は84代に亘る家系で、我が国では天皇家に次ぐ血統の古さとか(注記2)。さすが出雲です。
そして日本中の神々が出雲に集まるとされる神無月(旧暦10月)を、出雲だけは神在月(カミアリヅキ)と呼びますが、その神在月に神様にお供えするのが「神在餅」。ジンザイモチと呼び(「出雲風土記」に仮名を振って記載されています)、少量の砂糖で茹でた小豆に焼いたお餅を入れるこれがゼンザイの起源なのだとか。
今でも、出雲では神在月には各家で「神在餅」を作り、八百万の神々が集まっておられる方角に向かってお供えをするのだそうです。
長い歴史の中で、この国の生活の中に溶け込みながら、その理由をいつの間にか忘れた我々に、今でも極普通に神々と寄り添うように暮らす出雲の人たちから、そのルーツを教えられた気がしました。
うーん、出雲は深い。
【注記】
因みに諏訪大社(上社)の祭神である建御名方命(タケミナカタノミコト)は、おそらく古代のイヅモ族と大和族の主権争いの結果であろう国譲りに反対し、戦い敗れて出雲を逃れ、諏訪の地に幽閉された大国主命の次男です。古代の出雲と諏訪との繋がりを感じます。一方、賛成した長男である事代主神(コトシロノカミ。恵比寿様)は、美保神社の祭神として出雲の国に祭られています。
古事記や日本書紀を始め、歴史書は多分に勝者の歴史であり、この国では、勝者は敗者の祟りなどの怨念を畏れ、幽閉し神として崇め奉ってきました。神話の時代のみならず、時代を進めれば、実在の人物であっても菅原道真しかり、平将門しかり。
【注記2】
諏訪大社の神官を代々務めてきた守矢家。古くは諏訪大社以前から、原始土着宗教であるミシャクジ信仰や洩矢(モレヤ)神信仰にも繋がるとされ、我が国の正史とは言えず、その歴史的客観性に疑問符が付けられるのかもしれませんが、記録上は78代と言われます。古代「科野國州方(シナノコクスワ)」も実に深いのです。
そして出雲族と融合した諏訪族の監視役として、大和から派遣されたであろう海洋民族の安曇族がやがてここに絡むんですよね、きっと。うーん、古代のロマンだなぁ。
ブルーノ=レオナルド・ゲルバー。
稀代のベートーベン弾きというピアノ界の巨匠で、アルゲリッチとバレンボイムと同じ先生(スカラムッツァ)に師事しています。
その彼が、ハーモニーメイト創立25周年記念演奏会として、9月13日にザ・ハーモニーホール(松本市音楽文化会館。地元では略して音文)に来演します。
しかも、ベートーベンの「悲愴」、「月光」、「熱情」に「ワルトシュタイン」を加えての“4大ピアノソナタ”を一夜で演奏するという、松本ではなかなかお目にかかれないプログラムです。
巨匠ゲルバーのコンサートで一般5000円でも十分お得だと思いますが、音文会員であるメイト価格は何と3000円です(家族会員は年会費3000円ですので、これでもう元が取れてお釣りがきてしまいます)。
5月末にメイト向け先行発売とのことで、夕刻音文の事務所に立ち寄って早速購入してきました。
その日は10時からの発売でしたが、夕刻でもまだ何人か並んでいて、発売当日ですのにさすがにもう残り僅か。音響には定評があり、室内楽やリサイタル向きの僅か800席足らずのハーモニーホールですが、区分けされる時はS席となる中ほどの席(今回は全席同一料金です)は、既に少し外れの席しか空いていませんでした。大変な人気のようです。
昔子供たちがピアノを習っている頃なら、一流演奏家の運指が見られる席を取りましたが、今は音が良ければ良いので、今回はステージ右側の席を選びました。
私メにとっての芸術の秋の開幕を飾る、楽しみなコンサートです。
5月中旬までには、どの田んぼにも水が張られて田植えも終わり、6月に入って、弱々しかった苗も元気になって、田んぼも日に日にその青さを増しています。
梅雨・・・元々は中国からのようですが、これに日本の「つゆ」を当てた先人のセンスに感心します。正に字の如くで、我家の梅の実も大分大きくなってきました。
