カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 今日の、松本です。


 我が家の梅は満開。彼岸桜は大分つぼみが膨らんできましたが、まだ開花せず。
 本当に、桜は来週3日に咲くんでしょうか。
 いつ咲くかと、やきもきしつつ、咲けば咲いたでいつ散るのかと心配し・・・桜の無い方がある意味平穏なのかもしれませんね。

  今朝起きると松本は一面の銀世界。5時過ぎにチロルの散歩に出ましたが、まだかなりの勢いで降っていました。我家周辺では2cmほど雪が積もりましたが、これが今年の名残雪でしょうか?冬に逆戻りした今週に比べ、予報では来週は暖かく、来週末(4月3日)には松本も桜の開花が予想されています。でも、彼岸桜もまだ咲いてもいないのに、本当に咲くのでしょうか?
 因みに、三連休中の夜のニュースで気象予報士の方が説明されていましたが、気象庁の開花宣言は、標準木の花が5輪開くと出されるのだそうです。その日、東京は新宿御苑が標準木だったと思いますが、3輪咲いたので「明日、間違いなく開花宣言が出るでしょう」ということでした。・・・で2016年のオリンピック招致に向けて一句。                                ・・・「桜咲く 五輪の花が 東京へ」・・・お粗末。 

 さて、開花予想を信用して、桜の話題を先取りさせていただくと・・・、
松本の桜の開花は、これまで標準木のある松本測候所が深志高校近くの高台にあるため、松本城の桜(特に外堀である片端の桜が一番早く咲くと言われています)が咲いても数日遅れでないと開花宣言が出されませんでした。
 しかし測候所が無人化されたことから、代わってお堀に面する市役所が昨年から?お城の桜を観察木として、参考に開花宣言をすることになりましたので、以前に比べれば松本は数日早く開花することになります。
開花して3日後から8日間、松本城の本丸庭園が無料開放され、300本を数えるというお城の夜桜鑑賞としてライトアップされます。

 さぁ、お花見、お酒、花より団子・・・!?
個人的な、松本のお花見のお薦めスポットは、(人のことは言えませんが酔客ばかりの)城山公園よりも、健康的に昼間家族でお弁当を持ってのアルプス公園。広い園内が500本の桜で埋まります。標高800m近いため、市街より10日前後遅れて楽しむことが出来ます。昔は、5月連休でもまだ“散る桜”の下でお花見が出来たのですが・・・。
 もののあわれ。日本人の美意識や散り際を尊ぶ精神性から、桜は「切なさ」の方が似合う気がしますね。従って(心軽く)楽しめるのは、桜花は三分まで。

  散る桜 残る桜も 散る桜(良寛)
                        *良寛辞世の句の一つと言われる

 WBCも無事終わりましたが、世界同時不況の中で日本全体が元気をもらい、また日本人であることを意識させられた大会でしたね。

 ベースボールか野球かの議論はさておき、日本人の感性の豊かさは良く言われることですが、それは四季のあることに由来するのか?
 例えば、第48項で書いたように、春の風に光を感じ、初夏には「風薫る」、そして秋には「風立ちぬ」と感ずる我々の感性。また、風だけではなく、色についても世界中で日本人ほど「緑」の種類の多い民族はいないと言います。若草色、萌葱色、青竹色、深草色、などなど。
 四季のある国は日本に限りませんが、狩猟民族と農耕民族の違い、風や色、光の僅かな違い、日々の移ろいで農耕へのヒントを得ていたからなのでしょうか。そして、それは生きるための必然的な智恵でもあったのではないでしょうか。

 バブル崩壊以降、日本的経営が否定され、その裏返しとしてもてはやされた欧米流の成果主義。その見直しが数年前から言われていますが、盲目的な米国礼賛が霧消すれば、それは至極当然の帰結であって、運任せのイチゼロの(リスクを取らなければ獲物は得られず、またどんなにスキルがあって努力しても獲物に出会えないこともある、結果が全ての)狩猟民族と、お天道様が頼りで、一朝一夕ではない日々の営々とした積み重ね(プロセス)が、実りの秋に多少の収穫量の差(お天道様には勝てないが、天候さえ良ければ下手でも収穫は少なくともゼロではない)になる農耕民族とは自ずと(個人の)成果(振れ幅)の捉え方(許容範囲)も異なる筈です。まして水など一人でどうこうできる物ではなく、皆で一致協力して水利を引き、全員で公平にその恩恵を享受すべきものです。
 結局、どちらが正しいということではなく、お互いそうした民族性の違いを理解、認識して事に当ることが重要だということでしょう。

 暮らしていく智恵や生き抜くための必然が感性につながり、太古より培われて来た蓄積がその民族性形成の背景だとすれば、例えば「雪」の種類が最も多い民族はエスキモーであるというのもまた当然だと言えます。

 さて、春になり、やがて初夏を迎えるころ、北アルプスの峰々には農作業の時期を教える雪形(型)が現われます。

 この22日、伊那路に春を告げるという選抜高校伊那駅伝が、春の嵐という悪コンディションの中で行われました。
 全国の駅伝強豪高が新チームになって来シーズンの腕試しをするこの大会。今年は広島の世羅高校が留学生カロキ選手の桁外れの強さで4区で逆転し、そのまま逃げ切って優勝しました。4連覇を狙った佐久長聖は追い上げたものの2位。大牟田3位、西脇4位と伝統校が順当に上位を占めました。
男子が32回を数えるこの大会は、仙台育英は参加しないものの、それ以外の強豪校が全国から殆ど参加をしますので、9ヵ月後の都大路の試金石にもなっています。
 長聖はエースが故障で、昨年の都大路の経験者が一人もおらず、また出場選手の持ちタイムの平均も七・八番手と昨年の圧倒的なチーム力と比べかなり見劣りがすることから、戦前は良くて入賞程度と思われていました。
 案の定、1区12位からのスタートとなりましたが、その後追い上げ、一時3区で地元伊那谷出身の1年生臼田選手が、次代のエース誕生を予感させる区間賞の走りで1位に上がる快走を見せるなど、最後も追い上げての2位。
 昨年の都大路の優勝校という自信が選手を大きくしたのか、来シーズンへ向けての確かな手応えを掴んだことでしょう。監督のご子息を始め新1年生として県内外から有望選手も入学してくるとのことから、来シーズンが楽しみです。留学生を擁しない日本人選手だけのチームでの、都大路の連覇に向け是非頑張って欲しいものです。
   
 また女子では、県立長野東が全国の私立の強豪校に混じり6位入賞と、優勝争いを演じ2位となった公立の北九州市立と合わせ、これも特筆ものでした。

 この三連休を使って次女が引っ越すことになり、引越しの「人足」として上京しました。
 「これまでの家賃以内なら」という家内の出した条件で娘が探した今度の住まいは神楽坂の近くにあり、引越し作業が一段楽した後付近を散策してみましたが、閑静な住宅街で環境も良く、新興住宅街にはない古くからの住宅街の情緒も感じられ、落ち着いて住みやすそうな街でした。近くには、神楽坂だけでなく袖摺坂と何ともゆかしい名前が付いた坂など幾つもの坂があり、歩いてみると「江戸は坂の町」ということが良く分かります。
 ワンルームに3人は無理なので我々は新宿のホテルに泊まったのですが、終日の引越し作業の後(私が初めてだったので)二日間は神楽坂で夕食をとることに。初日は予約もせずに行ったのですが、どこも一杯で、二日目はしっかりと予約をしてから出掛けました。
 懐を気にしない娘が選んだ『鳥茶屋別亭』というその店は、娘によれば昼限定のメニューである親子丼が絶品とのこと(最近の女子学生は口が肥えていますな)。
桜のつぼみが膨らんだ毘沙門天の対面にある創業50年の老舗『鳥茶屋本館』を過ぎ、飯田橋方面へ少し下ったところを折れ、通称“芸者小道”と呼ばれるという風情漂う狭い通りにその店はありました。
 その日は、ロープと見紛うような超極太うどんが名物と言う「うどんすき」の「うどん会席」での引越し祝い。菜の花の和え物や白魚を桜の葉で巻いた揚げ物などの先付から始まり、春を感じさせられるコース内容で、神楽坂情緒も一緒に味わいながら満足して帰途につきました。

 第34話でも触れた、海堂尊。現役の医師にして今やベストセラー作家。デビュー作である『チーム・バチスタの栄光』で、2005年「このミステリーがすごい大賞」受賞後、次々と「医療ミステリー?」小説を発表。同じ“田口・白鳥コンビ”では、『ナイチンゲールの沈黙』、『ジェネラル・ルージュの凱旋』、最新作『イノセント・ゲリラの祝祭』まで。番外編?で、『螺鈿迷宮』。
 「チーム・バチスタ」での興奮?により、「イノセント」を除き、全て読破。
中でも「ジェネラル・ルージュ」は秀逸でした。どちらかというと、ミステリー(≒本来の「Who done it?」としての推理小説)の枠から飛び出して、むしろ社会派?に変身してきていますが、「現代医療の問題点」云々と大上段に構えずとも、後半部の緊迫感溢れるストーリー展開は、それこそ手に汗握ると言っても誇張に非ず、と断言できます。しかも今回の主人公ジェネラル・ルージュこと救命救急センター部長の速水医師が何ともかっこいい。映画化にあたり、2作目に選ばれたのも当然な気がします。
 驚くべきは、「ナイチンゲール」と「ジェネラル・ルージュ」が同時並行してストーリーが進行(ストーリーそのものは別立てですが、同じ病院内で同時に起こっていて、しかも登場人物が双方にクロスオーヴァー)していること。読み手は、同時並行で何冊も一緒に読むこともありますが、2作?が時間的に同時進行していくという設定(その旨の指摘は作中どこにも無く、両方読むと分かるのですが)は冒頭から意表をつかれた感じで「やられた!」と脱帽した次第。(注記:「ジェネラル・ルージュ」の解説には指摘がありました)その意味で、「ナイチンゲール」から先に読んだ方がいいでしょう。あるいは、同時に読むか・・・?

 良く?水戸黄門と浅見光彦シリーズの共通性が指摘されますが、個人的には、海堂作品にもある種それに似た(「それ」以上のストーリー展開の面白さに加え、最後にはという)期待感(上述作品のようなワンパターン化した安心感までは、幸いまだマンネリ化していない)と、登場人物自身の一人漫才的なボケと突っ込みの明るいスピード感があり、それがまた別の魅力にもなっています。それは、田口・白鳥コンビに限らず、脇役の猫田師長(普段の眠りネコが、後半部の修羅場を前にして浮き足立つ部下を一喝して落ち着かせる啖呵のかっこ良さ)や姫宮補佐官(因みに彼女は螺鈿迷宮でも大活躍?するのですが、この後その舞台へ異動するくだりがさり気無く挿入されています)も同様です。

 さて今回、映画はどこまで原作に迫れたか?

  松本インターから、上高地方面へ向かう国道158号線沿い、松本市新村(御伽草子の「ものぐさ太郎」の生誕地で有名です)というところに本棟造りを模した民家風の『さかた菓子舗』という「お焼き」のお店があります。(左の写真は、「さかた」の近くから見た島々谷方面。実際は、遠く、白く輝く乗鞍がかすかに望めるのですが、この写真だと分からないか?)
 ここの特徴は、何と言っても皮が薄く、中にぎっしりと具が詰まっていること。また、いつもお客様でごった返している(時々県外ナンバーも見かける)超人気店ですが、堅実経営で手を広げず、ここでしか買えないこと。従って、昼過ぎると「売り切れ、店じまい」と言うこともしばしば。せっかく訪ねても買えないこともあるそうです。
 子供たち等からの「バレンタインデー」のチョコレート(子供達からは「ちゃんと食べるように/くれぐれも取られないように」と忠告があったにも関わらず、気が付いた時には「誰か」が殆ど食べてしまったことから、「ホワイトデー」のお返しも、当然「誰か」が自分で対応すべく、子供達に以前も送って好評だった「さかたのお焼き」になりました(ウン、ありふれたクッキーよりも、中々良い選択だと思います)。
 定番の野沢菜は勿論、野菜(切干大根)、小豆、ヒジキ、夏限定でのナス(鉄火味噌。但し味が変わりやすいため持ち帰りのみで発送は不可とのこと)などなど。具材の多さは感動ものです(値段は他と比べ少々高めですが、食べれば納得の一品)。
(貼付の写真は、半分に割ったのが「野菜」のお焼きです)
ここで言う「野沢菜」は、本来、家庭で古くなった(=漬かり過ぎた)野沢菜漬けを油で(時には油揚げや我家では何故か煮干などと一緒に)甘辛く炒め煮したもので、酒の肴にも好適。

 さて、その昔信州では、どの農家?でも自家製のお焼きを作り、しかも「お焼き」と言えば、囲炉裏の灰に「くべて」(=焼けた灰を被せて)蒸し焼きにする所謂『灰ころがし』が一般的だったように思いますが、今ではここ同様焼かずに「蒸した」ものが主流です(多少天火で焦げ目を付けているのもありますが)。
小さい頃は、祖母が良く囲炉裏の灰の中に入れて「お焼き」をおやつ代わりに作ってくれたものです。
(ただその頃は、幼心には「田舎臭い」お焼きより、チョコレートとかキャラメルに憧れていましたが)
 また、学生時代、長期休暇で帰省した時に、ビール卸の配送のバイトをしていて、毎日白馬へトラックに乗って(助手として)運んで行っていた時に、池田町に「灰ころがし」のお店があって、コンビを組んでいた先輩が良く買ってくれました。熱く焼けたお焼きの「灰」を手でパンパン叩いて落としてから、フーフー言いながら食べたものです。 ただ蒸したものより、皮が焦げた「灰ころがし」の香ばしさと素朴さが懐かしく、忘れられない味です。池田町の「灰ころがし」のそのお店は、今でもやっているでしょうか?

 7年?ほど前の春のことです。
 その日は出張で、「あずさ」で新宿へ向かっていました。当時は、まだ喫煙車両がありましたので、喫煙席を取ったのですが、新型あずさで1両だけ連結されているガラスで仕切られた喫煙コーナー付きの車両(たぶん隣に連結している喫煙席の無いグリーン車のお客様用に敢えて設置したのではないかと思います)だったため、自席では吸わずに、そのコーナーに行って吸っていました。
 その日は天気も良く、朝、常念・槍・乗鞍に見送られて松本駅を出ると、塩尻周辺の穂高、上諏訪を過ぎると八ヶ岳、小淵沢の甲斐駒、韮崎を過ぎてからは富士山と、やがて車窓には日本を代表する名峰が次々と姿を表します。(因みに、視界が良いと下諏訪駅手前で、遥か諏訪湖の向こうに富士山が見えるのをご存知ですか?)
 
 特に3月下旬から4月中旬は、早春の信濃路から春本番の甲斐路を経て武蔵野へと、僅か200kmの間で季節の違いが一番感じられる時。
 サクラであれば小淵沢手前には左側の車窓に八ヶ岳をバックに枝垂れ桜の老木(「神田の枝垂れ桜」)や、新府辺りでは右側には残雪の甲斐駒をバックにした丘陵地の桃畑(「新桃源郷」の看板が車窓からも見えます)や、甲府を過ぎると一宮を中心とした一面ピンクの桃畑の中をあずさは駆け抜けて行きます。やがて甲府盆地を周回するように勝沼まで上がっていくと、眼下には盆地を埋め尽くすかのようにピンクの絨毯が広がっています。それから幾つものトンネルを抜けて、八王子を過ぎ新宿へ到着する前の線路沿いの土手には、ムラサキナバナや菜の花が鮮やかな紫や黄色の帯のように続いています。そして、季節は新緑へ。

