カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
今回は、松本にもこんなジャンルの店があったのか、というお店です。
会社の方から教えていただきました。何のことは無い、毎日、松本駅への通勤での行き帰りにその前を車で通っていました。
松本駅から北へ徒歩10分。繁華街からは少し離れたロケーション(今町通り東側)にある蔵作りの建物で、今まで何度かテナントが入れ替わり、今回はブティックでもなし、『何の店かなぁ?』、イタリアンかショットバーかと帰宅時の信号待ちで前に停まる度にいつも想像していました。
それは松本には珍しいチーズと(オーガニック)ワインのお店とか。
オーナーの方(女性です)がチーズ・プロフェッショナル(いわばチーズのソムリエ)という国際検定資格を持たれているそうで、80種類近いチーズを国内外から集められ、ご自身のお店だけでなく、松本は元より、色んなレストランやバーなどに卸されている(むしろそちらが本業)のだそうです。
今回、教えていただいた方がそこの常連とのことで、お願いして興味関心ある職場のメンバーも一緒に連れて行っていただきました。
こじんまりしたお店(カウンターも入れて20席にも満たない)ですが、アットホームな雰囲気(常連さんが多いようです)でした。
当日は、幾つかの単品料理と共に、10種類ほどのオーナーお薦めのチーズ(私が知っていたのはゴルゴンゾーラのみ)を出していただきました。カナッペ風にフランスパンに載せて。濃厚なチーズとしっかりした赤ワイン。チーズだけだと(個人的には)気になる臭みも旨味に変わります。チーズとワイン、なるほど、この組み合わせが欧州の文化なんだと初めて(舌が)理解した次第。チーズ(&ワイン)好きの方には堪えられないお店でしょう。
その日の常連さんの中には、もうすぐ定年を迎える会社の大先輩(奥様とお二人で・・・「斯くありたい」と思わせるような仲の良いご夫婦でした)や高校の合唱部の後輩も偶然一緒になるなど、店が人を選ぶのか、雰囲気が人を呼ぶのか、居心地の良いお店でした。(ただ蔵のため外からだと中が見えず、少々入り辛そうな?感じですので、初めての方は事前に電話をして行かれた方が安心かもしれませんね)
以前、娘達も行きたがっていたので、今度彼等が帰省して来たら連れて行ってあげようかと思います。
昨日で夏の高校野球の長野県大会が終了し、見事長野日大高が優勝して夏の甲子園初出場を決めました。(初戦敗退が多い)長野県民として、一日でも長い“信州球児達の夏”を祈るばかりです。
さて、敗れ去った県内93校の中に、会社の元部下であるご夫婦の息子さんもいました。息子さんは3年間厳しい練習にもまれ、新チームではレギュラーとして昨秋から甲子園を目指していました。
最後の夏、もし甲子園に行ったら一緒に応援に行く約束をしていました。
しかし、残念ながら甲子園の夢は破れてしまいましたが、息子さん自身は見事な活躍でした。
ねぎらいとともに「甲子園の夢を息子さんと一緒に見させてもらえただけでも幸せ者だ」と慰めともつかぬメールを送っておいたところ、大会も終わり、週明けの今日、昼休みに奥様から返信が入っていました。そしてそこにはこんな一文がありました。
『(前略)どちらから言い出したのか・・昨日、主人と息子が庭でキャッチボールをしていました。これができるのも、息子ならでは・・ですね。今日、主人は間違いなく筋肉痛だと思います!(後略)』
息子さんがリトル時代から、一生懸命応援してきた彼等です。
一旦の区切りの中で、恐らくどちらともなく誘って、男同士でお互い照れ臭いであろう言葉の替わりに、父子でボールを使って心のキャッチボールをしたのでしょう。
「お疲れさん」、「今までありがとう」、・・・ボールに込めたそんな無言のやりとりだったのでしょうか・・・うん、いい父子だなぁ。
我家は娘達ゆえ、息子とのキャッチボールの夢は叶いませんでしたが、もし、その場に居合わせたら、たとえ第三者であっても、年と共に緩んでしまった涙腺が全開になったことだろうと思います。それをそっと家の中から見守る奥様含めてイイ家族だなぁ・・・。
きっと、優勝した高校以外の子供達の家庭では、場面は異なれど、同じような光景が何百何千と繰り広げられたのでしょうね。
【追記】
決勝で敗れた松本第一高校。野球では(柔道では県代表の常連も)県内でも無名校。今年はノーシードからシード校を次々と破って勝ち上がり、初のベストエイトどころか決勝まで進みました。校名やコースが変わり、野球部は平成になってからの創部とか。しかも、初出場の一回戦で、さして強豪でもない高校に大敗したのだそうです。
創部以来の現監督は、その初めての公式戦で、相手に何十点取られても、とにかく自分達も一点を取ろうと子供達を鼓舞し続け、そして見事一点を取ったのだとか。
「あの一点を忘れません」という視聴者からの応援メッセージが決勝戦の中継時に紹介されましたが、今年の決勝進出は、その1対42という敗戦からのスタートだったんですね。
7月21日、我が国を代表し、世界的指揮者でもあった若杉弘氏が亡くなられました。指揮者としては享年74歳という「若さ」でした。
若杉先生は、30年以上前の学生時代、京都市交響楽団の年末恒例の第九演奏会の客演指揮者として来演された時に、私もアマチュア合唱団の一員として、その指揮で一度だけ歌わせていただきました。当時、既に我が国を代表する指揮者のお一人だったとはいえ、今ほど有名ではなかったのですが、確か芸大の指揮科入学前に声楽家を目指したというだけあって、「歌わせる」ことには既に定評があり、練習を含めその指揮ぶりは、合唱を、なるほど「歌わせることにかけては天下一品!」と改めて認識させられると同時に感動を覚えたものです。
90年代前半、シンガポール駐在中に、当時音楽監督をされていた、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団を率いて、日本への演奏ツァーの途中、シンガポールにも立ち寄られて一夜だけコンサートをされたので、勇んで聴きに行きました。
当日は、大統領がご臨席されていたためか、シンガポールに敬意を表されて、当夜の演目にもなかった「シンガポール国歌」をアレンジされた演奏(確か楽団員に編曲を指示されたと演奏前に説明されました)に始まり、ボレロと、何かのコンチェルト(失念)と、そしてその夜のトリは、渋くシューマンの2番だったと記憶していますが、スイスの名門オケを率いての凱旋帰国を前の気負いも無く、曲そのもののように、渋くともオケを深くのびのびと歌わせる様は、世界のマエストロと呼ぶに相応しい名演でした。
そして、個人的にはボレロが頭上を颯爽と吹き抜けていった印象が今も残ります。
京都に合唱の練習に来られた時のえんじ色のアスコット・タイのダンディーな印象とともに、ハッタリで大向こうを唸らせるような派手さはなくとも、穏やかで知性的な人柄そのものの指揮ぶりが脳裏に焼きついています。
今となっては、マエストロの指揮で「その他大勢の一人として」歌えたことが一生の宝物です。
晩年は、国内外で日本人指揮者としては稀なオペラ指揮者として活躍され、むしろこれから更なる円熟が期待されていただけに残念でなりません。
今夜は、マエストロへの哀悼の意を表し、“モツ・レク”の「ラクリモーサ」か、フォーレの「ピエ・イエズ」でも聴こうかと思います。
どうぞ、安らかにお眠りください。 - 合掌
先週末、海の日の三連休、どうやら松本深志高校の文化祭である『とんぼ際』だったようです。そう言えば、その前の週の夜は、前庭等で灯篭作りの明かりが遅くまで灯っていました。
また、連休明けの朝、前夜の「ファイヤーストーム」の名残で、校庭の真中だけがドロの海でした。
私達が高校生の頃は、9月から10月が各高校の文化祭シーズンでしたが、共通一時以降の受験勉強との兼ね合いもあって、最後まで残った深志高校を含め、少なくとも松本エリアは全て夏休み前に変更になりました。
この灯篭というのは、「ねぶた」の小型版のようなイメージの“張りぼて”で、その時代の話題やネタなどを題材に像などを作って色を塗り、中に電球を入れて夜間照らすもの。クラスや郷友会(同じ中学出身者で作る親睦会)などで趣向を凝らして制作し、コンクールで競います。
我々も三年生の時のクラスで、時の「ウォーターゲート事件」(いささか古いですな)をテーマに水門と水に溺れる(当時の)ニクソン大統領の灯篭を夜遅くまでクラスの仲間で制作し、見事入賞(1位か2位!)したのを覚えています。そしてその賞品が地元松本の久星(きゅうぼし)の「かりんとう」。大量にもらって、後日先生も交え、お茶とかりんとうで教室で祝勝会をしたものです。
特に運動部にいた私は、文化祭は発表展示等を行う学術系の部活中心のイメージで、2年生までは余り自分とは関わりが無いように感じていましたが、3年生で地区予選敗退後、(受験勉強もせず)友達に誘われて音楽部(合唱班)に入部し、とんぼ際の準備含め初めて自分も傍観者からその一員になれた、最初で最後の思い出の『とんぼ際』だっただけに印象もひとしおです。
さて、このかりんとう、何故か大昔から合唱コンクールやクラスマッチなど、全て学級対抗の際の賞品、定番でした。今でも、時々懐かしくなってスーパーで購入しますが、サクサク感が最高です。かりんとうは久星に限る!
上の娘が高校生の時、クラスマッチなどの賞品が「かりんとう」も含めた「お菓子のセット」だと聞き、時代の変遷を「嘆きつつ」、一抹の寂しさと共に、その「堕落」に伝統「だけ」を重んじるOBの一人として「情けなさ」を感じたものです(いやはや大袈裟な・・・)。
でも夜遅くまで灯篭制作で灯っていた明かりは、今も昔も相変わらず。
偶然同じ音楽部で合唱班だった娘も、そう言えば『とんぼ祭』が近づくと、若い熱気でみんなと徹夜で舞台の制作や片付けをしていましたっけ。
当時、四半世紀ぶりに、娘のお陰でちょっぴり味わせてもらった『とんぼ際』でした。
「かりんとう」は少々変わっても、ま、今も変わらぬ“頑張れ若造!”で、うん、いいんじゃないでしょうか。
『みんな、頑張れ!』
梅雨明け後の三連休。まとめて、農作業をやろうと思ったのですが、初日・二日と雨模様。二日目は大したことはなかったので、草取りなど、(またまた)上京した家内の指示書に書かれていた項目を全て済ませ、3日目は漸く晴れ。
そろそろ、ブドウ(巨峰)の袋掛けをしてもいい状況なので、ブドウとリンゴの(最後の)仕上げ摘果を始めました(リンゴは玉数を減らし、ブドウは房の数を減らし、その後袋掛けです)。
春先、多少我が園でも遅霜被害があったので、例年よりリンゴの玉数は少なめですが、それでも木によってはもう少し摘果したほうが良さそうです。また良く見た筈なのに、その時は気付かなかった取り残しも木に一ヶ所程度は見受けられます。
父が良く母の摘果作業の後、「もっと落とさなきゃダメだ!」と叱りながら仕上げをしていましたが、良く気持ちが分かります。
一方で、せっかく花が咲いて実になったのを落とすのも可愛そう、という気持ちにもなりがちですが、ここは心を鬼にして・・・。
やはり、雨で三連休がフルに使えず、ブドウは半日で終了しましたが、リンゴの方は一日では終わらなかったため、もう一日作業が必要です。
野麦峠のふもとで、蕎麦栽培とトウジ蕎麦で有名な奈川に暮らす会社の先輩の方も、この休みに秋蕎麦がやはり蒔けなかったと言われていました。
西日本では前線が居座って大雨とのこと。
