2010/07/31
ボールの握り方を後輩に指導。
寿庄内ジャガーズの卒団生からは多くの甲子園球児が誕生しています。
柿田くん優勝めざして頑張ってきてください。
彼は、リトル・寿庄内ジャガーズ、南シニヤ時代、全国大会出場する事はできませんでした。
特にシニヤ時代は控えの選手で2番手、3番手でしたが、高校に入りついに、甲子園出場という夢をはたしました。
あきらめず、努力を積み重ねてきました。
そして、最期の1球まであきらめない結果です。
後輩の皆も、僕の後についてきてください。
2010/07/31
甲子園出場おめでとう。
松本工業のエース柿田くんが、リトル・寿庄内ジャガーの後輩に甲子園出場の挨拶。
並柳グランドに来ました。
『後輩のみんな ! 応援してくれて、ありがとう !
お陰で甲子園に行くことができました。
長野県大会のように最後まであきらめず、全力で戦ってきます !
応援よろしく !』
甲子園での健闘を祈ります。
松本工業のエース柿田くんが、リトル・寿庄内ジャガーの後輩に甲子園出場の挨拶。
並柳グランドに来ました。
『後輩のみんな ! 応援してくれて、ありがとう !
お陰で甲子園に行くことができました。
長野県大会のように最後まであきらめず、全力で戦ってきます !
応援よろしく !』
甲子園での健闘を祈ります。
2010/07/26
松工と松商の試合終了後すぐ球場で配られた号外です。
甲子園への実感がさらに高まります。
頑張れ ! 柿田 !
頑張れ ! 松本工業 !
甲子園への実感がさらに高まります。
頑張れ ! 柿田 !
頑張れ ! 松本工業 !
2010/07/25
松本工業と松商
延長10回 6対5 の好試合でした。
全員最後まであきらめず、勝利をものにしました。
松工は決勝まで二回の延長戦をものにして上り詰めてきました。
そして決勝も延長の接戦を制し、甲子園出場をはたしました。
創立以来71年目快挙にいろいろな友人から電話が殺到しました。
『甲子園へ行くぞ !』
延長10回 6対5 の好試合でした。
全員最後まであきらめず、勝利をものにしました。
松工は決勝まで二回の延長戦をものにして上り詰めてきました。
そして決勝も延長の接戦を制し、甲子園出場をはたしました。
創立以来71年目快挙にいろいろな友人から電話が殺到しました。
『甲子園へ行くぞ !』
2010/07/25
松工の甲子園出場を祝う二人
右は柿田くんの育ての親! 寿庄内ジャガーズの青木監督、左は私(会長!)
感激の記念撮影
ヤッター !
撮影は友情応援に来た小田中さんでした。
一緒に喜びをわかちあいました。
右は柿田くんの育ての親! 寿庄内ジャガーズの青木監督、左は私(会長!)
感激の記念撮影
ヤッター !
撮影は友情応援に来た小田中さんでした。
一緒に喜びをわかちあいました。
2010/07/25
我母校、松工が甲子園初出場を決める。
学校創設71年目の快挙となります。
以前より予定していて受講していたセミナーを途中リタイアして球場へ応援に駆けつけました。
松工という事もありますが、私が会長をしているリトルリーグの卒団生、柿田裕太が松工のエース、山田優樹が松商のキャッチャー、として二人の選手が出場しています。
リトルの会長としては、山田くんには申し訳ないが、やはり母校の応援 !!! です!!
小学校からみている、柿田くんや山田くんをみていると、涙が溢れてきます。
白熱した試合
あきらめない
結果は!
松工 頑張りました
延長10回逆転勝利をつかみとりました。
学校創設71年目の快挙となります。
以前より予定していて受講していたセミナーを途中リタイアして球場へ応援に駆けつけました。
松工という事もありますが、私が会長をしているリトルリーグの卒団生、柿田裕太が松工のエース、山田優樹が松商のキャッチャー、として二人の選手が出場しています。
リトルの会長としては、山田くんには申し訳ないが、やはり母校の応援 !!! です!!
小学校からみている、柿田くんや山田くんをみていると、涙が溢れてきます。
白熱した試合
あきらめない
結果は!
