カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
先週末の23日の土曜日はまとまった雨で、果樹や庭木には恵みの雨になりましたが、散り始めの桜には酷な雨でした。
午前中小雨の内に外の仕事を済ませ、雨脚が強まってからは家の中の片付けなどをして、翌24日の日曜日の午前中まで掛かって漸く終了。そして、お昼に市議選の投票を済ませてから、時間が取れた午後、天気も良かったのでナナも連れて本当に久し振りのドライブです。
そこで、高遠(平成の合併で現伊那市)に桜を見に行ってみることにしました。混み具合にもよりますが、松本からは1時間ちょっとでしょうか。
H/Pで確認すると、散り始めていますが、この日が最後のチャンスとか。
諏訪の社宅に居た頃、当時2歳ちょっとだった長女を連れて杖突峠を越えて見に行ったら既に葉桜で、娘が「お花はどこにあるの?」とキョトンとしていたのが懐かしく思い出されます。そのためずっと気になっており、四半世紀ぶりですが、やはり一度は見ておかないと。
今年は震災の影響で人出が半分だそうですので、その意味で地元の人間にとっては最後のチャンスかもしれません。今年は、夜のライトアップも中止とか。
園内に入場(桜の時期だけ入園料700円です)。ここは事前に確認してペットも入場可。例年の半分とはいえ、全国的にも桜の名所ですので、県外客も含めてかなりの人出です。普段なら身動きが出来ないほどの混雑なのでしょう。
高遠はタカトウコヒガンザクラ(県の天然記念物)で、長篠の戦いに勝利した織田信長の5万の大軍に囲まれ、籠城する僅か3千人の手勢で対抗して壮絶な最期を遂げたという仁科五郎信盛(県歌「信濃の国」にも登場します)の逸話に因み、“血染めの桜”とも呼ばれるほどソメイヨシノに比べてピンクが濃いのが特徴と言われています。
“天下随一の桜”と謳われたように、近世山城跡の小山が1500本と言われる桜で埋め尽くされていて見事です。
高遠城は往時も天守閣は無く櫓があっただけだそうですが、山の地形を巧みに使った空堀などが残り、明治まで8代続いた内藤氏(幕府より普請を命じられて甲州街道に新しい宿場町を造ったことから、内藤新宿と呼ばれた新宿にその名を残します)の居城跡として、“兵どもの夢の跡”が桜吹雪に偲ばれます。
お粗末ながら、さしずめ『桜舞い つわものどもの散りし跡』でしょうか。
また高遠は辛味大根の蕎麦が有名で、街のあちこちにお蕎麦屋さんが見られます。江戸時代に藩主保科氏が会津藩に移った際に、高遠の蕎麦職人を連れて行ったため、双方に辛味蕎麦が名物として今に伝わっています(追記)。
昼食はペット入店可の飲食店が見当たらず、また花冷えで少し寒かったので、公園の出店でお焼きを買って、桜舞う高遠を後にしました。
松本ではお城は既に葉桜ですが、高台のアルプス公園の桜は満開とのことですので、今週末までは楽しめそうです。
休日になったら、チロルとナナを連れて行ってみようと思います。
【追記】
余談ながら、後の会津藩主で名君の誉れ高い保科正之(将軍秀忠の4男-従って江の実子ではなく庶子-で、時の高遠藩主保科正光の養子となってこの城で少年期を過ごしたそうです)は、異母兄の3代家光、4代家綱の将軍に仕え、幕政を支えた名補佐役と言われ、縁(ゆかり)の高遠と会津若松が連携して、NHKの大河ドラマに取り上げるよう投げ掛けをしているとか。その是非はともかく(何となく観光誘客が主目的のような気がします)、今回の大震災に絡んで、江戸復興を担った保科正之が珍しく全国紙で取り上げられた記事があり、興味深く読みました。
曰く、明暦の大火で江戸が火の海になって江戸城天守閣も焼け落ち、上野寛永寺への将軍退避を幕臣が計画した際、庶民を徒に不安にさせぬよう総大将は何があっても動いてはならないとして取り止めさせたとか、焼け出された庶民を救済(炊き出し等)する中で、大火にも混乱無く冷静に行動する庶民に感動し褒め称えた、という内容でした。
今回の政府の行動とは対極にあり、逆に被災者の方々の行動には、決して近代教育の成果ではなく、この国の人々の持つ同質性を感じました。