カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 (前話に続いて・・・)
 翌日も引き続いての引越しの整理や買出しも終わり、松本へ帰る前に、せっかくですので、この街に次女がお世話になるご挨拶を兼ねて成田山へお参りに出掛けました。

 駅から新勝寺までは表参道入り口に800mとの表示。薬師堂で二股に別れ、参道は坂を下っていきますが、成田山の多宝塔が見え隠れしながら、駅からの風情ある街並みがずっとお寺の総門まで続いています。
老舗の鰻屋さん、佃煮や漬物などのお土産物屋さん、竹細工の店、煎餅屋さん、また古い木造の三階建ての旅館など、三寧坂とはまた違う、お寺へと続く風情漂う坂道です。
さして広くない道を一方通行の車が通ります。脇道が無いので、歩行者道路には出来ないようです。
 
 帰路、家内が家へのお土産に「鮎の甘露煮」(千葉にも鮎がいるのかなぁ?)と「米屋」の千葉名産の落花生を模した最中を購入。
最初、成田のコメ屋さんは店構えが綺麗なのに驚きましたが、そうではなく「ヨネ屋」という老舗の和菓子屋さんでした。(そう言えば海外赴任中、音楽雑誌で見た米米クラブをてっきりヨネヨネクラブだとばかり思ってましたっけ・・・)
米屋は江戸時代に栗羊羹で名を成したそうですが、信州でも小布施に代表されるように栗菓子は珍しくありませんので、信州へのお土産としては不向きかも。
 さて、成田山新勝寺は、初詣で全国2番目の300万人近くを集める、開基1070年余という真言宗智山派の大本山。
しかも、平将門の乱で荒れた東国の平定のために、時の朱雀天皇が京都高雄の神護寺にあった、空海作と言われる不動明王をご本尊として遣わされたという京都にも縁のお寺でした。
その後戦国時代の混乱で寂れていたのを、屋号「成田屋」で知られる通り、初代市川団十郎などに代表される江戸の庶民信仰で発展したお寺なのだとか。
そのため、印象的にはもっと古いのかと思いましたが、現在の伽藍の殆どは江戸時代以降の創建と存外新しくて、意外にも国宝は無く、山門や三重塔などの重文が幾つかあるだけだそうです。
境内では、石灯籠が崩れるなど、一部には地震の爪あとも見られました。
ちょうど参拝した時も、大護摩祈祷が行われ、本堂には外国の方が何人も神妙に正座をしてお参りをされていました。
ここは今でも、観光ではなく信仰の寺-そんな雰囲気でした。
 江戸時代以降、幾度もの飢饉や地震などの災害が起こる度に、おそらく庶民の祈りを受け止めてきたであろうこの寺に、娘がこの街に住まわせていただくご挨拶と共に、今回の災害復興へのお力を祈らずにはいられませんでした。-合掌

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