松工 頑張りました
延長10回逆転勝利をつかみとりました。
2010/07/24
ロータリークラブも7月から新年度が始まりました。
その空港ロータリークラブのツーリングクラブ“エスカルゴ”の総会でした。
パスト会長の柳沢源内さんも参加して頂き、今年度の計画話に花がさきました。
でっかい話しでは、バイクでアメリカ大陸横断などと、まだまだ夢が広がります。
その空港ロータリークラブのツーリングクラブ“エスカルゴ”の総会でした。
パスト会長の柳沢源内さんも参加して頂き、今年度の計画話に花がさきました。
でっかい話しでは、バイクでアメリカ大陸横断などと、まだまだ夢が広がります。
2010/07/22
アップル車検グループの経営研究会が松本で21日と22日で開催されています。
主に次の世代を担う若者が参加
厳しい時代に会社の方向を決める、次の社長さん達です。
今日、明日と真剣に研修を受け、学んだ事を会社に持ち帰り頑張って仕事に励んで頂きたいと思います。
私も1時間半ほど時間を頂き講演をしました。
居眠りをする人もいず、真剣に聞いてもらい感謝です。
自社と共にアップルグループも皆さん方、二世、三世が引っ張って行って下さい。
写真は研修後の懇親会風景です。
主に次の世代を担う若者が参加
厳しい時代に会社の方向を決める、次の社長さん達です。
今日、明日と真剣に研修を受け、学んだ事を会社に持ち帰り頑張って仕事に励んで頂きたいと思います。
私も1時間半ほど時間を頂き講演をしました。
居眠りをする人もいず、真剣に聞いてもらい感謝です。
自社と共にアップルグループも皆さん方、二世、三世が引っ張って行って下さい。
写真は研修後の懇親会風景です。
2010/07/19
鹿児島県に到着してから県内の四分の一ほど走行しましたので、昨夜の夕食は9時半すぎになりました。
鹿児島名物のあの・・・
《黒豚しゃぶ》
をいただくことにしました。
鹿児島でいただく《黒豚しゃぶ》は今回で二度目になります。
お腹がすいていましたので、新城さんとすぐに乾杯、ガツガツ食べました。
写真も撮らずお見せできません。
美味かった事も上手く伝えることはできませんが・・・
しかし、・・・
ウ マ カ ッ タ ! ! !
鹿児島名物のあの・・・
《黒豚しゃぶ》
をいただくことにしました。
鹿児島でいただく《黒豚しゃぶ》は今回で二度目になります。
お腹がすいていましたので、新城さんとすぐに乾杯、ガツガツ食べました。
写真も撮らずお見せできません。
美味かった事も上手く伝えることはできませんが・・・
しかし、・・・
ウ マ カ ッ タ ! ! !
2010/07/18
鹿児島県阿久根市にある
《A‐Z》 へ
スーパーの集合体
その一部に自動車会社がある
各店舗は計画的に開発されたようでは無く、当初は郊外で90坪程のホームセンターだったが、その後、山をけずり拡大していったようです。
阿久根市の人口は24,000人くらいですので,
近隣30km先位を商圏としているようです。
小さな町にしては凄く大きなショッピングセンターになっています。
計画的な開発ではないためオシャレではない。
しかし・・・でっかい!
《A-Z》 というくらいなので、アルファベットの最初のAから最期のZまで、生活に必要なものは、すべてここで間に合いそうです。
自動車会社もこのショッピングセンターが経営しています。
ここに来るお客様に利用され大繁盛していました。
新城さん、案内ありがとうございました。
《A‐Z》 へ
スーパーの集合体
その一部に自動車会社がある
各店舗は計画的に開発されたようでは無く、当初は郊外で90坪程のホームセンターだったが、その後、山をけずり拡大していったようです。
阿久根市の人口は24,000人くらいですので,
近隣30km先位を商圏としているようです。
小さな町にしては凄く大きなショッピングセンターになっています。
計画的な開発ではないためオシャレではない。
しかし・・・でっかい!