本当に、関東甲信だけ梅雨明けしたんでしょうか?確かに梅雨明け宣言後の先週16日だけは、抜けるような夏空でしたが(朝だけ)、今日21日もまた雨。一時昼頃は、上諏訪では二百メートル先も霞んで見えないほどの土砂降りでした。
雨の朝、通勤路で紫陽花だけが所在を取り戻したかのように鮮やかでした。
前回、唐突に「信濃の国」でしたので、ここで長野県をいくつか話題にしてみると・・・。
県外の方は、「長野県」で全く違和感が無いと思いますが、特に長野市周辺に住んでいない身としては、「長野県」というより「信州」を使いたがる傾向があるような気がします。全県を称して「長野」と言うと、長野市周辺を連想してしまうような。特に、盆地毎に独立している地形の長野県では尚更です。
では、「信濃」はどうでしょう。例えば「北信濃」とか「奥信濃」とは呼びますが、片や「南信州」。信濃美術館、信濃鉄道、いずれも北信地方ですので、「信濃」というのは長野県でも北部の方が使用頻度が高いのでしょうか。そう言えば、新潟県境に近い柏原出身である俳人小林一茶の「信濃では月と仏とおらが蕎麦」という句は、姨捨の田毎の月と善光寺と、(多分)戸隠蕎麦と全部北信地方が盛り込まれています。
一方、県産品の呼び名では、信州りんご、信州蕎麦、信州味噌。傾向としては、「信濃」より「信州」を多く使っているような気がします。
因みに、「信濃」というのは古代「科の木」が多く生えている場所の意味だったとか。なお、「信州人」とは言いますが、地域で「人」が付くのは、「諏訪人」だけ。「松本人」とも「伊那人」とも呼びません。それだけ諏訪というのは独立心が旺盛なのでしょうか。
「君が代」は歌えなくても、「信濃の国」を歌えない長野県民はいないとまで揶揄される「信濃の国は十州に・・・」で始まる県歌。個人的には6番まである中で、4番だけ転調するところがいいですね。県歌としての制定は意外と新しく、昭和43年(1968年)と云います。
明治30年代、長野師範学校(現在の信州大学教育学部。因みに女子師範は松本に置かれており、その名残で現教育学部の附属小・中学校は長野と松本それぞれに設置されている)の教師達によって作られ、親しみやすく軽快な曲調と相まって、教師となって県下の学校に散らばった卒業生によって学校行事など事あるごとに歌われて広まり、後に正式に県歌として制定されるほどになった、と伝えられています。“信州合州国”とでも言えそうな長野県を一つにまとめるためにも大きな功績があったと言っても過言ではないでしょう。
実際、廃藩置県では、もともと長野県と筑摩県という別の県で、松本に置かれていた筑摩県庁舎が火災で焼失(放火説まであったとか)したことから統合されたという経緯がありました。そして、その後の長野と松本に代表される南北対立の象徴として、分県論が何度も蒸し返され、実際1876年の県議会では分県案が成立寸前(南側が議員数で30対29と有利)となりかけたその時、議場の外から突如沸き起こった「信濃の国」の大合唱によりそれが阻止されたという逸話があります。
これは、軽井沢在住の作家内田康夫の「信濃の国殺人事件」(浅見光彦ではなく「信濃のコロンボ」こと竹村警部のシリーズの一作)の中でも、プロットとして象徴的にかなり詳しく書かれています。
なお、最近では文科省の指導要領に無いことから、小中学校で必ずしも教えないところもあるようで、中には歌えない子ども達もいるのだとか。
長野県人であれば誰もが歌えた「信濃の国」も、もしかしたら今の子供たちが大人になる頃には廃れてしまっているなんてことにならないといいのですが・・・?
平年より早く、しかも南九州しか未だ明けていないのに、昨日関東甲信地方の梅雨明けが発表されました。そして、梅雨の間中殆ど雲に覆われて姿を拝めなかった北アルプスの峰々が、梅雨が明けた途端に、今朝久し振りにその山容を現しました。山国信州人ゆえか?山を見ると何だかほっとして元気が出ます。
一方、梅雨の間、青空を思い出させてくれていたアジサイも、梅雨明けの青空と共に、何だか急速にその存在感が薄れていくような・・・。
『紫陽花の 梅雨明けの朝 空に融け』(オソマツ)
今年の梅雨は、降水量が平年を(松本で)下回ったそうですが、しとしと降る雨の日が多かったせいか、印象的には梅雨らしい感じがしました。
果樹でもブドウは扇状地で水はけの良いところが栽培に向くといいますが、リンゴも含め水が大事なので、余り降水量が少なかったり、これから猛暑が続くと生育にも支障が出てくるため、定期的な潅水が欠かせなくなります。雨が無い方がいいのは、南米原産のトマトくらいでしょうか?。
信州松本は、朝晩は涼しく空気が乾燥しているとは言え、日中は結構温度も上がり、今日も最高気温は33℃。
甲子園の地方大会も始まっています。我が母校は、(またしても)初戦敗退。(下馬評では上だったのに・・。“生きている内”に甲子園に連れて行ってくれ!って毎年祈っていますが、今年も・・・)短いというよりも、夏が来る(梅雨明け)前に「夏」が終わってしまいました。
また、シャキシャキ感が何とも言えない波田町の「下原スイカ」。
露地物の出荷も、先週くらいから始まったそうです(あ~あ、きっとまた奥様が「これ、私のご飯だから!」とか言って、毎週のように?買ってくるんだろうな・・・)。
松本球場から聞こえて来る高校野球の応援、松本駅に降り立つ登山客、そしてどこかのお宮の打ち上げ花火・・・。
しっとりした梅雨から、何となくザワザワとした喧騒を連れて、いよいよ信州にも夏本番がやってきます。
【追記】
朝は見えた山並も(撮影する時間が無く)、夕方には雲に完全に隠れてしまっていて撮影することができませんでした。
【追記その2】
