カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
5月最後の土曜日に、残っていた庭の芝生の雑草採りと今シーズン最初の芝刈りを済ませ(刈った後の若草の匂いが何とも心地良く感じます)、翌日は予報通り、またまた雨の日曜日。
一杯で予約が取れなかったためにいつもより間隔が空いてしまい、忍者ハットリくんに出てくる忍者犬獅子丸みたいにモコモコになったナナをトリミングに預け、食用(ベジタブル)ハーブを探しに(松本からだと一番近い)池田町ハーブセンターへ(県道51号線沿いの「道の駅」と道路を挟んで対面)。
セイジやミント、ラベンダーなどは種類も豊富でしたが、やはりベジタブル・ハーブは、バジル、ルッコラ(ロケットと表記)、パセリやサラダバーネットくらいしかなく、通常のクレソン(ウォーター・クレス)はありましたが、露地植えが出来るアメリカン・クレスは残念ながら扱っていない(栽培していない)とのことでした。止む無く、せっかく来たのでバジルとルッコラを一鉢ずつ買って、少し収穫時期をずらすべく二株ずつとすることにしました。
ハーブセンターへ行く前に、昼食にまたまた『安曇野・翁』へ(と言うより同じ池田町に「翁」があったので、雨の中一人でハーブセンターへ来なくてすんだのかも)。まだ11時半過ぎだったのと雨模様だったせいか、すぐ座ることができました。雲が垂れ込めていて、残念ながらこの日は「景色のご馳走」は無し。逆にそのお陰で、いつも終わっていた「田舎」蕎麦もまだあるとのことで一枚注文。通常の「ざる」(更科)よりも太麺で茹で時間も長め。結果、やはり我々の好みは更科でした(田舎だったら松本の「月の蕎麦」の方が良い・・・とは家内の言。確かにそうかも。第5話「松本グルメ」を参照ください)。
さて、居合わせたお年を召されたグループが、お酒を注文されていたようです。メニューには4種類(ざる、田舎、おろし、鴨せいろ)の蕎麦以外には「日本酒も各種ございます」と書いてあるだけ(ツマミの類の記載は一切なし)。
で、運ばれてきたのはフラスコのようなガラスの器に入った涼しげな冷酒(銘柄未確認)とともに、運ばれてきた付け合せは「焼き味噌」(注記)ではありませんか。うーん、これぞ蕎麦屋の王道!
10年近く前、「ソ連」(注記その2)の本で、蕎麦屋では「先ず焼き味噌(若しくは「板わさ」)を肴に日本酒を飲み、その後で蕎麦を食す」のが(江戸っ子の?)流儀と確か書かれていた記憶がありますが、正にその通りの組み合わせ。
「おぉ!」と心の中で感嘆符が付き、きっと羨ましげに横目でチラチラ眺めていたのでしょう。家内から「飲んだら?」という有難きお言葉ながら、松本市内であればいざ知らず、池田町で且つ昼間でもあり、帰りのドライブも考え(飲んでも助手席で気になって酔いが醒めるのも勿体無いので)ここは我慢、我慢。
しかし、毎回感じるのは、ここの「ざる」は二八でどうしてこんなに蕎麦の味と香りがするんでしょうか、不思議です(・・・と関心を蕎麦に集中)。
お蕎麦と蕎麦湯で(お酒が無くとも)充分満足し、翁を後にしました。本日も「ご馳走さまでした!」
その代わり、夜は、家内の知り合いの方のお店も紹介されたという「石ちゃん(石塚英彦)」が木曽路を食べ歩く番組(『日本“菜”発見』)の中で、同じく紹介された「アスパラの豚バラ巻きの天婦羅」と今宵も「焼きネマガリダケ」を肴に、舞姫の季節限定・翠露の吟醸「雲の峰」でしっかり(と言っても、いつもの晩酌通りにやや大ぶりのぐい飲みで一杯分)頂いたのは言うまでもありません。
【注記】
シャモジの片面に味噌と店毎に工夫した調味料を混ぜて塗り、香ばしく焼いたもの。
以前、松本市内の『そばきり御代田』でも、オープン当時は一品料理の中に「焼き味噌」がツマミとしてありましたが、経営が代わり一品料理が増えた結果、逆に「焼き味噌」は消えたかもしれません。
【注記その2】
「ソバ好き連」略して「ソ連」。その会員達による東京中心の蕎麦屋の訪問記『杉浦日向子とソ連編―ソバ屋で憩う』(97年初版。その後加筆されて99年に新潮文庫版として発刊。ここで注記するに当り10年振りくらいに再読しました)。なお杉浦日向子女史は江戸風俗研究家。
杉浦女史を中心に集まった彼等の基本ポリシーは、蕎麦そのものの求道者ではなく、ソバ屋でのやすらぎ・憩いを楽しむことを旨とする。そして『昼の混んでいる時は店に迷惑なので避け、午後2時4時の間に行って、じっくり子一時間ほど先ずは酒を味わい、蕎麦屋で憩う。店は客の酒の頃合を見て、絶妙のタイミングで(一声かけて)蕎麦(蕎麦そのものの味が良いことは勿論)が出てくるのが良い店』と。
蕎麦店紀行だけではなく、杉浦女史の専門でもある江戸の「蕎麦文化」が随所に紹介されています。因みに蕎麦屋でのお酒は、打ちたて茹でたての蕎麦を暫し待つ間のツナギであり、そのため蕎麦屋での酒のことを「ソバ前」と呼ぶ、などなど。
当時取り上げられていたのは、「並木藪蕎麦」、「室町砂場」を始めとする東京の店を中心に、地方では山梨・長坂の「翁」や、信州では松本「野麦」と旧美麻村(何て美しい名前だと思いませんか?残念ながら平成の大合併で村名は消えてしまいました)と蓼科のお蕎麦屋さんでした。
特に野麦は、山梨の翁、山形「ソバ街道」とともに、厳選されたソ連会員の「ソバ旅行」の目的地だったのだそうです。
文中で激賞されていた野麦は、私が初めて行ったのは(息子さんに譲り既に引退された)おばあちゃんが一人で切り盛りされていた頃で、まだ今ほど有名になる前(=知る人ぞ知る)でしたので、へそ曲りとしては(松本の他の有名店ではなく野麦を)「良くぞ採りあげてくれました!」と、その評価に大いに賛同したものです。杉浦女史ご自身が紀行文を書かれています。
10年以上も前でしょうか?初めて野麦に行ったのは・・・。
当時野麦の近くにあった子会社のオフィスを会議で訪ねた際に、蕎麦好きの先輩から「こんな小っちゃな店があるよ」と教えてもらい、家内と二人で行った時、最後まで客は私達二人だけ。「自然に背筋がぴんと伸びる店」と杉浦女史がいみじくも評したように、当時の凛とした蕎麦と一輪挿しの野菊が記憶に残ります。
【追記】
杉浦日向子女史。2005年に、何と46歳の若さで癌のために亡くなられていました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌。