カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
最近行く機会が無くなってしまいましたが、出張や私的に依頼された委員も含め、数年前まで長野市に行く機会が多かった時、昼食に(かかる時は必ず)行っていたラーメン屋さんが、県庁にほど近いホテル犀北館正面玄関の対面(県町)にあります。
「夜泣きそば・ふくや」という小さなラーメン屋さん。
最初は偶然入ったのですが、その時はそれほどとも思わなかった(むしろ「えっ、何これ?」とマイナス評価に近かった)のが、日が経つと何故かまた無性に食べたくなる、そんなラーメン(と言うより「支那そば」と呼んだ方がピッタリ)です。見た目ほど塩辛くはない、真っ黒な醤油スープ(ややクセがあり、好き嫌いが分かれるかもしれませんが、その場合も是非2回は食べてから判断してください)に良く絡むストレート麺。トッピングにはメンマと柔らかな自家製チャーシューが、普通の店のチャーシュー麺ほどに載っています。(普通のゆで)卵は別オーダー。値段も当時一杯650円だったでしょうか、良心的。おばさん一人では手が回らないのか、券売機での前金制で、ラーメンの上げ下げも(勿論水も)セルフ。行くといつも大盛り(+150円?)を頼んでいました。昼食時は、かなり込んでいて相席が当たり前。ただし、駐車場はありません。行ったことはありませんが、長野市郊外の妻科に姉妹店(本店?)があって、そちらは駐車場があるようです。機会があれば何度でも行ってみたいラーメン屋さんです。
因みに、醤油派としての私の好きなラーメン屋さんは、ここ「ふくや」と諏訪にある屋台ラーメン「桜亭」。以前は上諏訪駅前にあったのですが、郊外の島崎に拡張移転してしまい、行く機会が無くなりました。背油を浮かせたややあっさり系のスープは、飲んだ後の締めには最高でした。また、松本駅前「亀ノ家」もそれに近い味でしたが、その後残念ながら経営が変わり(店名は何故かそのままで)醤油ではなく味噌ラーメンが看板メニューになってしまいました。
【追記】
先日、次女の大学の父母後援会の長野県支部の役員会が長野であり、家内も上京していて不在だったため、お昼を我慢して早めに出かけて、3年振りでしょうか、ふくやに行ってみました。休日でしかも昼時を過ぎていたため、混んでおらず、久し振りにゆっくりと食べることができました。いつもの大盛りを注文。とろとろのチャーシューが6枚も。値段は850円(普通盛が700円でそれぞれ50円アップ)になっていました。でも、味は相変わらずで「大変美味しゅうございました。」
先々週土曜日から翌週土曜日まで、ほぼ一泊ずつの駆け足で、東南アジア4カ国に出張してきました。
(因みに、出張で土日が潰れたため、先週は遅れていたリンゴの剪定作業に追われ、ブログを更新する時間がありませんでした。深謝)
さて、シンガポールへ夕刻到着後、現地赴任者の皆さんと食事に。シンガポール・リバーの再開発で綺麗になったボート・キーだったか(赴任当時、倉庫街だったクラーク・キーが同様に再開発されましたが)の、海鮮料理の店に案内いただきました。オープン・エアのレストランで、名前は『小紅楼(レッド・ハウス)』。
もともとは違う(あるホテル内の)中華料理店を予定していたのを「もっとシンガポールらしい所を」ということで、わざわざ変えてくれたとのことでした。
赴任中、(ホテル内の高級中華料理店に比べ)安かったこともあり、チャンギ空港近くにある、イースト・コースト・シーフードパークに、ちょくちょく出張者を案内したり、また時には家族で行ったりとしていた店が、その中の一軒である『レッドハウス(漢字では小紅楼)』でした。常に地元客で満員の人気店でした。
ここは、その支店とのことで、(当時と同じ)メニューが出され(味は勿論)懐かしさで一杯でした。
そして、それ以上に驚いたこと。帰任してから既に15年になります。
そこに案内された時、フロア・マネージャー(店長)が、当時イースト・コーストに居たマネージャーで、特徴ある風貌(髪の毛の薄い「高木ブー」的)で、顔を合わせた瞬間、どうやらお互いが「あっ、お前はあの時の!」と感じた様でした。
食事の合間に、彼のところに行って話をすると、やはり彼も私を覚えていてくれたようで、『やぁ、久し振り。15年も経つのか!あの頃は良く来てくれたよなぁ。○○社だったよねぇ?』と言う会社名が違ったのはご愛嬌ですが・・・。