 その日、喫煙コーナーにずっと佇んでは、時々デジカメで車窓から写真を撮っている中年の男性の方がいました。ジャンパーを着ていましたので、どうやら出張中の会社員ではないようです。
 何度か同室?するうちに何となく、お互い「綺麗ですね!」と会話が始まりました。その方は、何と?JR貨物の機関士の方で、首都圏から貨物列車を運転されて来られ、帰路は(通常は復路も貨物列車を運転されて戻るそうですが)たまたまその日は列車が無いため電車で戻られる途中とのことでした。元々は山手線の機関士だったそうですが、「若い頃組合活動を頑張りすぎて、貨物の方に異動しましてね。」と自嘲気味に笑われていました。

 その方曰く、「この路線(中央東線沿線)は日本で一番美しい路線だと思いますよ。東京を出て、松本に着くまで、どの季節もそれこそ涙が出るほど美しいと思う瞬間瞬間があります。」と、その景色を思い出すかのように宙に視線を漂わせながら仰っていたのがとても印象的でした。
 特急と違い、貨物列車は旅客列車のダイヤの間を縫いながらの運行でしょうから、余計ゆっくりと沿線の四季折々の風景が脳裏に焼き付けられているのでしょう。
出張の時など、新幹線に比べ時間がかかり過ぎる不便さをいつも嘆いているだけに、プロの方からそう言っていただくと余計説得感があり、そんな路線に乗ることが出来る幸せをちょっぴり感じた次第です。

 私のお気に入りは、下り線で言うと、韮崎を過ぎた辺り(新府)で左側の車窓からの『残雪の甲斐駒をバックにして広がる桃畑』。空の青と山の白、桃のピンクの鮮やかなコントラストが、それこそ『涙が出るほど美しい中央東線』の中でも「期間限定の」“イチ押し”の風景です。
 見られるのは4月上旬。その瞬間まで、もう1ヶ月弱。今年は運良く立ち会えるかどうか・・・?

 「閑話休題」って時々見かけますが、本来は「余談はさておき」それた話の筋を本題に戻すという意味の筈ですが、間違って逆に「ちょっと一休み」的に使っているケースがしばしば見受けられますね。
 そこで(何が本題か良く分かりませんが)、「閑話(だけでもいいのでしょうが)一題」、ここでちょっと「箸休め」。

 寒い時には、鍋・・・という季節もそろそろ終わりですね。
 この冬我家で活躍したのは、以前ご紹介させていただいた安直鍋(第16項参照。白菜と豚バラだけの超簡単鍋)と『水炊き』でした。以前は鶏肉を煮ても(ゴムのように)固くてパサパサしていて美味しくないので、寄せ鍋材料にも一切鶏肉は使いませんでした。
 それが、1年ちょっと前、NHKの『ためしてガッテン』を何気なく見ていたら、水炊きが取り上げられていて、やはり一般家庭の固い鶏肉の水炊きと本場『博多の水炊き』の比較に始まり、その達人の方が作る水炊きの美味しさの秘密を科学的に解明していて「なるほど!」と正しく合点(!)がいき、それ以降何度か我家でも水炊きが登場するようになりました。それも、ただ時間をかけて煮るだけで鶏肉がホロホロと柔らかくなり、煮方だけでこうも違うものかと「目から鱗」で認識した次第です。また、白菜ではなくキャベツを入れるというのも博多風。TVを見ず、最初「鶏肉」を使うのに抵抗していた家内も、食べてみて納得してくれました。
 たまたま帰省していて一緒にTVを見ていた上の娘も、東京で「ためしてガッテン」流に手羽先も入れてコラーゲンたっぷりのレシピ通りの正統派水炊きを時々楽しんでいるそうです。

(来シーズンに向けて?)興味ある方は、下記NHKの番組アドレスをご参照ください。
http://www.nhk.or.jp/gatten/archive/2008q1/20080109.html

