カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
15日の日曜日に、松本市島内のザ・ハーモニーホール(松本市音楽文化会館。通称「音文」。因みにSKFが開かれる松本県民文化会館は「県文」)で、マチネーにてJ.S.バッハの『音楽の捧げもの』の演奏会があり、家内が知り合いの方からチケットを頂き、二人で久し振りのコンサートに出かけました。
ここハーモニーホールは元紡績会社(確か鐘紡?)の工場跡地で、赤レンガ風の大小2つのホール周辺には大きなヒマラヤスギが聳え、公園のようで雰囲気が素敵です。またパイプオルガンが常設されている大ホールも800席足らずで天井高もあり、残響2秒。確か建設当時は宮城県のバッハホールと並び国内屈指の音響の良いホールとしてクラシックのCD録音でも度々使われたように思います(当時、音楽雑誌のクラシックCD紹介での録音会場として時々掲載されていました)。また座席数が少ないので、仮に最後列でも2000人を超える大ホールに比べれば前の方。ただ、県民文化会館や馬蹄形をした市民芸術館など、いくらサイトウ・キネン音楽祭が毎年開催されるとは言え、人口20万人足らずの地方都市にしては、箱モノは恵まれすぎている状況(更に岡谷市にはこれまた音響の良いカノラホールもあります)です。
演奏は、フルートの前身の木管の古楽器、フラウト・トラヴェルソ奏者の我国の第一人者である「有田正広とその仲間達」。昭和音大の教授でもある氏の『音楽の捧げもの』の講演(解説)が第一部として1時間あり、それを聞いた後に演奏会という珍しい構成。専門的で玄人受けする内容(家内は専門用語のオンパレードに“ちんぷんかんぷん”だったとか。確かに「イドード」と言われてすぐに「移動ド」を思い浮かべられる人が何人いたか?私も後で漸く思い当った次第)ではありましょうが、一般の方、しかもこんな田舎でどれほど人が集まるのかと些か疑問でしたが、それも杞憂で(演奏が始まる前には)殆ど満席になりました(ヒトゴト乍ら一安心)。
1747年、時のプロイセン国王であるフリードリヒ大王に謁見した際、自身音楽家でもあった王から主題を与えられ、その場で即興し絶賛を浴びたという逸話に彩られた「3声のリチェルカーレ(フーガ)」に始まり、有名な「王の主題によるトリオ・ソナタ」を含むその主題を使った全14曲が休憩無く連続して演奏されました。
修辞学(レトリック)の技法が取り入れられたという14曲が5つの分冊として献呈され、トリオ・ソナタ以外は楽器の指定もなく、演奏順や使用する楽器も演奏者が決めなければいけないなどという曲の背景や「謎」解きなども交えて事前にレクチャーを受けていたので、渋いプログラムですが、和やかな雰囲気で分かりやすく楽しむことが出来ました。余談ですが、小学校の音楽室などで見た有名なバッハの肖像画も1747年に描かれたものなのだそうで、その手に持つ楽譜がこの日のアンコール曲「6声のカノン」。そして、この曲が(演奏できるように)読み解かれたのは150年後のことだったのだそうです。
プログラムに拠れば、有田氏の友人である市内のお医者様がハーモニーホール側の企画に協力されて、有田氏に依頼して実現された演奏会であるとのこと。教科書にも載っているようなポピュラーな管弦楽組曲やブランデンブルグ協奏曲などとは異なり(追記)、名の知れた曲とは言え、演奏会では余り取り上げられる機会の無い曲ですし、ましてや地方都市で聴けることなど稀有の筈。松本バッハ会なる愛好家の団体が協力者に名を連ねるなど、さすがに文化都市と言われるだけあって、この種のコンサートが満員になるとは正直驚き、また少なからぬ感動を覚えました。
コンサートの余韻に浸りながら、そんなことを思いつつ夕暮れの音文を後にしました。
【追記】
おそらく、年齢や一時の「のめり込み」に関係無く、これまで一番長く聴いてきたであろう我が愛聴版(その影響か、上の娘も高校時代に気に入ったらしく娘に取られたようで暫く行方不明になっていました)が、ミッシャ・マイスキー演奏のJ.S.バッハ『無伴奏チェロ組曲』(生まれて初めてバッハの曲に触れたのは、プロコルハルムの「青い影」のバックに使われたカンタータ「目覚めよと呼ぶ声聞こえ」だったと思います。いずれにせよ、必ずしもバッハ好きではありませんが、この曲は精神が浄化されるような気がしますね。それと最近はジャズピアノ名曲集+徳永英明『VOCALIST』)。秋の夜長にパイプを燻らせグラス片手に(我家は屋内禁煙且つ私の場合は冷酒ですが、別に紫煙や琥珀色のグラスが無くとも)しみじみと・・・。泣けます。
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