今年の関東甲信の梅雨入りは5月27日で、平年より17日も早かったとか。今年は旧暦(陰暦)でなくともまさに五月雨でした。例えばだらだら続く様を「五月雨式に」などと言いますが、この語源は旧暦(陰暦)での梅雨が語源だそうで、今年は実感です。
この時期、朝暗いうちに起きてベランダで一服しながらコーヒーを飲んでいると、時折蛙の合唱が聞こえてきます。
夜でもきっとそうなのでしょうが、年を取ると夜早く寝る分、朝は暗いうちに起きるようになり、私の場合は四季を問わず毎朝4時起きです。夜と違い、シーンと静まり返った分だけ、余計に蛙の鳴き声が辺り一面に響きます。
若い頃は、“国際ビジネスマン”気取りで、仕事で海外ともやり取りをした後、夜の帰り道を歩きながら蛙の合唱を聞くと、そのあまりの落差にガックリきたものですが、積み重ねた齢(よわい)がそんな気張りや力みを丸くするのか、むしろ今では蛙の声に癒される気さえします。じっと耳を済ませていると、1/fゆらぎ効果でもあるのか、心地よい抑揚が聞こえてくるような気がします。
イイなぁ、生きとし生けるモノ、蛙も一生懸命なんだろうなぁ・・・。
紀貫之の言う通り、『花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける』(古今和歌集「仮名序」)でしょうか(スイマセン、実際に紀貫之が「生きる物は皆歌を詠む」と例えたのは田んぼにいる蛙ではなく、谷川などに棲み、良い声で鳴くカジカガエルでした・・・)。
梅雨-うっとうしい季節です。しかも今年は長そうですね。
早過ぎる入梅に開花が間に合わなかった紫陽花の替わりに、蛙の合唱にちょっぴり心なごませ、蛙たちにとっては恵みの雨か、降る雨を少しは楽しめるような気もします。
3.11から早いもので、もう3ヶ月が経ちます。
大地震、大津波、原発事故という異常な“非日常”的な世界で、黙々と且つ懸命に続けられている支援活動の様子が、これまでも新聞を始め様々なメディアを通じて報じられてきました。
震災直後報じられた、津波に飲み込まれるまで半鐘を鳴らし続けた地区の消防団員。或いは地区放送で津波避難を最後まで呼び掛け続け犠牲となった役場の女性職員。そして家族に避難を促し自分は最後まで住民の避難誘導を続けた派出所の警察官。
こうした尊い犠牲となられた方々のみならず、未曾有の事態とは言え、「どうしてそこまで・・・?」とも思えるほどの、それぞれの崇高な使命感の数々。(以下、多少の記憶違いはご容赦ください)
“暴力装置”と時の政権から罵られたにも拘らず、懸命に復旧作業や不明者捜索を続けてきた自衛隊員を始め、警察官や消防隊員たち。
支援が安定した避難所から移動する彼らを、感謝を込めて覚えたての敬礼で姿が見えなくなるまで見送っていたという女子学生。
「余り無理しないで」と復旧活動で疲労困ぱいの夫をメールで気遣う妻に、「自衛隊を舐めるなよ。今無理しないでいつ無理するんだ!」と気丈に返信したという自衛隊員。
第一波の津波の後で、「もうこれ以上の犠牲者は出さない」と、万が一の時は自分たちの身許確認がされ易いようにと各自腕に名前をマジックで書いた上で、動けない入院患者を真っ暗な階段を使って一人ずつ屋上まで避難させ続けたという三陸海岸近くの病院の医師と看護師たち。
先遣隊で避難所の状況把握に派遣され、寝る間もなく孤軍奮闘する医師を見かねて、任務終了後自主的に避難所に残って医師のサポートを続けたという看護師。
震災で物流が寸断された被災地で、連絡の取れない本社からの承認を待たず、自分たちの方が地理に詳しいからと、自衛隊に代わり救援物資の避難所への配送を自主的に申し出たという宅急便ヤマト運輸の被災地のドライバーたち(後で知った本社は、直ちに彼らの支援にトラックとガソリンを東北各地に送ります)。
地震で店舗がメチャクチャになり本部から商品も届かない中で、「ただの塩むすびでスイマセンが」と、奥さんが自分の家の米を炊き握った自前のオニギリを店の外で無くなるまで販売し続けたというコンビニ店主。
“異常”とも言える非日常的な状況の中で、現場ではいつも通りにこうした“日常”業務を「自分の仕事だから」、「今自分に出来ることはこれしかないから」と懸命に続けている人たちがいます。