 では、これにて『閑話休題』といたします。

 松本が主会場となった、1978年の『やまびこ国体』で、時の故和合松本市長が開会式の歓迎挨拶の中で、信州松本の枕詞として使った『山高く、水清くして、風光る』は、(本来は春の)松本をたった17文字で何とも余すところ無く形容した句だと思います(国体は秋の開催ですが)。*注記:「風ひかる」は春の季語
 余談ですが、開会式で先に挨拶に立った故西沢知事が『みすずかる信濃・・・』と始め、全く同じ枕詞を用意していた和合市長は頭が真っ白になり、知事の2分間の挨拶中に思案して、咄嗟に思い至ったのがこの句だったのだそうです。
 この句は、地元の「平林荘子」という方の句なのですが、調べても経歴や広まった経緯等は分かりませんでした。ただ、松本を紹介する際、(以前はネット検索しても、和合さんのエピソードと旧開智小のお土産品の2件しか引っかからなかったのが、今では)結構色んなところで一般的な松本の形容詞として(作者名は無く)使われているようです。

 地元の人にも殆ど知られていませんが、大名町にある「四柱神社」境内の片隅に、この句碑がひっそりと佇んでいます。


中高生の頃、松本の本屋と言えば老舗だった「鶴林堂」(残念ながら数年前に倒産してしまいましたが、今でも空きビル状態でそのまま建っています)に自転車で本を買いに行くと、すぐ裏手が神社で、何となく境内を歩いていて句碑を見つけ、子供心に「いいなぁ」と思ったことを覚えています。

 さて、弥生三月。冬と春が行きつ戻りつしながらも、信州も間もなく風光る季節を迎えます。
                                                注記:なお、上の句碑の写真は風光る春ではなく、(H/P立上げ用にと)風立つ秋に撮ったものですが悪しからず。・・・ということで、お詫びに「春らしく」昨日リンゴ園で撮った「オオイヌノフグリ」(ってもう少し花に合った可愛らしい名前つけてあげられなかったんでしょうか?ちょっぴり可哀想です)の写真も併せて掲載しておきます。

 一昨日は、午後から松本も本格的な雪になりました。東京でもこの冬初の積雪(1cm未満)を記録したそうですので、いわゆる「上雪」です。長野以北(北信)は、日本海側の影響を受けますが、中部(中信)や南部(南信)では、日本海の低気圧が北アルプスなどで遮られるため、むしろ太平洋側の気候の影響を受け(TVの天気予報で参考になるのは長野市ではなく甲府)、真冬よりも関東地方にも降る春近くになると、松本地方にもまとまった雪が降ることが多く、これを「上雪(かみゆき)」と呼んでいます。
 日曜日は暖かく、平年より随分早く梅がほころび始めていたのですが、今週はまた寒の戻りで、多分今年一番の降雪(高台の我家周辺では12~13cmほど)ではなかったでしょうか。
 そして、翌朝は先週の春から一転しての雪化粧で、梅ならぬ枯れ木に雪の花が咲きました。
前日夕刻から、家内が娘の所に(また)上京し、一人だったので『しっかりせねば!』と心して朝4時半に起きて、先にチロルを散歩に連れて行って来てから、出勤するまで雪かきをしようと思ったのですが、何と道路・通路には全く積もっておらず拍子抜けしてしまいました。

 写真は携帯ゆえ見にくいですが、純白の花が咲いた我家の庭の木々です。
 そしてその雪も、『春の淡雪』のように一日ですっかり融けてしまいました。
「上雪」が降るようになると、松本では「一雨ごとの暖かさ」ならぬ「一雪ごと」に春の“近づき”を感じます。

