カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 WBCも無事終わりましたが、世界同時不況の中で日本全体が元気をもらい、また日本人であることを意識させられた大会でしたね。

 ベースボールか野球かの議論はさておき、日本人の感性の豊かさは良く言われることですが、それは四季のあることに由来するのか?
 例えば、第48項で書いたように、春の風に光を感じ、初夏には「風薫る」、そして秋には「風立ちぬ」と感ずる我々の感性。また、風だけではなく、色についても世界中で日本人ほど「緑」の種類の多い民族はいないと言います。若草色、萌葱色、青竹色、深草色、などなど。
 四季のある国は日本に限りませんが、狩猟民族と農耕民族の違い、風や色、光の僅かな違い、日々の移ろいで農耕へのヒントを得ていたからなのでしょうか。そして、それは生きるための必然的な智恵でもあったのではないでしょうか。

 バブル崩壊以降、日本的経営が否定され、その裏返しとしてもてはやされた欧米流の成果主義。その見直しが数年前から言われていますが、盲目的な米国礼賛が霧消すれば、それは至極当然の帰結であって、運任せのイチゼロの(リスクを取らなければ獲物は得られず、またどんなにスキルがあって努力しても獲物に出会えないこともある、結果が全ての)狩猟民族と、お天道様が頼りで、一朝一夕ではない日々の営々とした積み重ね(プロセス)が、実りの秋に多少の収穫量の差(お天道様には勝てないが、天候さえ良ければ下手でも収穫は少なくともゼロではない)になる農耕民族とは自ずと(個人の)成果(振れ幅)の捉え方(許容範囲)も異なる筈です。まして水など一人でどうこうできる物ではなく、皆で一致協力して水利を引き、全員で公平にその恩恵を享受すべきものです。
 結局、どちらが正しいということではなく、お互いそうした民族性の違いを理解、認識して事に当ることが重要だということでしょう。

 暮らしていく智恵や生き抜くための必然が感性につながり、太古より培われて来た蓄積がその民族性形成の背景だとすれば、例えば「雪」の種類が最も多い民族はエスキモーであるというのもまた当然だと言えます。

 さて、春になり、やがて初夏を迎えるころ、北アルプスの峰々には農作業の時期を教える雪形(型)が現われます。