日頃は気付かない、そうした日常業務の大切さ、現場のプロ意識の高さ、ある意味“崇高な使命感”を目にする度に、新聞に“染み跡”が増えていきました。
しかも、活字にはならない無数の“日常業務”が、非日常状態が続く今も、現場では粛々と、そして黙々と行われている筈です。
欧米型と比べての、この国の組織のトップダウンの弱さばかりが最近は目立ちますが、一方で日本的ボトムアップ組織ゆえの現場の強さを改めて認識させられた、この3ヶ月でありました。
上諏訪に『雫石』という割烹があります。
昔から会社のメンバーと良く飲みに行きます。もう四半世紀にもなるでしょうか。値段も良心的で、移られた現在のお店は、カウンター、小上がり、2階に個室もあり、大小宴会が可能で重宝しています。
無口ながら腕の良いご主人と、如何にも東北出身らしいおおらかな女将さんの絶妙なコンビネーションで、料理と一緒にほんわかほっこり暖かくなる店です(若い頃って、こういう良さって分からなかったなぁ)。
昨年末の仕事納めの日は、無理をお願いしたら、我々に合わせて午後3時から開けてくださいました。その日は、乾きモノでイイからと言うのに、しっかり料理も準備されていて、一足早く食べた鰤の煮付けが最高でした。
てっきり、店名から小岩井ファーム等で知られる「雫石」ご出身かとずっと思っていたら、何と女将さんのご実家は釜石なのだとか。
それも、同僚が地震発生直後に行った時に、「雫石は内陸だから、津波は大丈夫だったんだよね」から、「実は」で初めて知った話でした。
その後、すぐに伺う機会があったのでお聞きすると、ご実家は幸い高台にあり、家も実家の皆さんもご無事だったそうですが、その高台の家の1階まで津波が押し寄せたのだとか。
「終戦直後の焼け跡を、リュックを背負ってトボトボ歩いている写真があるでしょお。家も無くなり瓦礫ばっかりで、釜石はホントにあんな感じだけどお、でもあれより今回の方がもっとヒドイんだよお」
「だったら、店の名前も釜石にしておけば、みんな心配して応援に来るのに!」
「だってぇ、釜石じゃあ情緒がないでしょお」
「だったら、せめて東北の食材を使わなくっちゃ!」
「もう使ってるよお」
もしかしたら、いつも美味しくいただいていた魚も、釜石のご実家からの直送だったのでしょうか?
「じゃあ、お酒も“高天”や“御湖鶴”もイイけど、とりあえず諏訪の酒は暫くイイから、“あさ開”って確か岩手でしょ。南部美人もあったよね。岩手は南部杜氏の本場だもの。お隣の宮城なら“浦霞”や“一の蔵”もあるし・・・」
「うん、やってみるねー」
まさか、山国信州のこんな身近にも、お身内に震災や津波に被災された方がいらっしゃったとは・・・。
みんなで応援しに行かなくっちゃ!(と、その後2回行きました)
どうぞ、もし諏訪に来られる機会がありましたら、飲み会は上諏訪割烹『雫石』(電話0266-58-3231日曜定休)へ是非お願いいたします。JR上諏訪駅から徒歩5分。
5月末の週末の土曜日。食料品の買出しは、一日雨予報の翌日曜日にするというので、この日はあるモノでとのこと。
ならばもう一品と、大分伸びてきたので、サラダ用にハーブを今年の初収穫です。
それから、水耕栽培のクレソンも花芽が付いてきた頭の茎を切り取ります。古い枝の付け根から、新しい芽が幾つも出てきています。
そして、プランターに植えたパセリと家内用のコリアンダー。これも花芽が付く茎はニンジンの様な細い葉が出てきているので、やはりこれも切り取ります。
昔、日本で育ったコリアンダーを頂いたらセロリのような匂いで、あの独特の“臭気”が無かったのですが、最近のコリアンダーは東南アジアと同じ匂いがします。
因みに、コリアンダーは欧州やインド料理では実を使いますが、これはビックリするほどの芳香なのだとか。一方、東南アジアでは香菜(シャンツァイ)と呼ぶように、独特の匂いを持つ葉を使います。
シンガポールでは、中華料理を始めタイやベトナム料理にも、このコリアンダーが欠かせません。