《A-Z》 というくらいなので、アルファベットの最初のAから最期のZまで、生活に必要なものは、すべてここで間に合いそうです。
自動車会社もこのショッピングセンターが経営しています。
ここに来るお客様に利用され大繁盛していました。
新城さん、案内ありがとうございました。
2010/07/18
この、沢山のカメラが武器になります。
その後は考え方です。
連動されたソフトに情報を収集、さらに別の連動された情報を取得して、顧客情報を得る。
仕組みと考え方のコラボ
使い方によっては強烈な武器になります。
また、成功事例が立ち上がってます。
その後は考え方です。
連動されたソフトに情報を収集、さらに別の連動された情報を取得して、顧客情報を得る。
仕組みと考え方のコラボ
使い方によっては強烈な武器になります。
また、成功事例が立ち上がってます。
2010/07/18
千葉県幕張にベンチマーク
《車検ハンター》
といった集客の仕組みを使い、ガソリンスタンドが車検のお客様を獲得
ITカーズ、新城さんに案内して頂き、(株)R&Rの仕組み《ポテンシャル・チェック&アナライズ・システム》を中村さんから説明を受けました。
考え方や仕組みがあるなか、それの、ここまでに至るプロセスを感じとる事が大切です。
そして、その仕組みを使う人の意気込みも必要です。
勉強になりました。
《車検ハンター》
といった集客の仕組みを使い、ガソリンスタンドが車検のお客様を獲得
ITカーズ、新城さんに案内して頂き、(株)R&Rの仕組み《ポテンシャル・チェック&アナライズ・システム》を中村さんから説明を受けました。
考え方や仕組みがあるなか、それの、ここまでに至るプロセスを感じとる事が大切です。
そして、その仕組みを使う人の意気込みも必要です。
勉強になりました。
2010/07/16
保険で特に自動車保険は毎年といっていいくらい内容が変わります。
お客様への説明やもしもの時に、その加入内容によって、サービスや対応のしかたがかわります。
複雑な対応にミスがないよう皆で勉強会です。
東京海上日動さんに講師をお願いしました。
お客様への説明やもしもの時に、その加入内容によって、サービスや対応のしかたがかわります。
複雑な対応にミスがないよう皆で勉強会です。
東京海上日動さんに講師をお願いしました。
2010/07/13
11日に父より、恒例のスタミナドリンクが届いていました。
恒例の“おやじの小言”は短く
『誕生日おめでとう、身体を大切にして、頑張って下さい。おやじより』
でした。
感謝
恒例の“おやじの小言”は短く
『誕生日おめでとう、身体を大切にして、頑張って下さい。おやじより』
でした。
感謝
2010/07/12
未来の乗り物 絵画募集をしたところ
200枚ほどの絵画があつまりました。
優秀作品には、プロの画家が色付けして、額に入れてお返しする予定です。
応募して下さった皆さん、ありがとう !
200枚ほどの絵画があつまりました。
優秀作品には、プロの画家が色付けして、額に入れてお返しする予定です。
応募して下さった皆さん、ありがとう !
2010/07/12
10日、11日
お客様感謝祭にて、ライブ !
なかなか、うまい!
聞き応えのある、ミュージシャン!!
驚き!!
アマチュア、プロなどが参加していただき本格的なライブが催されました。
当社グループ始まっていらいの企画でした。
政揮社長の考案
・・・時代が変わりました。
お客様感謝祭にて、ライブ !
なかなか、うまい!
聞き応えのある、ミュージシャン!!
驚き!!
アマチュア、プロなどが参加していただき本格的なライブが催されました。
当社グループ始まっていらいの企画でした。
政揮社長の考案
・・・時代が変わりました。
2010/07/09
友人の上野有治さんが松本駅前に新店舗の串あげ店
《夢屋》
をオープン
おめでとうございます。
新鮮な食材と、日本全国を巡り、たどり着いた、独自の“タレ”が売り物です。
元気な奥さんや、愛憎のいいスタッフさんをそろえ、店の雰囲気もいい!
もちろん!自慢の串あげも!
美味しいですよ !
《夢屋》
をオープン
おめでとうございます。
新鮮な食材と、日本全国を巡り、たどり着いた、独自の“タレ”が売り物です。
元気な奥さんや、愛憎のいいスタッフさんをそろえ、店の雰囲気もいい!
もちろん!自慢の串あげも!
美味しいですよ !
2010/07/09
東京丸の内で開催されました、アップル車検グループの例会に参加。
車検ボランタリーチェーンのアップルグループは毎月、地域ブロック別の例会が開かれ、グループの方針や実績などを再確認しています。
その中で集客や新技術情報、企業の人事情報まで多岐にわたり、話し合われます。
4時間あまりですが、非常に豊富な情報交換が行われます。
例会終了後には懇親会もありますが、懇親会と言えども地域で活躍している自動車会社の、社長やマネージャーからは、多くの成功事例が聞くことができます。
例会以上に生の情報が飛び交います。
ここで得た情報は持ち帰り、実のある実践をして行きたいものです。
車検ボランタリーチェーンのアップルグループは毎月、地域ブロック別の例会が開かれ、グループの方針や実績などを再確認しています。
その中で集客や新技術情報、企業の人事情報まで多岐にわたり、話し合われます。
4時間あまりですが、非常に豊富な情報交換が行われます。
例会終了後には懇親会もありますが、懇親会と言えども地域で活躍している自動車会社の、社長やマネージャーからは、多くの成功事例が聞くことができます。
例会以上に生の情報が飛び交います。
ここで得た情報は持ち帰り、実のある実践をして行きたいものです。
2010/07/04
村山良治先輩の長野県柔道連盟会長就任祝いの後の二次会。
正式な二次会が市内いたるところで行なわれていましたが、写真の人たちはチョット!イレギュラーで焼き鳥やさんにて!