聞けばこの場所の再開発で支店を出して、そこを彼が任されているとか。しかし、15年振りとは思えぬほど、彼が変わっていなくてビックリでしたが、味も同様、チリ・クラブ(カニを食べるよりもパンを頼んでドロリとしたソースを付けて食べた方が美味)もブラック・ペッパー・クラブ(このカニは英名マッド・クラブ。別名、マングローブ・クラブとも。現地ではスリランカ・クラブと言っていたような気がします。因みに和名はノコギリガザミで、ワタリガニの一種だそうです)も、更にはシンガポール定番のガルーパ(ハタの一種で、淡白な白身魚で蒸し煮が定番。最後にライスを頼んで、甘辛の醤油ダレの煮汁で食べるぶっかけ飯が最高です)。皆当時と同じで、懐かしさと一緒に久々のシンガポールを堪能することができました。
東南アジアから日本への留学生を対象とした、ある奨学財団の選考委員を会社から仰せつかっており、先日東京にその面接に行ってきました。
学生の皆さんの出身は、中国、タイ、インドネシア、ベトナムといった国々。中でも、ベトナムからの留学生の皆さんは、(まだ国が貧しいが故)殆ど全員が国費留学です。
印象的なのは、彼らは日本で先端技術を学び、博士号取得後はいずれ母国に戻って大学教授になる夢を抱いていること。その理由は、貧しい自分の国がこれから豊かになっていくためには「国造りは先ず人づくりから」と一様に答えてくれるのです。そして、日本への留学理由を、資源を持たない日本の(明治維新以降の)近代化と日本人の勤勉さを皆挙げてくれます。更には、日本で暮らす中で感じた日本人の親切さと礼儀正しさも。
また、中国から或る大学の農学部の森林学科に留学している彼は、故郷の内モンゴルに戻ってゴビ砂漠の緑化事業に取り組むのだとか。
勿論、中には自分自身(だけ)の将来を語る学生もいますが、総じて貧しい国からの学生さんほど立国への志を抱いていて、「国のため」などという言葉がもはや死語(スポーツの日本代表の世界だけ?)になっている我々日本人として、感動を覚えずにはいられませんでした。でも一方で、私達が感じている以上に、日本人の優しさや道徳観はまだまだ残っているようでもあり、疲労感より爽快感を感じさせてくれた面接でした。
犀星が、青年期に『美しき川は流れたり。そのほとりに我は住みぬ』と詠いながら、後年『遠きにありて思うもの・・・(中略)帰るところにあるまじや』と(反語的であれ)自分自身に対し、突き放さざるを得なかった「ふるさと」。
誰しも、高校生の頃は、山に囲まれた「何も無い(と思えた)ふるさと」から、山の向こうにあるであろう可能性という「無限に広がる世界(都会)」へ憧れて、希望を胸に故郷を後にして都会へ出て行く・・・のではないでしょうか。
私も、自身の決断(幼い頃から、今は亡き祖母から「帰るべき」を深層心理にまで埋め込まれた結果)とはいえ、故郷である松本に帰ってきて暫くは、何か仕事などで面白くないことがあったり、一方で都会の華やかさの中で活き活きとしている友人を見るにつけ、とかく他責で「家」を含めた故郷「松本」のせいにしていたような気がします。
そんな折(四半世紀以上も前)、ふとしたことで手にとったエッセイ(作者は失念。そんな有名な方ではなく、その本も全国の特徴ある地方都市を紹介する紀行文だったような)の中で『信州松本』が取り上げられていて、『(松本城に代表される)歴史や文化があり、北アルプスの峰々に抱かれたこんな街で、○○銀行や○○社に就職し、休日に「まるも」で珈琲を飲みながら(山を仰ぎ見て)暮らせる松本の人たちは幸せだ。』という趣旨だったように記憶しています(おそらく市内を散策した後、「まるも」でその原稿を書いているのではと思われるような文章でした)。そして、今もその時の心象風景が鮮やかに甦ってくるのは、本当に冗談のようですが、その○○社に勤務(Uターンするとしたら、公務員か、当時その2社くらいしか実際に新卒採用はありませんでした)し、休日にクラシック音楽の流れる、正しくその『まるも』で一人コーヒーを飲みながら、その本を偶然手にしていたのです。
そして『そうか、そうなんだよなぁ!』と、甚く自身に合点が行き、(それまでは故郷「松本」のせいにして逃げていた)その時の自分の心に深く静かに染み込んでいったのを、まるで昨日のことのように覚えています。
(写真は「まるも」外観。女鳥羽川の対岸から)
娘達は、上は昨年東京で就職。下も東京の大学に進学し、卒業後は彼女も戻っては来ないでしょうし、私とは違って、子供の頃から海外でも暮らした彼等ですので、この狭い松本に縛られる必要もないと思います。