 先週実質半日だけの滞在でしたが、仕事で山形県酒田市へ行ってきました。
 酒田と言えば、米どころ庄内平野の最上川河口に広がる「本間家」などの豪商の町で、嘗ては北前船の拠点として『西の堺か東の酒田』と並び称せられたという名峰鳥海山を望む日本海の港町です。「本間家」は農地解放による解体まで日本最大の地主であり、『本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様』という歌も詠まれるほどの栄華を誇り、今でも「旧本間家」にその往時が偲ばれます。ゴルフの「ホンマ」もその係累とか。
 酒田は、そうした歴史から今でも町文化が残っていて、JR東日本の『大人の休日倶楽部』の吉永小百合さんが旅人を演ずるCMで、(舞妓さんだったか芸子さんか、お茶屋さんでのやり取りを通して)京文化が残る北の街として紹介されていたのも、ここ酒田でした。また、合唱ファンにはお馴染みの詩人吉野弘もここ酒田の出身とか。
 しかし、現在は何と言ってもオスカー受賞『おくりびと』の舞台として俄然脚光を浴びています。会議終了後、会費制で食事に連れて行っていただく際に、気を利かせていただいて、納棺師の会社となった建物の前を車で廻っていただきましたが、「NKプロジェクト」という社名の看板がそのまま架かっていて、最近では県外から観光客が押し寄せて?いるそうです。因みにその建物は、旧料亭である『相馬楼』とのことでした。伺ったお鮨屋さんのご主人が「ロケ誘致」のNPOの代表をされていて、受賞によりマスコミ取材を受けるなど、地元では今や「時の人」なのだそうです。
 ただ、個人的には、映画のロケ地としては藤沢文学の「武士の一分」や「蝉時雨」など、父が旅先で倒れ入院中に何度か訪れた鶴岡の方が気になります。
 なお、この二つの町は、例えば庄内空港が誘致合戦の結果両市の境界に位置するなど、嘗て?の長野県も“南北戦争”と揶揄されただけに人ごととは思えません(信州に置き換えれば、藩主の居城鶴岡がさしずめ松本で、商業都市酒田は門前町の長野でしょうか?)。

 さて、翌朝ホテルから空港行リムジンバスで向かう途中、「南州神社」という案内板が目に入り、見ると松に覆われたこんもりした丘(山?)の脇にそれ程大きくはありませんでしたが、鳥居とお社が見えます。戊辰戦争では、東北は幕府側につき白虎隊に代表される会津藩を筆頭に辛酸を舐めた筈で、僅か数年前だったと思いますが、山口県から福島県への姉妹都市縁組(市町村名は失念)申し入れを、戊辰戦争を理由(ご先祖様に申し開きできないと)に福島県側が即座に断ったというニュース報道があっただけに、もし「西郷南州」であるとするとその背景が気になりました。
 そこで、調べてみると・・・、今から(当事者の方々にとっては、一世紀以上も遥か昔、或いはたかだか四代前のことなのか、どちらなのでしょうか?)140年前のことです。

  【参考―Wikipedia『戊辰戦争』より抜粋】
 会津藩と庄内藩の処分については、新政府内においても「厳罰論」と「寛典論」に分かれたが対照的な処分となった。 会津藩に対する処分は厳しく「旧領の猪苗代か新天地の斗南どちらか3万石に転封」というもので、会津藩内での議論の末、斗南を選択している。斗南は風雪が厳しく実質的には8000石程度で、移住した旧藩士と家族は飢えと寒さで病死者が続出し、日本全国や海外に散る者もいた。
(一方)庄内藩に対する処分は、西郷隆盛らによって寛大に行われた。西郷隆盛の庄内藩に対する対応は巧妙であり、これに感激した庄内の人々は、西郷に対する尊敬の念を深めた。前庄内藩主酒井忠篤らは西郷の遺訓『南洲翁遺訓』を編纂し、後の西南戦争では西郷軍に元庄内藩士が参加している。
(・・中略・・そのため)会津藩のあった福島県西部(特に会津若松周辺)では、今なお山口県(長州藩)の人間への強い嫌悪感やわだかまりがある(片や、庄内藩はその徳を偲び、東北の地に南州神社を奉ったということでしょう)。

