カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 (前話に続いて・・・)
 翌日も引き続いての引越しの整理や買出しも終わり、松本へ帰る前に、せっかくですので、この街に次女がお世話になるご挨拶を兼ねて成田山へお参りに出掛けました。

 駅から新勝寺までは表参道入り口に800mとの表示。薬師堂で二股に別れ、参道は坂を下っていきますが、成田山の多宝塔が見え隠れしながら、駅からの風情ある街並みがずっとお寺の総門まで続いています。
老舗の鰻屋さん、佃煮や漬物などのお土産物屋さん、竹細工の店、煎餅屋さん、また古い木造の三階建ての旅館など、三寧坂とはまた違う、お寺へと続く風情漂う坂道です。
さして広くない道を一方通行の車が通ります。脇道が無いので、歩行者道路には出来ないようです。
 
 帰路、家内が家へのお土産に「鮎の甘露煮」(千葉にも鮎がいるのかなぁ?)と「米屋」の千葉名産の落花生を模した最中を購入。
最初、成田のコメ屋さんは店構えが綺麗なのに驚きましたが、そうではなく「ヨネ屋」という老舗の和菓子屋さんでした。(そう言えば海外赴任中、音楽雑誌で見た米米クラブをてっきりヨネヨネクラブだとばかり思ってましたっけ・・・)
米屋は江戸時代に栗羊羹で名を成したそうですが、信州でも小布施に代表されるように栗菓子は珍しくありませんので、信州へのお土産としては不向きかも。
 さて、成田山新勝寺は、初詣で全国2番目の300万人近くを集める、開基1070年余という真言宗智山派の大本山。
しかも、平将門の乱で荒れた東国の平定のために、時の朱雀天皇が京都高雄の神護寺にあった、空海作と言われる不動明王をご本尊として遣わされたという京都にも縁のお寺でした。
その後戦国時代の混乱で寂れていたのを、屋号「成田屋」で知られる通り、初代市川団十郎などに代表される江戸の庶民信仰で発展したお寺なのだとか。
そのため、印象的にはもっと古いのかと思いましたが、現在の伽藍の殆どは江戸時代以降の創建と存外新しくて、意外にも国宝は無く、山門や三重塔などの重文が幾つかあるだけだそうです。
境内では、石灯籠が崩れるなど、一部には地震の爪あとも見られました。
ちょうど参拝した時も、大護摩祈祷が行われ、本堂には外国の方が何人も神妙に正座をしてお参りをされていました。
ここは今でも、観光ではなく信仰の寺-そんな雰囲気でした。
 江戸時代以降、幾度もの飢饉や地震などの災害が起こる度に、おそらく庶民の祈りを受け止めてきたであろうこの寺に、娘がこの街に住まわせていただくご挨拶と共に、今回の災害復興へのお力を祈らずにはいられませんでした。-合掌

 次女の新しい住まいは、京成・JRそれぞれの成田駅から成田山へ続く表参道。風情ある街並みが続きます。

 家内と娘が引越しの整理や運んで来た荷物の片付け中、分別用のゴミ袋の購入やクリーニング店を探すよう指示されて、駅周辺や表参道の商店街を歩いて見ました。

 成田の第一印象は、坂の街。
NEXで通過するだけでは分からなかったのですが、駅周辺を歩いてみると段丘上に位置しています。最初河岸段丘かと思いましたが、それらしき川もなく・・・。盆地と山に囲まれた信州人には馴染みの薄い、これは台地だと漸く思い至りました(そう言えば中央線の日野駅周辺も段丘状ですが、武蔵野台地でしょうか。ここ成田は北総台地とか)。
そして空港を別にすれば、成田山で発展した門前町らしく、駅周辺と参道沿いに古い商店街があるだけ。人口12万人という市の規模からは不釣合いと思えるほど立派な市庁舎と空港に近いためビジネスホテルが幾つかあることを除けば、普通駅周辺に見られるデパートは勿論、スーパーも殆ど見当たらず、個人商店が軒を連ねています。しかも、刃物屋さんなど昔ながらのお店以外は、成田山詣での参拝客相手なのか、やたらと食べ物屋さんと土産物屋さんが多い。それも、印旛沼名産の鰻を売り物にした古くからの食堂や、同じく淡水魚(小さな魚は「ざこ」との表記。雑魚の種類を聞いたのですが、店のオバチャンも知らないとか)の甘露煮や佃煮屋さんとかに混じって、タイ、インド、メキシコ、ブラジルといったエスニックなレストランも多く見られます。
そして参道を歩く人たちも、海外からの観光客か、或いは空港関係で働く、若しくは外国キャリアのクルーの人たちか、やたらと外国の方が目立ち、何だか江戸時代からの古い街並みにインターナショナルと言うか、マルチナショナルな不思議な雰囲気の漂う街で、改めて成田が日本の空の玄関であることを認識させてくれます。