今朝(7月16日朝7時)は本当にイイ天気でした。まさに梅雨明けの夏空という感じ。ただ、夏は山に雲が掛かり易いので、逃してはならじ!と携帯で撮影。(従って、写真が小さく分かりづらくて恐縮ですが、雰囲気だけでも感じていただければ幸いです)
アルプス口(西口)からは確かにアルプスが良く見えますが、(松本平からの眺望で、北アルプスのシンボルとも言える常念がちょうど隠れてしまいますので)このビル“じゃま”だなぁ・・・(西口再開発の遥か以前からあり、この古いビルには何の責任もありませんが)。
また、松本駅周辺だと(数百メートル西進するともう見えませんが)、常念の左の肩越しに槍の穂先がチョコンと覗いています。
そして夕刻は、山に掛かるどころか夕立でも来そうな空模様でした。
以前、第27話でも紹介させていただいた、中国(薬膳)家庭料理レストランの『チャイナ・スパイス』。松本深志高校の北側にあった“隠れた”名店。
とかく日本人向けにアレンジされた中華料理が多い中で、会社の中国や東南アジア赴任経験の同僚が何人も遠くからでもわざわざ食べに来ていたように、信州松本で本場の味が味わえる数少ない中華レストランでした。そして街中からは少々離れていますが(逆に我家からは車なら2~3分)、いつ行っても込んでいた繁盛店でもありました。
それが、先月下旬から定休日以外も閉まっていて、「一体どうしたんだろう?」と家内と心配していたのですが、先日張り紙があり(家内と二人で心配してわざわざ見に行ったところ)何と6月28日を以って閉店とのこと。大ショック!です。以前奥様が「建物のオーナーが亡くなられて契約更新が心配だ。」とも仰っていたのですが、文面からすると必ずしも(松本周辺への)移転ではないようです。
長年、レストランでの食事だけでなく、農繁期で忙しい時など、(苗字の中国読みでの発音を伝えてから良く覚えていただいて)電話でちょくちょく持ち帰りもお願いしたりしてとても重宝し、また娘達も含め家族全員がファンで本当に親しませていただいていただけに、もう二度とあの味(何を食べても美味しかった!のですが、中でも本場のサラサラのチャーハンと独特のヤキソバ、それに素人では絶対に真似の出来ないニラレバと、ぶっかけ飯に最高だった甘酸っぱいトマトと卵の炒煮、そして娘が好きだった野菜と湯葉の炒め物が絶品でした)が食べられないと思うと残念でなりません。(これからはどこへ行けばいいんだろう・・・?)
台湾ご出身のご夫婦で切り盛りされていて、料理担当のご主人は画家そしてニ胡奏者でもあり、また中学生くらいのお嬢さんもおられただけに、何かの事情で母国へ帰られたのか、(喜ばしくも)本職の画業が忙しくなられたのか、はたまた店の片隅でいつも勉強されていたお嬢さんの進学か、いずれにしてもきっと次なる展開のためなのでしょう。チャイナ・スパイスご一家のご多幸をお祈りします。
長い間ありがとうございました。とっても美味しかったです。ご馳走さまでした。
もし、日本のどこかで再開されたなら繁盛店間違いなし!ですので、いつか必ず家族で食べに行きます。謝々好。再見(サイ・チェン)!
【追記】
やはり、画家としての本格的活動をするため、ご一家で上海に移られた由。ご成功をお祈りします。
3年ほど前になりますが、諏訪郡富士見町の事業所に1年半お世話になっていた時のことです。
富士見町に富士見高原スキー場(入笠山麓の富士見パノラマスキー場とお間違え無きよう)があり、そこが夏の間は何十万株もの「ゆりの里」としてオープンされており、回りの何人もの同僚から「一見の価値あり」と是非見に行くように薦められました。そこで、当時まだ次女が高校三年生でしたので、家内と三人で週末行ってみました。
松本からだと諏訪南インターで降り、(インターからひたすら八ヶ岳へ向かって走ると合流する)所謂「信玄の棒道」を山梨方面へ走ってすぐ。富士見高原ゴルフ場の近く。入園料が確か1000円だったような(リフトは別料金でした)。
目の前のゲレンデには、黄色を中心にしたユリが一面に恐らく何十万株と植えられています。こちらはリフトで上に上がって、またリフトで降りて来るコース。
また、入口の右側のゲレンデにはなだらかにやはり色とりどりのユリが一面に植えられていて、こちらはゲレンデ沿いに遊歩道を散策します。
そして、何と言ってもここのハイライトは、その先の林間コース。そこには、白樺林の中に色とりどりのユリが咲き乱れ、そしてそこに薄霧(朝霧でしょうか?)が立ち込めている幻想的な風景を時折写真で見ることがありますが、それがここ「富士見高原ゆりの里」で撮影されたものです。林の中をやはり遊歩道が巡っています。
恐らく3年前行ったのは8月上旬から中旬。少し盛りを過ぎていたようでしたが、それでも見事なものでした。
確かに一見の価値があり、是非一度(蓼科や霧ケ峰に来られた際に、少し足を延ばして)行かれることをお薦めします。
園内にユリ500万輪(まぁ、数が多い方がPR上は宜しいのでしょうが、一株に4~5輪ほど咲くとして、ざっと100万株と言ったところでしょうか?)とか・・・。
(*東京からですと、小淵沢インターで降りて行かれた方が近いようです)
今年は、この7月11日の土曜日で「ゆりの里」がオープしたそうです。
【追記】
なお、近隣では白馬岩岳スキー場も夏のゲレンデ活用で、やはり「ユリ園」を開設しており、こちらはその数30万株とか。岩岳は、雄大な栂池自然園や八方池なども近く、トレッキングと合わせて行くといいかも知れませんね。
母屋(両親宅)の玄関に、石器や矢じり(石鏃)、土器片が飾ってあります。小学生時代に畑などで拾い集めたものです。
長野県は、全国でも縄文時代の遺跡の多い所で、特に和田峠が本州でも有数の黒曜石の産地(注記)であったこともあり、当時は温暖で食べ物も豊富だったであろう八ヶ岳山麓周辺は特に「縄文王国」と呼ばれるほどで、尖石や井戸尻など全国的にも有名な縄文時代の遺跡が点在しています。