ほとんどが、柔道のつわもので二次会に行きましたが、ここには矢口さん(写真左)と私以外は柔道家ではありません。
二次会の本流では柔道のつわものが、がブがブお酒が入りますので、ご遠慮して、ささやかに焼き鳥屋さんで余韻を楽しみました。
しかし
初対面のかたもいまして、大変もりあがる事ができました。
☆和田さんはJTB名古屋よりかけつけました。以前、松本勤務の時、醍醐杯でお世話になりました。
☆戸部さんは商工会議所から松本観光コンベション協会に出向しているかたです。醍醐杯は全国より3,000人以上の人が松本にきます。
☆伊藤さんはJTb豊橋から駆けつけました。7年後の諏訪御柱祭の時は松本の所長で戻ってきます。
☆等々力さんは矢口さんの地元の友達で参加しました。
☆永原さんは、誠心館道場後援会の副幹事長です。
矢口さんは、今日の祝賀会の準備から司会まで大変ご苦労様でした。
ありがとうございました。
会社のHPです。
特別企画や特典情報がありますので、のぞいてみてください。
http://www.aruga-g.com/
正式な二次会が市内いたるところで行なわれていましたが、写真の人たちはチョット!イレギュラーで焼き鳥やさんにて!
ほとんどが、柔道のつわもので二次会に行きましたが、ここには矢口さん(写真左)と私以外は柔道家ではありません。
二次会の本流では柔道のつわものが、がブがブお酒が入りますので、ご遠慮して、ささやかに焼き鳥屋さんで余韻を楽しみました。
しかし
初対面のかたもいまして、大変もりあがる事ができました。
☆和田さんはJTB名古屋よりかけつけました。以前、松本勤務の時、醍醐杯でお世話になりました。
☆戸部さんは商工会議所から松本観光コンベション協会に出向しているかたです。醍醐杯は全国より3,000人以上の人が松本にきます。
☆伊藤さんはJTb豊橋から駆けつけました。7年後の諏訪御柱祭の時は松本の所長で戻ってきます。
☆等々力さんは矢口さんの地元の友達で参加しました。
☆永原さんは、誠心館道場後援会の副幹事長です。
矢口さんは、今日の祝賀会の準備から司会まで大変ご苦労様でした。
ありがとうございました。
会社のHPです。
特別企画や特典情報がありますので、のぞいてみてください。
http://www.aruga-g.com/
2010/07/04
村山良治 先輩が 《長野県柔道連盟》の会長に本年度より就任
大変名誉の事として、発起人らが、多くの関係者に案内したところ、160人もの方が集まり、就任祝いを開催されました。
村山良治会長
『若い時、大変お世話になった師匠より
「柔道で成長できた君は、柔道で社会に恩返しをしなさい」
と教えを受けました。その教えを守り、この地に戻り柔道界に貢献してまいりました。』
村山先輩は、
長野県柔道に多大なる貢献をされて、今回、柔道連盟の会長に推挙されました。
特に少年柔道は全国でも下位の成績しかおさめる事が出来なかった子供たちを、常に全国トップの成績を残せるように育て、道場を自費で運営しています。
日本3大少年柔道大会まで成長した《醍醐敏郎杯》を発起人として開催されています。
当時、松本市の体育館は柔道大会が開催できるような施設ではなかったのですが、時の有賀 正市長に陳情、熱意で市長を動かし、体育館に何面も畳がひくことが出来るようになり国際大会も可能な施設に変わらせました。
私も陳情の席に同席しましたが、市長と村山さんとの約束がありました。
『わかった!体育館は柔道が出来るようにする!しかし、約束して欲しい。
やるからには子供達を強くたくましく育ててほしい。
そして、継続してくれ、永く松本の地に教育文化として残してほしい!』
立派に約束を守り、その後、醍醐杯は十数年以上継続されています。長野県柔道は全国のトップレベルまで成長できました。
現在も日の丸を背負って世界で活躍する、教え子が数人います。
立派な人です。後輩としても鼻が高いです。
また、多くを見習わなくてはと思います。
大変名誉の事として、発起人らが、多くの関係者に案内したところ、160人もの方が集まり、就任祝いを開催されました。
村山良治会長
『若い時、大変お世話になった師匠より
「柔道で成長できた君は、柔道で社会に恩返しをしなさい」
と教えを受けました。その教えを守り、この地に戻り柔道界に貢献してまいりました。』
村山先輩は、
長野県柔道に多大なる貢献をされて、今回、柔道連盟の会長に推挙されました。
特に少年柔道は全国でも下位の成績しかおさめる事が出来なかった子供たちを、常に全国トップの成績を残せるように育て、道場を自費で運営しています。
日本3大少年柔道大会まで成長した《醍醐敏郎杯》を発起人として開催されています。
当時、松本市の体育館は柔道大会が開催できるような施設ではなかったのですが、時の有賀 正市長に陳情、熱意で市長を動かし、体育館に何面も畳がひくことが出来るようになり国際大会も可能な施設に変わらせました。
私も陳情の席に同席しましたが、市長と村山さんとの約束がありました。
『わかった!体育館は柔道が出来るようにする!しかし、約束して欲しい。
やるからには子供達を強くたくましく育ててほしい。
そして、継続してくれ、永く松本の地に教育文化として残してほしい!』
立派に約束を守り、その後、醍醐杯は十数年以上継続されています。長野県柔道は全国のトップレベルまで成長できました。
現在も日の丸を背負って世界で活躍する、教え子が数人います。
立派な人です。後輩としても鼻が高いです。
また、多くを見習わなくてはと思います。
2010/07/03
まだ、松本には無い《餃子の王将》へ !