 結局買出しは、カーテンの止め具やらキッチン用品やらの生活用品も食料品も、郊外の巨大なショッピングモールへ行くしかないようで、駅から直行バスが15分間隔で運行されています。

 片付けも一段落し、せっかくなので引っ越し祝いを兼ねて夕食は近くのお寿司屋さんへ。
千葉は銚子に代表されるように海が近いせいか、必ずしも有名店ではないのかもしれませんが、ネタが新鮮で大きく、しかもビックリするほど安くて感動モノでした。
2月に長女たちが、「最近評判の行列店なんだよ!」とわざわざ先に順番待ちで並んでまでして連れて行ってくれた、渋谷マークシティーのお寿司屋さんも、確かにネタも新鮮で東京とは思えぬほどの値段で感激しましたが、ここはそれ以上です。
特にイワシ(マイワシでしょうか)など、今まで食べたことが無いくらい新鮮で生臭さが全く無く、しかも脂が乗って甘く感じます。魚偏に弱いと書く「鰯」というその名の通り、鮮度が命。また椀物の白味噌仕立てのイワシのツミレ汁も、信州では絶対に食べられない美味しさでした。
信州からですと、東京と違い早々は来られませんが、娘の所に来る楽しみが増えました(寿司が目的とは言えませんが・・・)。
他にも興味を引く店が幾つかあって・・・うーん、ここは奥が深そうです。

 成田山表参道-古くて新しい世界が同居するような、風情漂う素敵な街でした。

 次女が4月から社会人になるに当たり、成田へ引っ越しましたが、それも15日だったので、地震直後でもあり家内が心配して手伝いに行きました。
使っていたベッドが大きすぎるとのことから、引き取ってもらい、替わりの布団や生活用品をそれに合わせて14日に松本から新居へ送ろうと予定していましたが、地震の影響で宅配便の配達がいつになるか分からないとのこと。意を決して、春分の日の三連休に引越し先の成田へ車に積み込んで向かいました。
往復のガソリンが心配ですが、いつものスタンドで満タンにしてもらい、ナナはお袋に預け、チロルはペット病院が一杯で止む無く家でお留守番です。

 途中、談合坂で休憩をしてガソリンを補給しましたが、5㍑の給油制限で20台以上が順番待ちです。
また湾岸線が地震被害で通行止めのため、京葉道路経由です。そのため、首都高は大渋滞で、三宅坂から京葉道路合流に1時間近くを要し、自宅を出てから5時間掛かって漸く成田市へ到着しました。松本から片道300km。

 被災地ほどでは無いにしても、ここ成田も民家の屋根にはあちこちにブルーシートが掛けられていたり、またショッピングモールも天井に亀裂があって、その直下はロープが張られ立ち入り制限がされていたりと、所どころ地震の影響が見受けられます。
スーパーでは、報道されている通り食パンや乾電池が皆無なのはともかく、納豆も全く見当たりません。娘曰く、ここは水戸納豆が殆どだから、地震被害で入って来ないのだとか。そうなんだと、地震被害を改めて実感しました。

 娘の大学も卒業式が中止になりました。社会に出る節目でもあり残念ですが、東北出身の学生さんや親御さんもおられますし、また直前になるまで分からない計画停電を考えると、大学側の判断は当然で止むを得ません。
 ただ、超氷河期と言われた就職活動や今回の大震災など、親としては不憫で、彼らの世代の巡り会わせを思わずにはいられません。
しかし、『天は自ら助くる者を助く』。
学生から社会に出るに当たって、娘に送った言葉は「ジリツ(自立&自律)」。
皆さんも先ずは自分の足で大地に降り立ち、自らを律し、自分を信じてどうぞ頑張ってください。
でも、もし途中で疲れたら、その時は立ち止まって休めばイイ。焦らず、急がず、一歩ずつ。
駅に貼ってあった、ある予備校のポスターのキャッチフレーズです。
『私は奇跡を信じない。自分の軌跡を信じる!』

 2011年4月。嵐の中の出航ですが、これからはそれぞれが社会の復興の担い手です。みんな頑張れ!

 今回ほど、家族の絆、そして人の繋がりを感じさせることはない、そんな感じがしています。

 ラジオや新聞や、そしてTVなどの報道で気になった話。

 被災地ではない地域のお母さんからのメッセージで、家庭で節電協力の話をしたところ、幼い兄弟がいつもは真っ暗だと怖がって泣いてしまうのだそうですが、その夜は真っ暗にして寝ていたそうです。
自分たちに出来ること、今この国の人間は老いも若きも、皆一人ひとりが自分なりに考えているのではないでしょうか。
「肩揉み隊」を結成し、避難所のお年寄りに肩叩きや肩揉みをする避難所の子供たち。
また手作りのゲームで、退屈しがちな避難所の小さな子供たちを遊ばせる避難所の高学年の子供たち。

