カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
先週実質半日だけの滞在でしたが、仕事で山形県酒田市へ行ってきました。
酒田と言えば、米どころ庄内平野の最上川河口に広がる「本間家」などの豪商の町で、嘗ては北前船の拠点として『西の堺か東の酒田』と並び称せられたという名峰鳥海山を望む日本海の港町です。「本間家」は農地解放による解体まで日本最大の地主であり、『本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様』という歌も詠まれるほどの栄華を誇り、今でも「旧本間家」にその往時が偲ばれます。ゴルフの「ホンマ」もその係累とか。
酒田は、そうした歴史から今でも町文化が残っていて、JR東日本の『大人の休日倶楽部』の吉永小百合さんが旅人を演ずるCMで、(舞妓さんだったか芸子さんか、お茶屋さんでのやり取りを通して)京文化が残る北の街として紹介されていたのも、ここ酒田でした。また、合唱ファンにはお馴染みの詩人吉野弘もここ酒田の出身とか。
しかし、現在は何と言ってもオスカー受賞『おくりびと』の舞台として俄然脚光を浴びています。会議終了後、会費制で食事に連れて行っていただく際に、気を利かせていただいて、納棺師の会社となった建物の前を車で廻っていただきましたが、「NKプロジェクト」という社名の看板がそのまま架かっていて、最近では県外から観光客が押し寄せて?いるそうです。因みにその建物は、旧料亭である『相馬楼』とのことでした。伺ったお鮨屋さんのご主人が「ロケ誘致」のNPOの代表をされていて、受賞によりマスコミ取材を受けるなど、地元では今や「時の人」なのだそうです。
ただ、個人的には、映画のロケ地としては藤沢文学の「武士の一分」や「蝉時雨」など、父が旅先で倒れ入院中に何度か訪れた鶴岡の方が気になります。
なお、この二つの町は、例えば庄内空港が誘致合戦の結果両市の境界に位置するなど、嘗て?の長野県も“南北戦争”と揶揄されただけに人ごととは思えません(信州に置き換えれば、藩主の居城鶴岡がさしずめ松本で、商業都市酒田は門前町の長野でしょうか?)。
さて、翌朝ホテルから空港行リムジンバスで向かう途中、「南州神社」という案内板が目に入り、見ると松に覆われたこんもりした丘(山?)の脇にそれ程大きくはありませんでしたが、鳥居とお社が見えます。戊辰戦争では、東北は幕府側につき白虎隊に代表される会津藩を筆頭に辛酸を舐めた筈で、僅か数年前だったと思いますが、山口県から福島県への姉妹都市縁組(市町村名は失念)申し入れを、戊辰戦争を理由(ご先祖様に申し開きできないと)に福島県側が即座に断ったというニュース報道があっただけに、もし「西郷南州」であるとするとその背景が気になりました。
そこで、調べてみると・・・、今から(当事者の方々にとっては、一世紀以上も遥か昔、或いはたかだか四代前のことなのか、どちらなのでしょうか?)140年前のことです。
【参考―Wikipedia『戊辰戦争』より抜粋】
会津藩と庄内藩の処分については、新政府内においても「厳罰論」と「寛典論」に分かれたが対照的な処分となった。 会津藩に対する処分は厳しく「旧領の猪苗代か新天地の斗南どちらか3万石に転封」というもので、会津藩内での議論の末、斗南を選択している。斗南は風雪が厳しく実質的には8000石程度で、移住した旧藩士と家族は飢えと寒さで病死者が続出し、日本全国や海外に散る者もいた。
(一方)庄内藩に対する処分は、西郷隆盛らによって寛大に行われた。西郷隆盛の庄内藩に対する対応は巧妙であり、これに感激した庄内の人々は、西郷に対する尊敬の念を深めた。前庄内藩主酒井忠篤らは西郷の遺訓『南洲翁遺訓』を編纂し、後の西南戦争では西郷軍に元庄内藩士が参加している。
(・・中略・・そのため)会津藩のあった福島県西部(特に会津若松周辺)では、今なお山口県(長州藩)の人間への強い嫌悪感やわだかまりがある(片や、庄内藩はその徳を偲び、東北の地に南州神社を奉ったということでしょう)。
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