ここ、松本でも古代の遺跡の存在が数多く報告されており、特に水源が無い高台のため稲作に適さぬ岡田地区は、弥生時代の遺跡や古墳はありませんが、逆に縄文時代の遺跡が幾つも点在しています。
我が家近くでも、「狐塚遺跡」と呼ばれる縄文早期・前期の遺跡の存在が確認されています。今ではすっかり宅地化され、遺跡は殆どが家の下に隠れてしまいましたが、私が小学生の頃はまだ畑が多く、耕された我家の畑を探すと土器の欠けらや矢じりなどを見つけることが出来ました。
戦前に群馬県で行商しながら当時日本には無いと言われた旧石器時代の岩宿遺跡を発見した相澤忠洋や、少年時代から興味を持って諏訪の在野から縄文農耕論を唱え井戸尻を発見した藤森栄一などの考古学者に憧れて、子供心に古代に夢を馳せ、“考古少年”として探し回った子供時代。
写真に写っているのは、その“戦利品”の一部です(・・・と、残りはどこに仕舞ったのか覚えが無く行方不明ですが)。
確か、子供達が小学生の時に、学校の授業でも使っていただいたことがありましたが、ここで次女から、授業(国際文化とやら)での英語のプレゼンの題材にしたいので送って欲しいとのご指示。まさか大学でも使っていただけるとは思いませんでした。
少年時代の趣味が何十年も経て、少しは役に立ったのかもしれません。喜々として(家内曰く)次女に送る荷作りをしながら、心は考古少年に戻っていました。
【注記】
JR茅野駅の下り線ホームに、和田峠産出の黒曜石の大きな原石が展示されています。高さ1メートルほどもあるでしょうか、これほどのサイズの原石は珍しいそうです。蓼科観光などで茅野駅に降りられた際にご確認ください。
一昨日、永観堂からご連絡をいただき、永観堂H/Pからの写真借用をお許しいただきました。但し念のため記しておきますが、H/Pの記載内容の転載は不可とのことですし、誰でも、どこでもOKではないと思いますので、もし個別に希望があれば、直接永観堂H/Pからメールにてコンタクトされますようお願い申し上げます。
また、永観堂のご本尊『阿弥陀如来』は、「顧阿弥陀如来」、もしくは「みかえり阿弥陀如来」と記載されるとのアドバイスもいただきましたので、ここにご報告させていただくと共に、第97話も併せて訂正しておきます。
さて、第97話に使わせていただく「みかえり阿弥陀如来」の御姿ですが、(過去記事に遡及する方がいないと)勿体無いのでここにも掲載しておきます。永観堂もしくは「みかえり阿弥陀如来」にご興味をお持ちいただけましたら、第97話もしくは直接永観堂H/Pを是非ご参照ください。
秋の紅葉の永観堂に、また行きたくなりました。
そこで秋に行ったつもりで一句、『見返れば 錦重ねて 永観堂』(オソマツ)
先々週と先週、久し振りに週末に雨が降らなかったので、朝から汗だくになってリンゴ園とブドウ園の草刈を終わらせた後、芝生の草取り、剥げた所の補修をして、目土として川砂を入れてから、芝刈りを二週連続で行いました。
芝は刈ると密度が濃くなるのと、余り伸びる前に刈った方が作業時間も短くて済みます(2回目は僅か30分で終了しました)。
庭のリノベーション(第70話を参照ください)に併せて、周りに建物があって素人では出来ない芝焼きをしていただいたためか、今年の芝生は昨年とは見違えるほど。12年前に植えた初期のように芝芽がびっしりと密集していて、刈り込むと緑の絨毯のようになって何とも綺麗です。
この芝生ガーデンは、『子供の頃TVで見たアメリカのホームドラマ(注記)の影響か、自宅の庭に芝生を植えたがる(=憧れる)日本人が多い・・・云々』と昔何かで読んだ記憶も一切気にせず、自身の作庭の際も真っ先に決めた部分。
むしろ、何となく小坂明子の『あなた』の歌詞にある「小さな家」のイメージでしょうか・・・?(直接歌詞に「芝生の庭」は出て来ませんが)
12年前の作庭時に、近くの市立図書館から借りた、芝生の植え方から手入れの仕方までの専門書をバイブルのように何度も熟読して要点のメモまで作成。そして、芝を植えるスペースを実測し縮図した上で、先ずはしっかりと整地してからホームセンターで姫高麗芝(今、園芸店などで販売されているのは殆ど姫高麗です。高麗芝より葉が細く密度が濃いのでガーデニング向き)を必要分まとめて買ってきて、本の作業手順に忠実に従って市松模様に植え(ちょうど5月連休頃が芝張りの好適期です)、その後も水遣りなどキチンと管理をし、数年掛けて生え揃えた自慢の庭でした。
でも、全て自分一人でやったので、(多分)我家の15坪ほどの「芝生ガーデン」部分の作庭費用は、目土などを入れても1万円以下でした(他に2万円前後の家庭用電動芝刈り機が必須ですが)。従って、芝生の庭はセルフ・ガーデンであれば、費用的には決して高いものではありません。
なお、「西洋芝の方が一年中青々していて良い」というご意見の方もいらっしゃると思いますが、高麗芝と比べて、洋芝は元々成長の早い(耐寒性のある、品種改良された)牧草だったりしますので、毎週のように頻繁に芝刈りをしないと(食べる牛がいなければ当然ですが)成長しすぎてしまうため、スポーツ施設ならいざ知らず、自宅の庭用としては、個人的にはあまりお薦めしません。
会社でも、自宅の庭に芝生を植える同僚が結構多いのですが、聞かれるとそうアドバイスをしています(毎週芝刈りが出来る方ならいいかもしれません。 通販カタログでもその旨の注意書きが小さく書かれています)。
熟読した専門書には『秋の高麗芝の“紅葉”(注記:葉先が赤く色づきます)も味わいがある』との記述がありましたが、全く同感です。そして、春の“芽吹き”もワクワクして、年中緑の洋芝よりも季節感があるように思います。