 制度創設後初めてという予備自衛官の招集に、津波に襲われた自宅の片付けに中に辞令を手渡され、「ご自宅がこんな状態でも行かれますか?」と聞く記者に、
「もし今行かなければ一生後悔しますから。」
一緒に瓦礫を片付けていたお母さんが、
「後は私が頑張るので、お役に立ってきてください。」

昔の印象が悪すぎるので誰も使いませんが、正に「お国のため」という古いフレーズが思い出されます。
言葉少なに「任務ですから」と、危険な作業に立ち向かう自衛官や消防隊員。
世間からの批判を浴びながらも、現場では懸命に危険な作業を続けている同じ電力会社の社員も大勢いる筈です。

 そして、原子炉への放水作業後、東京消防庁の精鋭を集めたハイパーレスキュー隊の、涙ぐみながらも自身の思いを秘めた記者会見。
「今回の出動にご家族は?」との記者席からの問い掛けに、現場で指揮をした小隊長が、地震発生後自分たちの出番が必ずあると家にも帰らず訓練を続け、いざ福島原発への放水に出動すると決まり、ご家族にそれをメールで伝えた後の奥様からの返信。ただ一言、
「日本の救世主になってください。」

正に指揮官の妻。
昔見たアルマゲドンを思い出しましたが、決して映画の中のフィクションではなく、現実にこの国で起きているという事実の重さに、国民の一人として姿勢を正す思いで涙を禁じえませんでした。

 一方で、「放水を止めたら処分する!」と消防隊を恫喝まがいの強制(一部報道は「圧力」)をしたという経産大臣(3月22日産経新聞)。
時々その言動で物議を醸す都知事ですが、今回はその政府高官の発言への抗議に、東京消防局を統括する責任者として官邸に怒鳴り込んだというのも、首相が電力会社へ自ら怒鳴り込んだとういうパフォーマンスとは異なり、理解できます。

 危機管理に当たり、今、この国はそれぞれのリーダー・指揮官の姿勢や資質が問われています。その一番は時の政府の最高責任者に他なりません。

 高山文彦著『あした、次の駅で』(ポプラ文庫)。
失礼ながら著者の方も存じ上げず、通勤で読む本が無くなったので、何となく文庫本の新刊コーナーにあったのを買って、帰りの通勤電車で読みました。

 何だか不思議な、とても魅力のある小説でした。特に懐古趣味に陥りそうな中年男性にとっては・・・。
期待せず読み始めたのに引き込まれてしまい、あっという間に読み終えました。ある日などは、終点の松本に着いたのを気が付かず、車掌さんに教えられたほどでした。
 物語は、宮崎の高千穂峡出身の映像作家?が、高校卒業以来拒んできた故郷に、高校時代の女友達から突然送られてきた、廃業する映画館の最終上映会の入場券を手に、台風被害の後運転再開した高千穂鉄道に乗って戻る道すがらのストーリー。
列車に偶然乗り合わせた地元の人々との不思議な巡り会わせと、高校までの思い出が絡み合いながら物語が進行していきます。

 “神話の故郷”高千穂の山桜咲く谷間の風景と、主人公含め閉館となる思い出の映画館に向かうために1両のトロッコ列車に乗り合わせた素朴で温かな土地の人たち。
空想するに、何だか春霞のベールに包まれたようなパステル色の高千穂の映像と、モチーフとなる最終上映の映画「ひまわり」の画面一杯の黄色の原色の記憶が優しく包み、更に神話の故郷らしく神秘のベールで読み手自身も包み込まれているような、読んでいて何とも不思議な感覚です。
そして、“偶然”乗り合わせた主人公とその人たちとの邂逅の“必然”が、やがてそのベールを一枚ずつ剥がすように明らかにされていきます。

 氏自身が高千穂生まれで、大宅壮一賞を受賞したという元々ノンフィクション作家であり、この小説は「ミラコロ」という不思議な題名を文庫化に当たり改編したものとか。
実際に台風被害で廃線となった故郷の高千穂鉄道を、現実の世界では無理でも小説の中で蘇らせたかった、ということが執筆のキッカケだそうです。

 著者自身の後書きで、氏と高千穂鉄道の巡り会わせを知れば、その必然性にナルホドと合点がいきますが、興味ある方はご自身でご確認ください。

 そして、ここで『澪つくし料理戸帖』の第5巻「小夜しぐれ」が発刊されました。大事に読まなくっちゃ!