「シャンツァイが食べられるようになったら、赴任者として一人前」と言われる通り、赴任当初はなかなか馴染めず、麺類などに微塵切りに入っているコリアンダーの葉を一々箸で除けていましたが、その内馴れて気にせず食べられるようになりました(勿論、最後まで馴染めぬ人も結構いましたが)。
家内は大好物で、日系デパートの食品売り場に比べて、新鮮な現地の野菜や果物が格安で買えるローカルマーケット(野菜をその場で洗ったりするのでコンクリートの床が濡れていることから、現地ではWet Marketと呼ばれています。さすがに今はその場で鶏を“縛る”のは禁止になったとか)に行かされて良く一束買って来ました。ただ、味噌汁にも微塵切りで入れるのにはさすがに閉口しましたが。
サラダとは別に、家内が、犬たちのドッグフードに載せるササミを蒸す時に出る煮汁を使って作ったコンソメスープに、パセリの微塵切りを散らします(家内は更にコリアンダーをどっさりと)。
これがビックリするほどパセリの味が濃く出て、スープが美味しいんです。やっぱり、市販されているハウスものとは同じ野菜とは思えぬほど違います。
プランターで簡単に栽培(注記)できますし、その時に必要なだけ葉を摘んでくれば良いので、大変重宝です。そして何より味がイイ。料理の脇の飾りだけで捨てられてしまっては何とも可愛そうですし、第一ビタミン類も豊富ですので食べないと勿体無い。
地植えしたパセリを食べると、おそらくパセリへの印象が変わり、パセリも「食べる」野菜であることがちゃんと実感できます。
写真は、6月上旬のハーブガーデンとプランターの様子です。
移植してから一ヶ月が経ち、大分伸びてきました。植えた直後の第465話と比べてみると一目瞭然。ただ、両方に植えたバジルで比べると、やっぱり肥料が混合された市販の土を入れたプランターの方が伸びは良いようです。
これからも、ほぼ一週間おきにサラダ用に収穫できそうです。
【注記】
パセリは、2年草とも言われる通り、2年目に花芽が出て結実します。そのため2年目の株は花芽を摘まないと上に伸びてしまい、あまり葉が成長しません。花芽を取っても3年目は新しい株に更新した方が良いようです。
(前話に続いて・・・)
次女が溜まった洗濯と部屋の掃除をすると言うので、その間2時間ほどですが、久し振りの映画を見るには時間が足りず、そこで家内と成田周辺の小旅行をすることにしました。
さて、2時間でどこへ行けるか?ということで選んだ行き先は佐倉。
長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督の出身地ですが、江戸時代、佐倉は老中堀田氏11万石の城下町で、今もその名残が残ると言います。松本に生まれ育ったせいか、城下町には親近感を覚えます。
時間も余り無いので、今回は武家屋敷だけを見ることにして、徒歩範囲にあるJRで佐倉に向かいました。
佐倉は江戸時代藩主堀田公が蘭学を奨励し、「西の長崎、東の佐倉」とまで謳われたそうで、現在の順天堂大学は佐倉にあった医塾順天堂がそのルーツとか。
武家屋敷ではボランティアの方々か、ご老人が無料のガイド役を務められていて、当時の武士の生活の様子などを見学者に熱心に説明してくださいました。
現代の住宅と比べても、今の方がよっぽど大きいと思えるほど、思いの外小さな屋敷でした。質素倹約を旨としたであろう当時の様子が伺えます。
藩士の屋敷は、各自の禄高で大きさ、部屋数等が決まっていて、持ち家ではなく藩からの借家なのだとか。
江戸時代は、幕府による藩替えで移封されるとも珍しくなかったため、持ち家はしなかったということでしょうか。
佐倉藩では、300石、100石で屋敷の広さも大中小と区別され、ここにはほぼ当時のそれぞれの武家屋敷3棟が移築されています。内2軒は中に上がることができます。
他にも佐倉には、遺構が良く残り「日本100名城」に選ばれているという佐倉城址や、重文の藩主堀田公の旧邸宅などが残りますが、今回は残念ながら時間がなく、2時間の小旅行を終えて成田へ戻りました。
ゴールデンウィークは毎年リンゴの摘花作業に追われてどこへも出られませんので、次の摘果作業(仕上げ摘果)が始まるまで暫く間が空くことから、家内への罪滅ぼしもあって5月下旬に娘たちのところに行ってきました。