ランチは何処にする !
栃木のこの辺りの名物は、なんだ !
とか、皆で話でいるうちに、餃子の王将が視界に !
あっ !
王将は松本にはまだ無いよ!の会話で、栃木の名物でもない、王将の駐車場へハンドルを切り
いざ、初体験
初めて、“餃子の王将”の餃子ランチをゲット
リーズナブルで腹いっぱい、そして、旨い !
ごちそうさまでした。
ランチは何処にする !
栃木のこの辺りの名物は、なんだ !
とか、皆で話でいるうちに、餃子の王将が視界に !
あっ !
王将は松本にはまだ無いよ!の会話で、栃木の名物でもない、王将の駐車場へハンドルを切り
いざ、初体験
初めて、“餃子の王将”の餃子ランチをゲット
リーズナブルで腹いっぱい、そして、旨い !
ごちそうさまでした。
2010/07/03
群馬県太田市まで来ました。
自動車整備工場がガソリンスタンドを併設している会社をベンチマーク
こ!、これは!、むちゃくちゃでっかい !!
近くのトヨタや日産のディーラーが小粒に見えます。
3,000坪の敷地に自動車の展示場から一般の修理工場と板金塗装工場、ガソリンスタンドがあります。
集客を自動車が使うガソリンから、車検や修理に誘致する“仕組み”を構築して成功している会社です。
もう一社も見学しましたが、そちらは本業のガソリンスタンドから自動車修理工場を展開している会社を見学。
集客方法も“頭に汗”すれば
『打つ手は、無限』
です。
今回は
横浜、ケンテックス・菊池健三社長さんと息子さん、ポイントプランナーの豊岡隆麿社長に案内して頂きました。
自動車整備工場がガソリンスタンドを併設している会社をベンチマーク
こ!、これは!、むちゃくちゃでっかい !!
近くのトヨタや日産のディーラーが小粒に見えます。
3,000坪の敷地に自動車の展示場から一般の修理工場と板金塗装工場、ガソリンスタンドがあります。
集客を自動車が使うガソリンから、車検や修理に誘致する“仕組み”を構築して成功している会社です。
もう一社も見学しましたが、そちらは本業のガソリンスタンドから自動車修理工場を展開している会社を見学。
集客方法も“頭に汗”すれば
『打つ手は、無限』
です。
今回は
横浜、ケンテックス・菊池健三社長さんと息子さん、ポイントプランナーの豊岡隆麿社長に案内して頂きました。
2010/07/02
「生涯取引」
集客、増客理論
西脇 実 氏が大学で説いた理論「生涯取引」を自動車事業で取り組みを始めて、7年が経ちました。
生涯取引=AOS
その、AOS総合研究所が開発した自動車整備工場の車検や保険販売モデルを実施する研究会として発足しました。
自動車関連事業の顧客創造の理論は相互作用の構築とありますが、それは
つまるところ、“仕組み作り”と“人材育成”ですね。
理屈は難しそうですが!、
一番感じた事は、その生涯取引の仕組みも・・・
『社長やマネージャーのリーダーシップしだいで会社の業績は決まります』
東京丸の内にある東京海上日動の本社にて開催され、政揮社長と参加しました。
このAOS会議も当初20社ほどの会員数でしたが、今日は会員150社、関係者を入れると200人を上回る参加になり、大きな勉強会になってきました。
集客、増客理論
西脇 実 氏が大学で説いた理論「生涯取引」を自動車事業で取り組みを始めて、7年が経ちました。
生涯取引=AOS
その、AOS総合研究所が開発した自動車整備工場の車検や保険販売モデルを実施する研究会として発足しました。
自動車関連事業の顧客創造の理論は相互作用の構築とありますが、それは
つまるところ、“仕組み作り”と“人材育成”ですね。
理屈は難しそうですが!、
一番感じた事は、その生涯取引の仕組みも・・・
『社長やマネージャーのリーダーシップしだいで会社の業績は決まります』
東京丸の内にある東京海上日動の本社にて開催され、政揮社長と参加しました。
このAOS会議も当初20社ほどの会員数でしたが、今日は会員150社、関係者を入れると200人を上回る参加になり、大きな勉強会になってきました。
2010/07/02
勉強会の事前資料がA4で10ページほどあります。
当社グループは読書の奨励をして読書感想を書くと奨励金がでるようになっています。
それでも、読まない人は全く読みません。
そんな事もありまして、事前資料はなるべく多くの情報をと思っています。
社員の成長がなによりです。
幸せで豊かな人生を送ってもらいたいものです。
写真手前は今年度の新人3人がいます。
これから、ぐんぐん成長してくれる事をこい願います。
当社グループは読書の奨励をして読書感想を書くと奨励金がでるようになっています。
それでも、読まない人は全く読みません。
そんな事もありまして、事前資料はなるべく多くの情報をと思っています。
社員の成長がなによりです。
幸せで豊かな人生を送ってもらいたいものです。
写真手前は今年度の新人3人がいます。
これから、ぐんぐん成長してくれる事をこい願います。
2010/07/02
平成中村座《佐倉義民傳》
本番前の通し稽古を観てきました。
串田クラブの情報は裏話も!
