2008/02/01 8:41

清濁併せ呑む

人は影と日向を持って生きています。
それは、昼があるから、夜があるように。

清廉潔白、聖人君主になんかなれないんです。
でも、それを目指すことはいいこと。
でも、清いだけの水には、魚は生きていけないものです。

人生は、清濁併せ呑むことだと思います。
純粋な気持ちもあれば、煩悩もあります。

闇があるからこそ、より輝きが増すものです。
逆に、派手にきらめいて見える人には、かならず闇があります。

お釈迦様も、煩悩をなくせ、とは言っていません。
ほどほどにねって。

「いい」かげんが必要です。

コメント

濁を呑むのはたやすいですが、(ダックダック呑めます)
清を併せるのって難しいですよね。
その「いい」加減の「いい」の基準を
自分なりにどう持つかですよね。
会社だったら顧客満足を求め過ぎても
会社利益を求め過ぎてもいけないですもんね。
経営者の走川社長であれば
社員待遇と会社の利益確保の狭間で
色々と心労があるのではないでしょうか。

そんな走川社長に質問です。
この前の大阪国際女子マラソンの
福士選手をどう思われますか。
経営者の目からしてどのように評価されますか。
もし走川社長が監督であれば出場をどう判断されますか。

私は練習で30㎞以上走ったことがない福士選手が、
出場したこと自体に大きな疑問を持ちます。
プロであれば挑戦することや参加することに意義を見出す前に
勝つための戦略を優先するべきだと思うのですが。
紀元前450年、マラトンに上陸したペルシャの大軍を、アテネ軍がやぶり、
その勝利を伝えるため兵士が伝令となり、アテネの城門で勝利を告げ、
力尽きて息を引き取ったと言われています。
それが起源となったのが「マラトン」=「マラソン」です。

要するに、42.195kmというのは、訓練なく走れば、
人が死んでしまう距離だということですよね。
これが前提条件だと思います。

まず、その距離をなめてはいけないということです。
福士選手はハーフマラソンでは、とてもすばらしい選手と聞きました。
能力も高い選手なのでしょう。
それ自体は、問題ありませんよね。

また、30km以降の、あれだけ倒れながら、
最後まで走り切る意志の強さは、もう尊敬に値します。

問題は監督とかコーチの練習プログラムではないでしょうか?
選手は、監督を信じ、そのプログラムを信じ、
練習を進めたと思います。

今回の一番の問題は、そこではないのでしょうか?
それとも、福士選手が、30kmトレーニングで充分だと判断していたのなら、
話はまったく別ですが・・・


「やればできる」といいます。
さて、この「やればできる」とは、どう解釈すればいいでしょうか・・・

言葉通りに解釈すれば、「やっていれば、できる」ということですよね。
でも、逆に言えば「やっていなければ、できない」ということでもありますよね。
まったく素養、潜在能力がない、あるいは、やったことがないことは、
「やればできる」と励ましても、なんの励みにもならないということです。

ベテラン選手でさえ、練習プログラムの中で、
42.195kmを1日に2本を当たり前に走る選手もいるそうです。
基本は、なにも準備をしていなければ、人が死んでしまう距離です。

「やればできる」とは、何ぞやを気づかせてもらいました。

投稿、ありがとうざいました。

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