先に次女の住む成田へ。私は引越し荷物を運んだ震災直後の3月19日以来です。
前回見つからなかったクリーニング店が駅の反対側にあるらしいとのことで、探すように言われ、ニュータウン方面への発着口となる西口に漸く見つけて、家内と二人で衣類やコタツの布団を持って行った時のクリーニング店のご夫妻との世間話。
一昨年松本に観光で行かれたそうで、「山とお城があって、松本はイイ街ですね」と仰るので、「いえいえ、成田も表参道とか本当に風情がありますね」。ついては・・・と、表参道でのお薦めの鰻屋さんをお聞きしたところ、「川豊(かわとよ)」と「本田」の二つのお店を教えていただきました。
歩きながら新勝寺へ向かいます。途中、教えていただいた老舗の鰻屋さん(「川豊」本館)など、風情ある街並みが続きます。今度来た時には、是非食べてみたいですね。
お参りを済ませてから戻り、今回のお目当ての一つであるお寿司屋さんへ。
表参道の「江戸ッ子寿司」本店(京成成田駅近くの小路沿いに支店もあり)です。前回初めて伺ってすっかりファンになり、以降家内たちは4回目?、私はこれが二度目です。
「あっ、今回はお父さんもご一緒ですか。遠いところをご苦労様でした。」
銚子を始め漁港が近いせいか、ここのネタの大きさ、新鮮さ、そして値段の安さ。特に山国信州から来ると本当に驚くほどです。前回、イワシが絶品でした。
下の娘が、食わず嫌いか、今まで食べなかったようなネタまで、ここでは「美味しい!」と喜んで食べるのには家内共々ビックリです。前回は平目をお替りまでしたそうで、今回は酢牡蛎とか・・・。オイオイ、今まで生で食べたことなんかあったっけ・・・。
そう言えば、私も昔はウニが嫌いで、出張で新橋に打ち合わせに来た際、先方の本部長さんがお昼にお寿司屋さんに連れて行って下さり、出されたネタの中にウニ。残すのも失礼なので、目を瞑って食べたら臭みもなく甘くて、その違いにビックリしたことがありました。やはり、新鮮なモノは違います。もしかしたら、美味しくないモノを最初に食べたがためにそれを嫌いになった、ということも世の中存外多いのかもしれません。
今回も、マイワシは脂が載って甘くて、一人で4貫も頂いてしまいました。平目がプリプリです。アジも旨いなぁ。卵もイイ味してるなぁ。
聞けば、やはり4月は震災影響で人出がぱったりだったとのこと。また原発事故で、魚の産地を気にされるお客さんもいらっしゃるとか。
でも、この日は常連さんか、結構混んでいて何よりでした。
こういうお寿司を頂くと、ヨーシ、また今度食べられるまで頑張ろう!と元気が沸いてきます。他で食べるのを我慢してでも、また来ようと思います。
ご馳走さまでした!
前話での、成田の「紅虎」で食べた土鍋料理“クレイポット”の味(餡かけ)を忘れぬうちにと、週末に目と舌の記憶を頼りに挑戦し、その後も何度か作っています。
あの時のクレイポットは、ナス、小間肉(ロース?)、水煮のタケノコ、それにマッシュルームも入っていたような・・・。
今回、味の素のCock Doの「豚肉と卵のチリトマトソース炒め」の一品だけではちょっと寂しいので、何か中華でもう一品として作ってみることにしました。
三人前として買ってきた材料は、ナスを二袋の8個と小間肉の替わりに混ぜ易いように豚挽肉のみ。まだ春ナスは値段が高目なので、〆て500円くらいです。そして味付けは常備の李錦記のオイスターソースと、トロミを出すための水溶き片栗粉。
ナスは縦に8等分しました。ナスは油を良く吸うので、多目のサラダオイルを熱して(香味的には胡麻油の方がイイかもしれません)、強火でしんなりと透明感が出るまで炒め、途中で挽肉も炒めて混ぜ、オイスターソースを絡めて最後に水溶き片栗粉でトロミを付けて完成です。簡単スピードクッキング。
また、少し唐辛子などの辛味があった方が中華的にはイイかもしれませんね。
これなら材料的にも安上がりで、さっと作れますし、クレイポットの様に丼風にご飯に載せてもイイでしょう。
その後、我家の定番中華メニューになりました。