カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 「君が代」は歌えなくても、「信濃の国」を歌えない長野県民はいないとまで揶揄される「信濃の国は十州に・・・」で始まる県歌。個人的には6番まである中で、4番だけ転調するところがいいですね。県歌としての制定は意外と新しく、昭和43年(1968年)と云います。

 明治30年代、長野師範学校(現在の信州大学教育学部。因みに女子師範は松本に置かれており、その名残で現教育学部の附属小・中学校は長野と松本それぞれに設置されている)の教師達によって作られ、親しみやすく軽快な曲調と相まって、教師となって県下の学校に散らばった卒業生によって学校行事など事あるごとに歌われて広まり、後に正式に県歌として制定されるほどになった、と伝えられています。“信州合州国”とでも言えそうな長野県を一つにまとめるためにも大きな功績があったと言っても過言ではないでしょう。

 実際、廃藩置県では、もともと長野県と筑摩県という別の県で、松本に置かれていた筑摩県庁舎が火災で焼失(放火説まであったとか)したことから統合されたという経緯がありました。そして、その後の長野と松本に代表される南北対立の象徴として、分県論が何度も蒸し返され、実際1876年の県議会では分県案が成立寸前(南側が議員数で30対29と有利)となりかけたその時、議場の外から突如沸き起こった「信濃の国」の大合唱によりそれが阻止されたという逸話があります。
これは、軽井沢在住の作家内田康夫の「信濃の国殺人事件」(浅見光彦ではなく「信濃のコロンボ」こと竹村警部のシリーズの一作)の中でも、プロットとして象徴的にかなり詳しく書かれています。

 なお、最近では文科省の指導要領に無いことから、小中学校で必ずしも教えないところもあるようで、中には歌えない子ども達もいるのだとか。
長野県人であれば誰もが歌えた「信濃の国」も、もしかしたら今の子供たちが大人になる頃には廃れてしまっているなんてことにならないといいのですが・・・?


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