 まだ10日前のことだと言うのに、11日を境に遠い昔のことだったような気がします。

3月9日の水曜日、県文(ハーモニーホールの音文に対し、長野県松本文化会館)で、佐渡裕指揮BBCフィルハーモニックの演奏会がありました。
話題の辻井伸行をソリストに迎えてのチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番と、「新世界」の組み合わせ。2011年、シーズン最初の楽しみにしていたコンサート(第422話参照)です。

 当日、6時半の開場に合わせて少し早めに上がらせていただき、家内といそいそと出かけました。
演奏は勿論ですが、開演前のロビーの喧騒もワクワクとした期待感が高まるようで好きなひと時です。この日のチケットは、早々と完売だったようです。
ところが時間になっても一向に会場が開きません。ロビーに2000人近い聴衆が溢れます。何と不審電話があり、会場を点検中とのこと。
家内曰く、「きっと、抽選でチケット外れた人のイヤガラセだよ!」、「そんな、アホな・・・?」不届きな輩がいるものです。
ロビーに会社の友人もお嬢さんたちと来ていて、彼のお嬢様は確か桐朋のピアノ科在学中だった筈。そうか、皆さん辻井さん目当てなんですね。
結局30分遅れの7時半に無事開演しました(写真は休憩中)。

 パンフレットに拠れば、BBCフィルハーモニック2011ジャパンツァーでの松本はBプロですが、Aプロはラフマニノフの2番と幻想交響曲の組み合わせとか。あぁ、個人的にはこっちの方が良かったのになぁ、残念!
幻想は、赴任先のシンガポールで、今は亡き若杉弘さん指揮のトーンハレを聞いただけ(ん?新世界も京都での学生時代、泣けだしの生活費を切り詰めて聴きに行ったノイマン&チェコフィルだけだったかも・・・?)
同じドボルザークなら、8番「イギリス」の方が相応しいのに、と思ったら、このコンビで新世界とチャイコの1番もCD録音していたんですね。ナルホド。

 さて、当日は英国のオケらしくブリテンの「4つの海の間奏曲」で始まり(初めて聴きました)、続いてチャイコの1番。アンコールは同じくチャイコフスキーのピアノ曲「トロイカ」とのこと。
演奏後、ソリストを称え、聴衆の拍手に応えるように佐渡さんが辻井さんの手を高く差し上げます。そう言えば、彼のCDデビューも(クライバーンコンクール前)佐渡さんの指揮だった筈。二人の信頼関係が感じられました。
休憩を挟み、新世界と、そしてアンコールもドボルザークのお馴染みのスラブ舞曲の8番という当日のプログラム。終わったのは10時でした。
佐渡さんが、アンコール曲紹介の前に「皆さん、今日は遅くまで大変お疲れさまでした!」との挨拶に、また拍手!
演奏の皆さんこそ、むしろお疲れさまでした。何度かのカーテンコールの後、佐渡さんが促し、オケの皆さんが席を立たれても満場の拍手は鳴り止みまず、それに応えて団員の皆さんは手を振りながら袖に退かれていきました。
彼らはまだツァー中なのでしょうか、それとも無事英国へ戻れたでしょうか?

 さて、辻井伸行のピアノ。この人は、どうしてこんなに一音一音がキラキラと“粒立って”いるのだろう?
目で楽譜を見て覚えるのではなく、一音一音耳で聴いているからなのでしょうか?出だしこそ多少音の輪郭がぼやけていましたが、第一楽章のカデンツァ辺りから音が粒立ってきました。弱音でもそれは変わりません。彼の性格そのもののような純粋さが音となって零れ出るようです。
今はまだピアノだけの曲の方が、彼の良さが表れるような気がします。弱冠22歳、将来が楽しみです。

 佐渡さんの指揮。聴き慣れたメロディーが、思いの他ゆったりとしたテンポで始まり、アゴーギクを効かせながらのTVでも見慣れたダイナミックな指揮振りです。何となく、どうしてもシンフォニックバンドを連想してしまうのは私だけでしょうか。当日は雪が舞うほど寒かったので暖まっていなかったせいか、ちょっと金管が荒かったな。でも、やっぱり生はイイなぁ!因みに、家内はブリテンが一番良かったとのこと。ほほー!

 当日配布されたチラシによれば、10月22日(土)に県文で、佐渡裕指揮ベルリン・ドイツ交響楽団の2011ジャパンツァーの演奏会があり、珍しく松本公演がツァーの初日だとか。しかも、メインがチャイコの5番♪
学生時代、生まれて初めて買ったLPがこの5番(カラヤン&BPO)でした。
イイなぁ!どうしようかなぁ、でもなぁ・・・。翌週には音文でのOEK。
うーん、ハーモニーメイトの幾つかを諦めないといけないかもしれません。
嬉しい?悩みがしばらく続きそうですが、海外からも含め、演奏会も次々と中止されているようです。
一日も早く、またこの国に普通に音楽の流れる日が来ることを願っています。

 我家で購読している新聞は2紙(朝刊のみ)。その内朝日新聞は、海外から帰任後、家内が「朝日の記事が入試に出るから、新聞は朝日!」と“強要”され取り始めたもの。
 個人的には、必ずしも好きな新聞ではありません。特に昔から、なんでもかんでも反対的な政治・経済記事は殆ど読まず、日経の方を読んでいます。

 その中で、「惜別」は昔から好きですし、ここ2年くらい?連載されている「ニッポン 人・脈・記」や、時々掲載される「五線譜」はとても好きなコラムです。どうやら、(あくまで個人的な嗜好ですが)朝日は、政治経済よりも「人」を描く記事の方が良いようです。