しかし、若い頃は「何も無い」と感ずる故郷ですが、それは都会に「今あるもの」の方が大きいから。でも、故郷に「あった」ものが見えてきた時に、帰るところがあることの幸せを、やがて(彼等も)感ずる時がきっと来ると思います。後年(定年後でいいので)、帰る故郷があり、それが(彼等にとっては)松本だった幸せを噛み締める日が。そして、その時は間違いなく居ないであろう親たちの暮らした痕跡を、この街でデジャヴュのようになぞる時が・・・。
その時まで、ふるさとは「遠きにありて思うもの」であっていいのだと思います。
(以上、テレ朝『人生の楽園』的独り言・・・でした)
昔、松本は島内に、「トンチン館」という名の不思議な喫茶店がありました。
この一戸建ての喫茶店は、何が変わっているかと言うと、総2階の建物(コンクリート製)を、切妻屋根の片側を底辺に引っ繰り返した逆様の形(外観)をしていたのです。多分、私が小学生か中学生の頃完成し、ひと頃マスコミにも取り上げられるなどかなり話題になったと記憶しています。その場所は、松本市内から豊科、大町に向かう国道147号線(“塩の道”と呼ばれる旧千国街道)を少し脇に入ったところにありました。
5年程前、島内にある事業所に転勤し二年程勤務した時、ちょうど会社への通勤路沿いにあり、話題になったのが子供の頃でしたし、場所が郊外でもあり、訪ねる機会は全く無かっただけに、初めて見つけた時は「こんな所にあったのか」と感慨深いものがありました。でも、もう40年くらい経っていますので、かなり古ぼけてしまってもいました。
近くに来たのでいつでも行けると思いながら、その後また異動になってしまい、結局中に入ることはありませんでした。
最近、2年ぶりに車でその近くを通った時、何か風景が違うのです。帰りにもう一度注意していると、その「トンチン館」が跡形も無くなっていて、そこには普通のアパートが建っていました。
当時、噂では建物だけではなく、カレーだったか(例えば想像するに、ご飯にカレーをかけるのではなく、カレーの上にご飯が載っている?とか)、飲み物だったか忘れましたが、提供されるものまで逆様にする凝り様だったとか。
無くなった今になって思うと、オーナーの方のこだわり(遊び心)を話のネタにでも一度くらい訪ねておけば良かったと後悔しています。
一昨日、1月最終の土曜日は厳冬期の筈が、松本も朝から雨。剪定作業も出来ないため、諦めて家内の指示により事務作業に従事し、お昼に母も一緒に蕎麦でも食べに行くことに。どうせなら初めてのところへと言うことで、蕎麦処として名高い山形村の「唐沢集落」へ行ってみることにしました。
唐沢地区は、西山の高台、清水高原の入り口に位置し、昔稲作が出来ないため、主食として蕎麦を作っていたのが有名になり、今では10軒近くの民家が地粉で打つ蕎麦屋として、昔からの慣習で農家の女性が蕎麦を打っているそうです。
松本から、波田町を経て車で30分ほど。清水高原入り口のアーチをくぐると、すぐ何件もの「蕎麦」の看板が出迎えてくれます。その中で、地区で一番古いという「からさわ屋」という民家に決めました。昔ながらの民家の座敷を客間にして、コタツにあたりながら、奥からは蕎麦を打つ音が聞こえてきます。蕎麦を待つ間、自家製の「野沢菜漬」を出していただきました。
蕎麦は、田舎風の二八蕎麦。「皿蕎麦」でザルではなくお皿に2枚で一人前(1000円)。喉越しが良く、つゆはやや薄めですが、徳利にたっぷりと出してくれます。量が少し多目かなと思いましたが、簡単に平らげてしまいました。
感動ものは「野沢菜漬」の美味しかったこと。べっ甲色に変わりつつあり、ちょうど食べ頃。暖かいので、もう暫くすると発酵が進み酸っぱくなってしまいます。感想を申し上げたところ、お茶請けにもう一鉢出していただき、恐縮してしまいました。
若奥様と(蕎麦を打つ)お婆ちゃんのお二人で切り盛りされていて、昔はこの時期厳冬で(家の中でも皆凍ってしまうので)店は閉められていたとのこと。最近は暖冬なので、朝起きて寒くなければ店を開けられるそうで、たまたまその日も運良く開けていただいていたようです。
信州には有名店とは別に、ここ唐沢地区のように土地土地にそれぞれ特徴ある昔ながらの「蕎麦処」があり、そうした懐かしい土地の味や暮らす人の情を尋ねるのも楽しみです。近隣では、木曾の開田高原や奈川。乗鞍のいがや地区。長野では、何と言っても戸隠。
さて、次は・・・。最近評判という旧美麻村にでも行ってみますか?