(元は野菜畑だったので)「土地が勿体無い。野菜を植えればいいのに」と最初は批判的だった母も、その後「ふわふわしていて気持ちがいいね。」と裸足で歩いたりと、大層気に入ったようでした。
最初の頃は、雑草をこまめに抜いたりしましたが、休みが果樹に向けられるようになってからは、時間も余り避けず、手を掛けぬ分だけ荒れてしまい、雑草も蔓延るようになっていました。植物も(果樹や野菜も)子育て同様正直です(逆に甘やかさずに手を掛ければ、掛けた分だけちゃんと応えてくれます)。
リノベーションでも、通路などのエッジを切り、また芝焼き以外は剥げてしまったところに少し補植をして、また夏秋用の花の植え替えに併せて、芝生用の除草剤(芝を含むイネ科の植物以外しか効かないタイプ)を散布していただいたくらいで、芝生ガーデンそのものは殆ど改修されていませんが、春先の芝焼きが雑草や害虫対策に非常に効果があったのではないでしょうか。ただ、除草剤は左程効果があるようには感じられませんでした(逆にどうも原液を芝の上に作業中に誤ってこぼしてしまったようで、そこだけ円形に芝まで枯れてしまいました)。
また、ガーデナーの方からのアドバイスは、この辺りの土地は粘土質なので、目土もむしろ川砂の方が水はけや蒸れ対策などには効果的とのこと。なるほど、教科書には応用編や個別編は無く、さすが専門家と感心した次第です。また、ずっと悩まされているしつこい雑草も、あるガーデニングの本に「あまり神経質にならずに(芝生に二葉のような雑草があると本当に目立つため、それこそ腹這いになってピンセットで抜いたこともあります)、芝と一緒に刈り取るくらいの大らかさでいい。」とあり、それからは何となく気が楽になりました。今回も、抜き易かったり、抜かないと増えて蔓延ってしまうタイプの雑草だけは対処した上で、全体の芝刈りをしました。ただ、そうは言っても、密度の濃い芝を保つためには、(姫)高麗芝であっても、特に一番成長する7月などは、定期的な水遣りとともに少なくとも2週間毎の芝刈りが必須(逆に頻度を多くした方が芝が短いので短時間で終了します)であり、(自分自身の反省も込めて言えば、信州弁で“ずく”を惜しまずに)毎年キチンと手入れが出来る/する覚悟がないと、憧れだけでは綺麗な芝生にはなりません。
梅雨時、芝生が一雨毎にその密度を濃くしていくようで、刈り取った後の若草の匂いと共に、目にも涼しげで本当に気持ちの良いものです。
【注記】
「ララミー牧場」や「コンバット」ではないとすると、「奥様は魔女」とか「名犬ラッシー」くらいしか個人的には思い当たりませんが・・・?
因みに、米国のホームドラマで休日にご主人が芝を刈るシーンが多いのは、洋芝は毎週のように芝刈りをしないと伸びすぎてしまい、ご近所からクレームが来るために頻繁にやらざるを得ないからだ、というのを何かで読んだことがあります。芝刈りは米国的マイホーム・パパの象徴と言うより、むしろ地域コミュニティーの一員としての必然だったのです。
でも確かに、以前オレゴン州ポートランドに出張した時に見た、各家の広々とした芝生は、それはそれは見事に手入れがされていました。
昨年秋のH/P立上げからスタートし掲載してきたこのブログ、『雑記帳』がちょうど100話を迎えました。時折、読者の方からもコメントを頂き、それを励みに書き続けて気が付いたら99話でした。(誤字脱字、また不適切な記述がもしありましたら、どうかご容赦くださいますよう)
何人の方にお読みいただいているのか分かりませんが、娘達の「変なこと書いていないかどうか」という時々の厳しいチェック(マズイと言われて削除したり、最近グルメ文ばっかりだと指摘されネタを考えたり、文章ばっかりで読みづらいと言われ携帯で写真を撮ったり・・・)に始まり、地元グルメの情報源にもなってくれている職場の同僚達と、離れていて日頃会えない旧友と、そしてコメントを頂いた方々は、少なくとも時々は目を通して頂いている筈・・・。と、それを励みに、信州松本から、地元の話題や日頃感じたことなどをこれからも気負わずに書いていきたいと思います。
今後ともご愛読の程、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
また、是非コメントも一言頂戴できれば幸甚に存じます。
7月4日の土曜日。梅雨も今日は中休みだったので、朝から一日農作業をしていたら、夕方5時近くなって急に黒い雲が東山方面(鉢伏、美ヶ原などの2000m級の筑摩山地)から空を覆ったかと思うと、ザーっと夕立が振り出しました。遠くでは雷も鳴っているようです。
その内土砂降りになってきたので慌てて家に上がり、ベランダで一休みしながら、大粒の雨を眺めていました。
30分足らずで雨脚も弱まり、日も差してきました。
すると、美ヶ原の東山方面に綺麗な虹の橋が掛かっています。こんなにくっきりとした虹を見たのは久し振りのような気がします。
梅雨も終盤で夏本番が近いのか、梅雨の合間の夕立と虹です。
そして、雨もしっかり上がったのですが、濡れていて農作業も出来ないので、5時半頃チロルとナナの夕方の散歩に出かけました。
すると、どうでしょう。先ほどの虹の上に重なるようにもう一つの虹が掛かっていて、同心円上で二重になっていました。その虹は、それほど色が濃くはなかったのですが、三才山(戸谷峰)方面に掛かる虹の左の根元?はちゃんと見えましたので、決して目の錯覚ではありません(と思います)。
残念ながら、携帯を持っておらず、また数分で消えてしまいましたので、証拠写真を撮ることができませんでしたが、こんなことがあるのでしょうか。
生まれて初めて見た“二重の虹”。何かいいことあるかも・・・?