 特に「ニッポン 人・脈・記」がイイ。さまざまな話題を、支局の記者の方も含め執筆しています。そして印象的には、女性記者の記事の方がイイ。
これまで、甲子園、町工場、性同一性障害、在日韓国人はじめ色々なテーマが取り上げられ、記事からは日本各地の市井の人たちに丹念な取材をして、その中から琴線に触れるエピソードを掘り出していることが伺えます。
(既に朝日文庫から過去分が出版されているようです)

 涙あり、時として笑いあり。そして今は、鹿児島県の離島「下甑島」の診療所に30年以上勤められている瀬戸上先生を巡る人脈記でした。これまで全く存じ上げませんでしたが、「Dr.コトー」のモデルと言われるそうで、テーマもずばり『Dr.コトーを探して』(そう言えばDr.コトーも舞台はコシキジマでした)。
記事に登場する島の人たちが実にイイ。Dr.コトーより実話の方が遥かに感動的で泣かせてくれます。そして、日本中のDr.コトーを探しながらコラムは続きます。

【追記】
震災後、朝日新聞でも中断していた「人脈記」が、朝刊では15日から再開されましたので、ここで掲載することにしました。

 東日本を突然襲った巨大地震(東北関東大震災)の余りの悲惨さに、TVの前から離れられない人も多かったのではないでしょうか?
昨日の朝の通勤電車も、いつもと違い車内が何だか重苦しい雰囲気でした。未曾有の大震災に、今日本全体が打ちのめされています。

 事実を報道することがその使命とは言え、大津波が町を飲み込んでいく惨状が、それこそ何度も何度も繰り返し流されるのはどうなのでしょう?
特に被災地の方々は、フラッシュバックの様に流されるその映像に、今後PTSDにならないかと心配になる程です。

 そんな中、13日の日曜日は朝からリンゴの剪定した枝の片付けをしました。
被災地を気にしつつ、FM放送を流しながらの作業です。
FM長野でもキー局の東京FMからの、TV同様に臨時番組が朝からずっと流されていました。

 ラジオを聴きながら子供さんと一緒に、給水所に2時間並んでいるという被災地のお母さん。また避難所でお年寄りの疲労度が心配と言う方や、避難所にいる小さな子供たちを心配する声。
そんな避難所や日本各地からのリクエストで、避難所などにおられる被災者の方の少しでも励みになればと、お年寄り向けに「上を向いて歩こう」や子供たちには「アンパンマン・マーチ」などが、また各地からも同様に励ましに相応しい曲がリクエストされ、また番組でも選曲されていました。

 そして、ラジオの身軽さを活かして、米国在住の日本人ジャーナリストや、中国中央電視台の記者などから、各国での地震の報道状況の紹介。
またオペレーション“トモダチ”と名付けられた、米国の異例とも言われる空母2隻を含む大規模な支援活動の紹介。
一方、官房長官の原発事故の説明会見に、度重なる申し入れにもかかわらず、政府は外国人記者の同席を拒み続けていると言うTVでは報道もされなかった事実(13日の放送でパーソナリティーを務めた、NYタイムズの元日本人記者で現在はジャーナリストの方の、同日午後時点での話)。
しかも、大丈夫とその都度大見得を切りながら、後手後手に回った挙句、あろうことか住民に被曝者まで出す始末。住民の方々は、国民は、一体何を信じたら良いのでしょうか?

アナウンサーの方がネット検索をした結果として、レディー・ガガやシンディ・ローパー、マドンナ等の著名人が、励ましのメッセージや支援の表明を続々と行っているという紹介。
そして、海外から、略奪もなく整然と行動する被災地などの日本の人々に対する“グレーター・ジャパン”という賞賛や激励の声。
海外からの声や“アンパンマン”に、被災者でなくとも励まされる放送でした。

 事の重大さを報道することは勿論重要ですが、一方で、打ちひしがれた人たちに何を伝えるべきなのか?

 英国紙「インディペンデント」がわざわざ日本語で一面に掲げた、大きな日の丸に書かれた『がんばれ日本、がんばれ東北』の文字(英語で、“Don’t give up, Japan. Don’t give up, Tohoku!”)

みな、同じ気持ちなのではないでしょうか。
“負けるな東北、負けるなニッポン!”