おもしろい!
☆ 公演を前に、お祓い
わざわざ、佐倉義民傳のモデル地、佐倉より神主を呼び、お祓いをしたそうです。
公営の施設では神社仏閣はタブーなので、メインキャストの中村座が独自に呼んで独自にお祓いをした事になっているそうです。
さすがに、伝統芸の歌舞伎役者さん達ですね。
☆ 市民キャストが演じる「農民」は公募で参加されているそうです。東京などから来ているひとより、松本人の演じる百姓の方が、百姓らしく、いたについているとか!
さすがに、松本市民!田舎者!
☆ 市民キャストの農民役全員に、ただ、舞台上にいるだけではなく、キャスト一人一人にどんな農民なのか、家族構成をはじめ仮想の人生をイメージしたレポートを書いていただき、串田監督に提出してから演劇に参加してもらっているそうです。
そして、舞台上ではその農民になりきり、エキストラであっても仮想の人生を背負いながら演技するそうです。
本格的です
☆ 秋の収穫場面、この時期、稲穂のワラを用意するのは至難の技。
串田さんは、いとも簡単に調達を指示。
周辺スタッフは困るやら!、何となくおかしいやら!
串田さんの人徳がにじみ出ます。
エピソードが浮かびながら観劇するのも、面白いですね。
本番前の通し稽古を観てきました。
串田クラブの情報は裏話も!
おもしろい!
☆ 公演を前に、お祓い
わざわざ、佐倉義民傳のモデル地、佐倉より神主を呼び、お祓いをしたそうです。
公営の施設では神社仏閣はタブーなので、メインキャストの中村座が独自に呼んで独自にお祓いをした事になっているそうです。
さすがに、伝統芸の歌舞伎役者さん達ですね。
☆ 市民キャストが演じる「農民」は公募で参加されているそうです。東京などから来ているひとより、松本人の演じる百姓の方が、百姓らしく、いたについているとか!
さすがに、松本市民!田舎者!
☆ 市民キャストの農民役全員に、ただ、舞台上にいるだけではなく、キャスト一人一人にどんな農民なのか、家族構成をはじめ仮想の人生をイメージしたレポートを書いていただき、串田監督に提出してから演劇に参加してもらっているそうです。
そして、舞台上ではその農民になりきり、エキストラであっても仮想の人生を背負いながら演技するそうです。
本格的です
☆ 秋の収穫場面、この時期、稲穂のワラを用意するのは至難の技。
串田さんは、いとも簡単に調達を指示。
周辺スタッフは困るやら!、何となくおかしいやら!