地元紙にでも写真が掲載されるといいのですが・・・。
一ヶ月前はマッチ棒の“先っぽ”くらいだった巨峰の房が、気温の上昇と梅雨のおかげか、日一日と成長して小指の頭ほどの大きさになりました。
そこで、先週の土・日に、摘果作業(房抜き)をしました。一坪に15房程度残すように、粒の不揃いや小さな房を落として行きます。
県知事表彰も受け“名人”と言われた父ですが、上を向いたままの作業もキツイため、私の海外駐在中にかなり作付面積を減らしたので、今では40年近くにもなる太い巨峰の木が二本だけですが、見事なほど四方八方に枝を張らせていますので、それでも結構な房の数です。
この週末、下草も刈ってスッキリしたブドウ園で、ブドウ棚から下がる巨峰の青い房を見ていると、巨峰が黒く色づく実りの秋とは違い、緑色の成長の夏とでも言いましょうか、みずみずしい生命の躍動を感じて、植物からこちらも元気(生気?)をもらえそうな気がします。
写真を掲載しておきます。夏のブドウ園からちょっぴり早めのお中元(?)。元気のお裾分け・・・です。
6月上旬で終了した上野の国立博物館の阿修羅展が凄い人気だったとか。美少年にも例えられる阿修羅の凛々しさからは、日本人の阿修羅好きも当然のような気もします。
昨年の薬師寺展(日光・月光菩薩の光背が初めて外されての公開)もかなり話題になりましたが、私も家内と娘のところに上京した折、上野にフェルメール展とはしごで見に行きました。周囲360度からぐるりと眺められたのには感動しましたが、やはり仏像はそのお寺で拝観してこそかなぁと感じました。いずれにしても、出版界含め今やちょっとした仏像ブームなのだとか。終末思想の「救い」とは違って、現代人は仏像に「癒し」を求めているのかもしれませんね。
さて、寺社仏閣観光としては『仏像を見るなら奈良へ、庭園を見るなら京都へ』と一般的には言われている筈ですが、学生時代を京都に暮らした私にとって、奈良を含めて一番のお気に入りの仏像(仏さま)は、京都東山の永観堂のご本尊である阿弥陀如来、通称「みかえり(顧)阿弥陀」でした。
高さ77cmとありますが、実際拝観するともっとずっと小さく感じます。一緒に「行」をされようと姿を現され、驚いて立ち止まった律師に「永観、遅し」と言われて左後方を振り向いた御姿と言われますが、何とも言えぬ優しく慈愛に満ちたお顔をされています。それこそ、国宝だらけの京都・奈良にあって、重要文化財指定とは言え、例えば国宝指定第一号と言われる広隆寺の弥勒菩薩(半跏思惟像)のようなメジャー級の仏像ではありませんし、永観堂そのものが、例えば清水寺や金閣・銀閣、更には竜安寺や広隆寺と言った修学旅行などの京都観光の定番コースでもなく、また嵯峨野や大原と言った女性受けするコースでもありません。でも、入学してからの(進学で京都へ来た学生は大概一年間でお寺巡りは卒業し、その後はせっかく京都に居ても殆どお寺には行かなくなってしまいます。今にして思えば勿体無い)お寺巡りの中で見つけた、個人的には京都で一番好きな「お寺さん」でした。そして、4年間何か「煩悩」などがあると、お寺巡りではなく「阿弥陀さま」に会うために訪ねたお寺でもありました(我家の総本山である知恩院にも行かずに)。
平日(恐らく)授業をサボって?(今となっては理由不明)一人「みかえり阿弥陀如来」の前で拝んで(佇んで)いても、2~3時間誰も参拝客が来なかったことさえありました。私自身は決して信心深い訳でもありませんが、拝んでいると何かに包まれているような安心感で不思議と落ちついてくる(それが言うなれば御仏の慈悲ということなのでしょうが、決して天上から見下ろされている感じではなくて、隣で励ましてくれるかのような)、そんな親しみやすく人間的な?仏さまでした。
地元京都では、秋のモミジ(の紅葉)で有名なお寺で、正式には浄土宗西山派総本山禅林寺、通称永観堂。我家も浄土宗(総本山知恩院)ですので、宗派は違えど永観堂も同じく「南無阿弥陀仏」。
石川五右衛門の「絶景かな!」で有名な山門(三門)や、良く京都が舞台のTVドラマの撮影で登場(何故かサスペンスモノの事件の現場や逢引の場面)するローマ水道のような疎水の橋がある大伽藍南禅寺の並びです。
また、この界隈は「順正」・・・良く近くを通りました。入ったことはありませんが・・・を始め(何故か)湯豆腐でも有名です。
シンガポール駐在中の途中帰国の折に、娘達に本でしか知らない自分の国の歴史(と乗ったことが無い新幹線)を教えるべく、京都・奈良に立ち寄った(結局当時6歳と3歳くらいだった娘達が一番喜んだのは、奈良公園の鹿と僅か50分足らずの京都から名古屋までの新幹線)中で永観堂にも行ったのが最後ですので、もう20年近く「みかえり阿弥陀」さまにはお会いしておらず、これを書きながら久し振りに京都へ行きたくなりました。
『そうだ、京都へ行こう!』・・・って、一体何時になることやら。
【追記】
20年近くも行っていないため、「みかえり阿弥陀如来」の写真が無く、永観堂のH/Pからお借りしようと永観堂に直接メールでお願いし、快くご了承いただけましたので、ここに掲載させていただきます。ありがとうございました。 合掌(2009年7月11日追記)
6月28日の日曜日にリンゴ園の草刈(今回は草刈機が入れない60本のリンゴの木の下を、刈払い機で刈りました)をした疲れが出て(情けないことに、年を取ると翌日ではなく翌々日に出てきます)、火曜日の夜はは早々に寝てしまった結果、昨日は朝3時半に目が醒めてしまい、チロルの散歩には未だ早いのでブログでもやろうかとそのまま起きました。