 とんでもないことになりました。皆さんのところは、大丈夫でしょうか?
被災された方には心からお見舞い申し上げます。
東京にいる娘たちも、幸い大丈夫でしたが、外出していた次女は、長女が心配して歩いて迎えに向かうなどして、結局深夜に私鉄が運転再開となり、戻ったのは夜中の1時でした。 
 この国は一体どうなってしまうのでしょうか?でも、これまでも台風列島、地震列島と言われ、皆で思いやり、助け合いながら、その都度災害を乗り越えてきた日本人です。
被災しなかった人間が、まずできることは、募金と節電でしょうか?
どうしようかと思いましたが、こんな時だからこそ、地震に向き合った門前のことを、敢えて掲載することとします。
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 石川県立門前高校から届けていただいた『私たちの時代』のDVD。
やっと剪定も終わったので、これまで4回視聴しました(これまでの経緯は第424話&435話を参照ください)。

 『私たちの時代』は、フジTVと地元石川テレビの共同制作で、2006年から門前高校ソフトボール部の取材を開始し、あろうことか偶然にも取材中の2007年3月25日に起きた門前町付近を震源とする震度6強の「能登半島地震」を経て、2009年までの3年間に亘る長期取材番組で、暮れも押し迫った昨年の12月30日の午後1時から全国放送された2時間半にも及ぶドキュメンタリーです。

 番組は、四季折々の奥能登の美しい自然を随所に織り込みながら、地震という、時としてその自然の持つ恐ろしさを挟みつつ、まっすぐにソフトボールに打ち込む彼女たちの日常を、激さず、そして煽ることもなく淡々と描いていきます。

 奥能登の青い海が美しい。夕日に煌く黄金の波に息を呑むほどです。
グランドでボールを追う子供たちを、丘の上から赤い前掛けと帽子を被ったお地蔵さまが静かに毎日見守っています。

その穏やかな、門前町のすぐ沖合いの海が突然震源になりました。
練習試合で金沢に遠征中に地震を知り涙ぐむ生徒たちに、「失ったモノはまた買えても、命は買えない。生きていることに感謝しましょう」と静かに語り掛ける室谷先生。門前町の全員が被災者です。高校に隣接し、町名の由来でもある総持寺祖院の坐禅堂も地震被害で崩れ落ちます。

 被災しながらも、ひたむきにソフトボールに打ち込む子供たちの笑顔が素晴らしい。見守る門前町のお年寄りの笑顔も実にいい。
過疎と少子化の進む町で、「(子供たちは)町の宝やな。」と言うタクシーの運転手さん。「こんなことしか出来んから」と言って朝早く漁に出て、カゴ一杯のサザエを寮(室谷先生宅)に届けるお爺さん。
そんな町の人たちへの日頃の感謝にと、町のイベントで全員お揃いの法被に身を包み、笑顔一杯のソーラン踊りを披露する部員たち。優しく見守る室谷先生始め皆笑顔です。

生徒会長でしょうか?ガラス細工のような純粋さで、地震から1年後の卒業式の答辞で「生きる指針が定まりません!」と涙声で訴えた女子生徒。
都会に出て(?)その指針は見つかったのでしょうか?そして、我々大人たちは、その問い掛けに果たして応えられるのでしょうか・・・。
新チームになり、1年生にレギュラーの座を明け渡し、一人必死にバットを振る3年生。二人だけのグランドで、同級生のマネージャーが笑顔でトスバッティングを手伝います。

「こんなことで負けてたまるか!」、「諦めちゃダメ!」と、練習でノックをしながら、子供たちを厳しくも暖かく鍛えるコーチの道ますみ先生と、それをじっと見守る監督の室谷妙子先生。
道先生自身が、37年にも及ぶ室谷先生の門前高校での教え子第一期生とか。

淡々と語りながらも、時として感情を抑えきれずに涙声で声を詰まらせながらの、敢えて当時のマネージャーを起用したナレーションも実にいい。

 地震は勿論、全ては筋書きも無い偶然ながら、例えば室谷先生教員生活最後となるインターハイ出場を賭けた2009年初夏の石川県大会決勝。最終回で追いついての延長戦で、負傷退場した1年生に代わり登場し、劇的なサヨナラヒットを打つ元レギュラーだった三年生。そしてカメラは、敗れたライバル校である津幡高校の選手たちにも暖かい目を向けます。

 最後、何かを断定するのではなく、結論付ける訳でもなく、見る者一人ひとりに何かを問いかけるように静かに番組は終わります。
DVDを見ながら、最初に見た時だけではなく、4度目になっても何度となく涙が溢れるのを禁じ得ませんでした。

 その静かな感動を、一言で、言葉で表現することは出来ません。
やはり、この『私たちの時代』は全国放送で、こんな時代だからこそ絶対に再放送すべき番組です。特に若い人たちにこそ見て欲しい。

 フジTVの皆さん、視聴率は稼げないかもしれませんが、やっぱり、どうぞ宜しくお願いします!!