 信州は、東京と比べると、花の開花は1ヶ月弱ほど遅れます。
 2月上旬に東京へ出張するともう梅が咲いていました。東京だけではなく、甲府盆地も同じ頃梅が咲いていましたし、サクラも同様(信州より1ケ月程度早め)ですので、温暖化で山梨のブドウに影響が出ているというのも「むべなるかな」でしょう。
 さて、リンゴの剪定も終わったので、日曜日から他の果樹等(自家用の梨や桃・柿、梅など)も剪定を始めました。
 3月1日の日曜日には「サクラ切るバカ、梅切らぬバカ」と言われるように、かなり徒長枝が出る梅を剪定しました。まだ2月というのに最近は雨が降ったり、異常気象なのでしょうか、信州も暖かい日がありましたので、枝によっては一輪二輪ではありましたが、もう梅がほころび始めているではありませんか。
  梅一輪 一輪ほどの 暖かさ(嵐雪)
 確かに東京と比べると1ヶ月弱遅れですが、例年に比べると10日から2週間程度早まっているように感じます。春が来るのは歓迎とは言え、早まりすぎるのも心配です。

 子供たちが受験の頃は、剪定した梅と桃の枝を室内に生けて、(薪ストーブ効果で)戸外より早く入試の発表に合わせて「サクラ咲く!」ではありませんが、縁起をかついで「花が咲く」ようにしたものです。我家の娘達の受験はもう終了していますが、それを思い出して、今年も室内に先ずは梅を飾ってみました。
受験生の皆さんにどうか「花」が咲きますように!

【追記】
 そう言えば、何年前だったでしょうか、朝の通勤電車でのこと。ちょうどその日は長野県の高校入試の日で、たくさんの中学生が乗り合わせていました。
 高校が集まるある駅に着く直前、車掌さんの車内アナウンスがありました。
『本日は高校入試です。受験生の皆さん、是非頑張ってください!』
 以前も以後も(残念ながら)その年だけの体験でしたが、あの時、受験とは関係無い私も含めた乗客の皆さんもきっと共感したのでしょう。何だか車内の空気がほのぼのとして暖かくなったように感じられました。

 2月28日に漸くリンゴの剪定作業が終了しました。
今年は、1月24日からブドウの剪定作業を開始し、2月中旬には終了予定でいたのですが、海外出張等で、土日・祝日の5日間が潰れてしまい、少し予定がずれ込んでしまいました。
 剪定は、樹形(今年だけではなく、数年後、どの枝をどのように伸ばすのか)や日当たりを考えながらの作業で、ある意味秋のリンゴの出来を左右する重要な作業です。
 昨年は少々実をならせ過ぎた反省から、今年はかなり思い切って枝を落としました。作業の途中、親戚(新宅)の伯父(父に経験を聞けなくなった今は伯父が私のお師匠さんです)が、今年の状況を見にきてくれ、合格点をいただきました。



 写真は、少し見にくいかもしれませんが、剪定のビフォア(上)・アフター(下)のほぼ同じ場所からの様子です。紐が見えるかもしれませんが、これは上に伸びた枝を誘引して、下向き(もしくは水平)にしようとしたためです。
 ものの本によると、リンゴの枝は水平/下向きになることにより、植物ホルモンの一種であるエチレンガスがより多く発生し、その結果花芽が付きやすくなるのだとか。また、エチレンガス(成熟ホルモンとも言われます)は、結果としてリンゴ(の果実)に多く含まれ果実の成長を促すのだとも。実際、青いバナナやキウイをリンゴと一緒に冷蔵庫へ入れておくと熟して甘くなったり、ジャガイモは発芽が抑制されるそうです。そのため、リンゴの剪定でも出来るだけ「柳の木が枝垂れるように」とJA(農協)の指導員が技術指導をされています。
 
 さて、この剪定作業の結果(良し悪し)が分かるのは11月下旬以降の収穫の時(更には枝が予定通りの樹形になるかは数年後)。今年の結果はどうでしょうか、楽しみでもあり、心配でもあり・・・。