夏至を過ぎたばかりとは言え、さすがに未だ真っ暗です。梅雨らしく、昨夜からの雨がしとしとと降り続いています。
ベランダに出てコーヒーを飲んでいると、すーっと、小さな光が視線の先を横切ったような気がしました。「えっ、まさか・・・?」と思い、その方向(隣家の生垣)に目を凝らしていると、そうです、間違いありません。
蛍(ホタル)です。一匹のホタルが、小さな光を放ちながら、不規則に流れていきます。そして、その色は電飾に例えるなら、ぼーっと暖かいオレンジ色の豆電球ではなく、むしろ最近流行りのLEDのような白く透明感ある光に似ています。
我家周辺でホタルを見たのは、恐らく3年振りくらいでしょうか。
もうここ何年も亡くなった身内はいないので、誰かが帰って来たのではなく、純粋に、環境的にホタルが復活してきたことの証と考えていいのでしょう。しかし(僅か数分で畑や田んぼがあるとは言え)、こんな住宅地でもホタルが見られるとは驚きです。
母屋の横を小さな川(西大門沢川)が流れていて、開智の(市立)中央図書館の脇を通り、女鳥羽(めとば)川に注いでいます。その、図書館の横でもホタルが見られると以前聞きましたが、上流の我家の周辺でも5年程前からホタルが見られるようになりました。この季節に(たまたま偶然に)一匹見られるかどうかですので、まだ決して多くはありませんが、確実に川がきれいになり、ホタルが住める環境が復活してきたのだと思います。
すーっと、消え入りそうな、でもしっかりした光を真近で見ることができ、何だか幸せな気分になりました。確かに、朝の早起きは三文の得(徳)でした。
【追記】
東日本随一と言われる有名な辰野のホタル祭りが日曜日に終わったそうです。
因みに、松本でも、例えば女鳥羽川の上流へ行くと、数十匹のホタルを見ることが出来ます。辰野町のように人間が手を入れた(注記)ものではなく、自然発生したホタル達です。
そう言えば、子供の頃は田んぼ近くに行くとホタルが(珍しくも無く)普通にいて、「ホタル狩」をして二~三匹ほど虫篭に入れ、一緒に巣の代わりに「ホタル草」を入れてあげて、夜部屋を真っ暗にして家族で楽しんだものです。
【注記】
確か、地元辰野高校の生物クラブの先生と生徒達が中心となり、松尾峡のホタルを復活させるべく、川を整備し、カワニナを育てて川に放流するなどの活動から始まったと言います。今では町の一大観光イベントとなり、約2000匹ものホタルが乱舞するそうです。
漸く『三国志』全巻を読破しました。
PartⅡも既に公開されましたが、ジョン・ウー監督作品『レッドクリフ(PartⅠ)』を見て、赤壁の断片だけではなく、ちゃんとその背景(例えば、PartⅠの中で、呉の援軍を率いて周瑜が諸葛孔明と一緒に劉備の元に到着した折、劉備がなぜ草鞋を編んでいたのか、また関羽がなぜ子供達に勉強を教えていたのか。はたまた趙雲は長坂の戦いで何故白馬に乗っていたか・・・などなど、が三国志を読むと良く分かります)や赤壁に至る経緯等を知らないと駄目だと反省し、これまで余りに大作過ぎて敬遠していた『三国志』を(今流行りの「あんちょこ」本ではなく、北方謙三版や横山光輝のコミック版も含め悩んだ末)、やはり定本である吉川英治版でと遅れ馳せながら読むことにしました。後で知ったのは、全八巻の原本ではなく、レッドクリフⅡ封切りとタイアップし、ここでエピソードを抜粋し新しく装丁した全五巻版でした。
3月の三連休(次女の引越し)から読み始めてみると、そのスケール感に圧倒され、また実際に展開が面白くて、東京への高速バスの往復や都内での電車での移動中、それこそ貪るように読み続け(お陰で帰路のバス内に忘れ物をして家内からお叱りを受けましたが、それくらいに)止まらなくなるほどでした。やはり古今の名作というのはそれなりに故あるものだと実感し、これまでの読まず嫌いを反省した次第。
平日は通勤電車での往復1時間半が新聞も含めた私の読書タイムなので、鞄での携行を考えるとどうしても文庫本主体になりますが、文庫本だと1冊700頁超の分厚さで全五巻。第一巻は、都内での電車移動が多かったこともあり5日間で読破し、このスピードなら結構読み進めそうに思いましたが、その後スピードが鈍り、3ヵ月後の6月26日を以って漸く読破しました。最後は『死せる孔明、生ける仲達を走らす』の有名なエピソードで完了です。
さて、肝心の赤壁の戦いは吉川本では意外とあっさり(むしろ知略・謀略戦の記述中心)でした。また、曹操も映画とは違い、必ずしも悪役とは言えない(確かに残虐さや狡猾さなどの短所もありますが、戦国の英雄らしく潔くまた憎めないところもある)ように(読み手は)感じました。また、個人的には、趙雲の超人的な戦い振りが印象に残りました。長編大作ですから、どのエピソードをとっても、またどの登場人物をとっても、それぞれ魅力があって主人公になれますが、三国志全編としては諸葛孔明の英雄叙事詩だと感じた次第です。
それにしても、考えてみるとこの三国時代、日本は魏志倭人伝に漸く邪馬台国が登場する頃ですから、古代中国の凄さに圧倒されます。
なお映画封切り前に赤壁は越えたものの、リンゴの摘花、摘果作業に週末終われて時間が取れず、結局映画館へは行けずに上映期間が終わってしまい、またDVDを待つ羽目になりました