 4年前でしたでしょうか、松本駅が改装されて、従来の東口(お城口)と西口(アルプス口)の間にゆったりとした通路が設けられ、『自由通路』と名付けられています。何となく中央線八王子駅のミニ版のような、ちょっぴり都会的な雰囲気で気に入っています。

でも如何にも“松本ならでは”なのが・・・、
東口から、エスカレーターや階段を昇って行くと、3階部分が改札口とコンコースになっていて、3階に近づくに連れて視界が開け、自由通路の向こうに「アルプス口」のその名の通り、全面ガラス張りの窓越しに北アルプスがパっと目に飛び込んできます(斯く言う私メは、家内に送ってもらう飲み会のある日以外は、毎朝駐車場を借りている西口からですが)。

通路の方角的に、ちょうど島々谷の奥に乗鞍岳が見えるのですが、特にこの冬から早春に掛けては、奥の院のような乗鞍が真っ白く雪に覆われていて、朝日を浴びて神々しいほどに輝いています。近づくと、なで肩の優しい乗鞍の稜線とは対象的な、常念を始めとする鋭角的な峰々が見られ、気忙しい朝の通勤時ですが、しゃきっと姿勢を正す瞬間です(写真だと光ってしまい山が写りませんでしたが)。
きっと、松本を訪れる観光客の皆さんにも、この自由通路は好印象を持っていただけるのではないでしょうか。
 以前松本市役所の課長さんとお話した時に、この自由通路は改装に際して市が費用負担したので、松本市の所有なのだそうです。
そのため、自由通路が作られてから、物産展示やちょっとしたイベントが行われたり、また選挙の際には市の不在者投票所が臨時で設けられたり。
特に不在者投票所は、わざわざ以前のように市役所まで行かなくても良くなり、駅を利用する市民にとっては大変便利です(下の写真は西口から見た東口方面。いずれも朝7時頃で、人通りはまばらです)。
 そして夏になると、最近また増えつつある登山者の皆さんが大きなリュックサックを置いての休憩や若者の仮眠場所にもなり、“岳都”と言いながらこれまでそうした場所が無かっただけに、きっと喜ばれていることでしょう。

 1月中旬から始めた今年の果樹園の選定作業。
先週末で終了しました。巨峰と60本のリンゴ。特にリンゴは、昨秋の収穫で小玉が多く、摘果不足もありますが「ならせ過ぎ!」と家内から批判を浴びたので、今年はばっさばっさと枝を落とすことにしました。そのため、例年より1本に倍の時間が掛かってしまい、漸くここで終了です。
但し、切り落とした枝(=方言で「ぼや」と呼びます)の片付けはこれからですが(昔は、どこのリンゴ農家でも、この枝で掘りごたつ用の「消し炭」を作っていました)。

 ところでこの写真、何だか分かりますか?
まるで、タコ入道のようですが、伸びた赤い一年枝。特に樹上はこんな感じになります。リンゴは、葉の光合成で出来た養分が果実に溜まるように、枝を下向きに樹形を整えていきますが、何もしなければリンゴも自然と上向きに伸びていきます。こうした枝は全て元から切り落とします。
次の写真は剪定後。漸くスッキリしました。
 リンゴの実の個数もありますが、日当たりも想定し、どの枝を切れば良いのかを考えながら、全体の樹形を見て剪定作業を進めていきます。

 この冬の作業で、一年後の秋の収穫がある程度決まりますので、一番大切な作業です。
でも「悩んだら切る!」。お師匠の教えです。切り過ぎた!と思うくらいでイイのだとか。含蓄があります(特に捨てるのが苦手な私メにとっては・・・)。

 石川県立門前高校ソフトボール部を描いたドキュメンタリー番組、フジTV系列12月30日放送の『私たちの時代』を撮り損ねたので、第424話で書いた「再放送熱望!」。
TV局の人が、万が一にでも見てもらえればと期待したのですが、(当然のことながら)そんな筈も無く、TV欄には再放送の案内も無く・・・。

 ところがあろうことか、ちょうど海外出張で東京へ移動する前日の土曜日、リンゴの剪定をしていて不在中に電話があり、家内が出たところ・・・、
「ネットでご主人のブログを見つけたので、番組を録画したDVDをお送りします。」
という連絡が、TV局ではなく何と門前高校そのものの先生からあったとのこと。しかも、「それでは」と家内が着払いでとお願いすると、
「TV局からいただいたDVDを、関係者に配布するためにコピーしたのがまだあるので不要です。」
とのお話だったとか。
家に戻ってその話を聞いて、俄かには信じられませんでした。

 翌日、前泊での羽田移動のため、昼頃、不在中のストーブ用の薪を運んでいたところ、松本ナンバーの見慣れぬ車が停まり、
「この近くに××さんという名前の方はおられませんか?」
と見ず知らずの若い女の子に聞かれました。
「それって・・・、私ですが・・・?」
「えっ、あぁ良かったぁ!」

何事かと思えば、彼女は北安曇郡の池田町の出身で、何と門前高校のソフトボール部員なのだとか(同乗していたお姉さんも同校OBで、今は松本大学ソフトボール部在籍とのこと)。
たまたまこの日、ご両親が能登まで迎えに来られて、車で信州へ帰省すると知った門前高校ソフトボール部の監督でもある室谷先生とコーチの道先生から、「だったら、今日届けば海外出張前に見られるかもしれないから」と彼女がDVDを託されたのだそうです。

