カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 この1月8日と9日は、恒例の『松本あめ市』でした。
      
 戦国時代、上杉謙信から武田信玄へ送った塩が、当時武田領であった松本に到着した日(1568年-永禄11年1月11日とのこと)を祝って江戸時代に始まった「塩市」に由来するとか。
各商店街の初売りと共に、町内会の子供達の福だるま売りや、福飴があめ市でのお馴染みの光景です。
(写真は、昨年のあめ市で撮影した、本町と伊勢町の角に立つ「牛つなぎ石」。かつての“塩の道”の終点にあって、塩などを運んできた牛を繋いだ石。江戸時代まではお城の東側、今の市役所付近にあったのだそうです)


 子供の頃の海水浴で、松本以北では“信州の海”とも呼ばれる新潟などの日本海側へ当然の如く出かけて行きますが、これが分水嶺の塩尻峠を越えて諏訪になると流れる川同様に海といえば太平洋になり、伊豆方面となるから不思議です(松本に住んでいると心理的に伊豆は遠いと思うのですが、逆に諏訪の人は日本海は遠いと思うのだとか)。

 これと同様に、千国街道が“塩の道”と呼ばれたのは、当然のことながら新潟などの日本海の塩が信州へ運ばれて来たのですが、一方太平洋側にも当然ですが塩はある訳で、越後の上杉からの『敵に塩を送る』の語源となった武田甲州へは、太平洋(駿河の今川氏)から通常運ばれて来た塩が、今川・北条の連合により断たれたことによります。

 日本海からの塩を「北塩」、太平洋からの塩を「南塩」と呼び、江戸時代までは、松本藩は北塩で、諏訪藩には南塩が領内にそれぞれ運ばれてきており、当時松本藩だった塩尻がその境であったそうで、番所を設けて南塩の流入を厳しく禁じていたのだそうです。
 我家から程近い下岡田北部の塩倉という地名は、塩の道を運ばれて来た北塩を入れる松本藩の倉庫があった場所に由来すると言いますし、松本藩の領内だった塩尻は、北塩が運ばれる最後尾であったことから「尻」が付けられたのではないかと言われています(但し他にも説があるようです)。

必需品であり貴重品でもあった往時の塩の痕跡が、あめ市だけではなく、海の無い(からこそ?)山国信州にも至る所に残っています。

 因みに、山深い木曽の御岳山麓一帯では、貴重品であった塩を使えなかった(『米は貸しても塩貸すな』と言われていたほどの貴重品だったとか)ことから、全国でも珍しい無塩乳酸発酵の漬物である「すんき漬け」(第185話参照)が広まり、今では木曽の特産品(これを具にした「すんき蕎麦」も名物です)となっています。これも逆説的ですが、塩(が使えなかったこと)がもたらした恩恵と言えるでしょうか。