串田さんの人徳がにじみ出ます。
エピソードが浮かびながら観劇するのも、面白いですね。
2010/07/01
中途採用ですが5月なかばから、F・H・Aつかま工場に新人が入社しました。
右の手前 青木貴弘 くんです皆さん宜しくお願い致します。
↓
経営方針共有勉強会 資料です。
2010年7月1日
有賀 泰治
1、だから縁や運というものは、求める強さ、努力に応じてその人に合ったものがみつかるのではないでしょうか。
よく世間では、私は出逢いがない運がないと嘆く声が聞かれます。
しかし、つめるところ、運や出会いは決して偶然では得られないということがこの言葉に込められています。
どれだけ強い力で求めているのか、どれだけ努力しているのか、まずは自らに問い直してみる
必要があるかもしれません。
『板橋宗興氏の言葉』
お相手は、フジゲン会長の横内祐一郎氏。
対談の中で、横内氏の奇跡のような出会いの回想話より
2、若い人に贈る言葉
学問には、
「志あるを要す、恒(つね)あるを要す、識あるを要す」と。
これは、中国の有名な曾国藩という人の家訓にある言葉です。
① 「志あるを要す」は、
例えば人が歩くときどちらの方に歩くかという方向を決めずに歩くことは不可能だ。まずは自分はどっちに行こうとしているのかを決めるのが肝心。
② 「恒(つね)あるを要す」は、
何でも持続せんといかんということ。
いっぺんやったら事が済んだと思うたらあかんのです。同じことを常に繰り返してやる。
ぼくは書物を読むとき、重要なこと、いいなと思うことは書きながら読む。そして読み終わったときに、書いた紙を見て復元してみるわけです。それを2,3回やると、ほんまのこと覚える。
読んだことを自分の身につけるためには、繰り返さないといかん。そして要約して肝心要のことは頭の中に打ち込んでおく。すると、後でその見出しの部分を打てば、ある程度ぱっと広がって内容が出てくる。これが大事なんです。
③ 「識あるを要す」は
単に分別するということではなくて、価値判断ができなければね。愚にもつかんようなことを一所懸命覚えても何にもならん。知識は断片的では役に立たんのです。
一つの面積、できれば立体的、構造的になるのがよろしい。
自分の持っておる過去の知識体系の中に、それをどのように組み込むかということなんです。
単なる部分は消えてしまうが、全体の中の部分であれば、忘れることはない。
一見、難しいように思えますが……
ただ知識を蓄えるだけでは、単なるもの知りになってしまいます。
その知識の価値判断を身に付けて、知識をうまく使っていきましょう。ということではないでしょうか。
立命館大学名誉教授
白川静氏。
この言葉は白川氏が90歳にして発せられたものです。単に年齢的なものではなく、我こそは青春真っ只中という方に心に留めておいていただき言葉だと思います。
3、「最強棋士の勝負哲学」
①(「プロ棋士に共通する資質はありますか?」の質問を受けて)
やっぱり勝負に対する執念はものすごいですよね。
簡単にいえば「負けず嫌い」。
なんだ、当たり前だと思われるかもしれませんが、僕は「負けず嫌い」にも段階があると思っています。
まずは
「その場だけの負けず嫌い」。
勝負の世界に限らず、負けるのが好きという人はそうそういませんから、やはりやるからには当然勝利を目指すわけです。
しかし、それがその場限りのものであっては「負けず嫌い」とはいえないと思うんですね。
自分が勝ちたい、もっとうまくなりたいと思ったら、練習を積んだり体調を整えたり準備をするはず。
これが次の段階です。
趣味で取り組んでいるものであれば、正しい努力と準備を行っていけば、相当のレベルにまで到達すると思います。
しかし、「真の負けず嫌い」は、さらにもう一段階上じゃないかなと。
それは
「自分の人生のすべてを賭けて」
という部分が加わってくると思うんです。
一道を極めている人は、必ずどこかの時期でこの経験をしていると思います。
囲碁のように白黒はっきりつく勝負の世界に限らず、事業家でも芸術家でも、どこかで人生を賭けた大一番の勝負をしているはずです。
一度は寝食を忘れ、すべてを注ぎ込む時期を経ない限り、道はひらけていかないと思います。
②「どんな時でもいい加減な碁は打たない」「囲碁にマイナスになることはしない」 という、自分が決めたルールを守っています。
些細なことですが、しかしその些細なことの積み重ねが、プレッシャーのかかる場面で自分自身を支える力になっているように思います。
張栩(囲碁棋士)
『致知』2010年7月号
特集「道をつくる」より
4、「善因善果」
お釈迦様に弟子の阿難尊者が、「善き友を持てば、仏道修行を半ばは成就したことになると思いますが、いかがでしょうか」と尋ねたところ、お釈迦様は、
「それは違う。仏道修行のすべてである」とお答えになったという逸話があります。
私は来年米寿を迎えますが、きょうまでの紆余曲折の人生を振り返れば、このお釈迦様の教えに深い共感を覚えずにおられません。