 しかし同じ信州とは言え、池田町と松本では20km以上離れていますし、もし糸魚川から姫川沿いに遡って来れば、松本は池田町を通り越しての遠回りになってしまいます。
突然のことに驚いて、こちらのお礼もそこそこに、
「出張に出発される前に、お渡しできて良かったですぅ!」
と彼女は爽やかな笑顔で、車に乗ってまた戻って行かれました。

 見ず知らずの人間に、しかもネット検索をしてたまたま当方のブログをご覧になっただけでこんな対応をいただき、こちらは何だか夢を見ているようでした。
しかも封筒には、ご丁寧に私宛のメッセージと共に、出張先でももし見られればと、何と「出張先用」と「自宅用」と2枚DVDが同封されていたのです。

 信州と同じ、奥能登という田舎の、しかも全校生徒が200人足らずという過疎地の家族的な小さな高校だから・・・と言ってしまえばそれまでです。
でも、先生も生徒さんも何も不思議と思わずに、こんな一銭の足し、一文の得にもならない行動を自然にするような・・・。
「イイ高校だなぁ!」
こんな先生方が居られて、そしてその先生に育てられたこんな生徒さんたちがいる高校を、どうぞ大事に、大切にいつまでも守り続けて行ってください、と祈らずにはいられませんでした。

 頂いたDVDは、生憎、出張先のホテルでは見られそうも無く、また出張後も週末もリンゴの剪定で終日追われて時間が取れず、漸く昨日剪定もほぼ終わったので、門前高校の皆さんに対して敬意を表するべく、居住まいを正しTVと正対して2時間半拝見させていただきました。
 見終わった後の感動を一言で表すのは難しいのですが、激するでもなく、煽る事もなく淡々と進んでいく映像が静かな感動を与えてくれました。そして、先生方の生徒さんへの叱咤激励で、私自身も何だか勇気をもらったような気がしました。
そしてもう1枚は、ちょうど帰省していた娘に「人生、もし苦しいことがあったら、その時に見るように」と渡しました。

 門前高校の皆さん、本当にありがとうございました。
これからも陰ながら応援しています。どうぞ頑張ってください。
 遠く能登から、DVDと共に皆さんの思い遣りと、そして元気までも一緒にいただいたような気がしています。 ― 深謝

 最近、心が暖かいのは春めいた陽気のせいでは無いようです。 

 母の検診の付き添いで、信州大学医学部の附属病院(地元では信大病院と呼んでいます)へ。
最近、受付け棟が新築され、合わせて古い受付棟が取り払われた正面スペースへの駐車場拡張も行われて大層キレイになりました。

 総合受付けで手続きをして上がった3階の待合室からは、西側の大きな窓越しに常念がキレイに見えました。
「あぁ、ここからはアルプスが見えるんだ・・・。」
そこで、二時間ほどの受診終了後、5階が喫茶兼レストランと屋上庭園という表示がされていたので、母を誘って上がってみました。
するとレストラン横の屋上庭園にも出られたので、そこから撮影。
我家のある沢村から岡田方面で、城山々系越しに常念を始め北アルプスを望むことが出来ました。我家周辺からは城山々系に遮られて見ることが出来ないので、久し振りの常念に母も喜んでいます。

 さすがに屋上からの眺め、しかも病院棟からの、普段は余りお目にかかることのない、隠れた絶景ポイントです(その後2回通ったのですが、生憎の天候で山が見えたのは初回の1月だけでしたので、その時の写真を掲載します)

 入院患者さんも、毎日眺めていれば、きっと常念から元気をもらえることでしょうね。

 上れる(入れる)かどうか分かりませんが、信大病院以外の市内の公共的建物で北アルプスなどの眺望が良さそうなのは(試した訳ではありませぬ故悪しからず)、松本市役所(松本城と北アルプス)、丸の内病院(北アルプス)でしょうか・・・?。

 おまけに、今週火曜日1日の夕刻、信大病院を出る頃から雪になり、翌朝はすっかり山は雪景色でした。

 漸く少し春めいてきました。これから暫くは三寒四温で、春と冬が行ったり来たり。そんな寒い日でも、良く見るとそこかしこに春の気配が感じられます。

 我家のリンゴ園の片隅に蕗が植えられていて、この時期になるとフキノトウ(蕗の薹)が顔を出します。
まだ頭が隠れていますので、少し枯葉や土を除けてあげると小さなフキノトウが顔を覗かせます。。

 リンゴの剪定をしていると、母がフキノトウを採っているらしく、夕飯に“フキ味噌”を作って持ってきてくれました。

 酢味噌和えや天婦羅でも美味しいですが、フキノトウはやっぱり味噌炒めが一番です。
やや炒め過ぎでしたが、ほろ苦い早春の味。春がすぐそこまで来たことを教えてくれます。    
 冷酒には合うんですね、これが本当に・・・。
うん、春だなぁ!口の中一杯に拡がる早春の味でした。