善き友に恵まれるか否かは人生の幸、不幸を大きく左右することを実感しています。
私は東部軍官区司令部参謀部の中尉として終戦を迎え、戦前に勤めていた銀行に戻った後、昭和二十三年に独立。東京で商売を始めました。
最初は、故郷栃木の名産である下駄を扱いましたが、あえなく失敗。商売の厳しさを実感した私は、捲土重来を期して、昭和三十四年に新宿の小滝橋でレンタカー業を始めました。
自動車教習所近くの好立地で営業したことと、他社の扱う車がほとんど中古車であった中で、新車をズラリと揃えたことが評判となり、業界二位へと急成長を遂げました。
景気の雲行きは、東京オリンピックを過ぎたあたりから怪しくなりました。
いずれ大手自動車メーカーもこの事業に参入してくると予測した私は、昭和四十二年に自動車用品販売業へと転身を図りました。
他社が千円で売っている商品を九百八十円で、二千円で売っている商品を千九百八十円で売る私の安売り商法は、業界の枠を超え、いまでは小売りの常識となっていますが、この商法によって会社は再び大きな収益を上げるようになったのです。
とはいえ、必ずしも商売は順風満帆ではありませんでした。昭和三十二年には資金繰りの目処が立たなくなり、このまま行けば不渡りを出すところまで追い詰められました。
お金の手立ては前日になってもつきません。どうせ裸で東京に出てきたんだ。会社がダメになったからといっても、またもとの裸に戻るだけだ――。
私は腹を括りました。
ところがその日の夜八時、突然に昔の友人から電話がかかってきたのです。
浅草から故郷の足利へ戻ることになったので、その前にどうしてもおまえに会いたいとのこと。
彼の声を聞くのは実に十年ぶりのことでした。
私はすぐに車で迎えに行き、時のたつのも忘れて積もる話に花を咲かせました。
夜も白々と明ける頃、そろそろ送ろうか、と切り出すと、彼はおもむろに預金通帳と印鑑を私に差し出して言いました。
「これを使っておけ」
その口座には、何と五十万円もの大金が入っていました。
私は彼を見送った後、すぐに銀行に駆け込み、何とか不渡りを出さずに済みました。
支払期限の二時間前でした。
何とも不思議な体験でした。
電話がかかってくるまで十年間、私は彼とは一度も連絡を取っていませんでした。彼と話をしている間も、お金で困っていることなどひと言も言っていません。
後に彼と思い出話をする中で、当時のお礼を改めてすると、
「それはおまえのおかげだ」
と彼は逆に私に感謝するのです。すっかり忘れていましたが、私は戦時中に、米軍の上陸を想定して水戸郊外で塹壕掘りをしていた彼の部隊を見舞ったことがありました。
司令部参謀部という軍の枢要にいる私と彼が親しいことを知ったその部隊の隊長は、彼を当番に命じました。
それによって過酷な労働から解放され、快適な旅館住まいをさせてもらった恩を、彼はずっと忘れなかったというのです。
善因善果、善きことをすれば善きことが返ってくる。
そしてその積み重ねが、善き友に恵まれ、自分の運命を大きく開くことにも繋がってくる。
若き頃より『法華経』に帰依していた私は、この体験を通じて、お釈迦様の教えの尊さを実感しました。
善因善果を実感する体験は、これまで数限りなくありますが、もう一つここでご紹介しておきたい話があります。
私の少年時代は劣悪な栄養事情のせいもあり、五人いたきょうだいの三人が次々と病没。
私も商業学校に通っていた頃、腎臓を患いました。
前年、弟が腎臓病で急死したこともあり、私の発病を知った両親の悲しみはたとえようもありませんでした。
その姿を見るに忍びなく、私は病気は治ったと嘘をつき、親が亡くなるまで二十五年間、医者にかかることも、薬をのむこともせず病気を隠し通しました。
結局、昭和三十四年に左の腎臓を摘出しましたが、そのため背中に大きな傷跡が残りました。
ところがこの大きな傷が、私の四人の子どもに対する何よりの教育になったのです。
彼らは、こんな体になってまで家庭を必死で支える父親に対して、少しでも報いてゆきたいと、子どもながらに思ったのでしょう。
家計の苦しい時も一切愚痴を言うことなく、大した教育環境を与えてやることもできませんでしたが、学校では皆トップレベルの優秀な成績を収め、耳鼻咽喉科医師、眼科医師、薬剤師、音楽教諭としてそれぞれに活躍しています。
子どもたちがいつも私の体を気遣ってくれるおかげで、片腎できょうまで元気に過ごすことができました。
優しい子どもたちに囲まれ、いまは幸せを噛み締めて毎日を過ごしています。
これも親を思い、我慢を貫き通した私に対する天のご褒美と受け止め、辛かった病気に心から感謝をしています。
先日、長年続けてきた寄付活動に対して、日本赤十字社より表彰状、及び有功章を賜りました。
人間がこの世に生まれてきた目的は、少しでも世のため、人のためお役に立つことです。
この本来の目的から離れることなく、私はこれからもできる限りの善根を積んで、善きご縁を結んでまいりたいと思います。
出井弘八(いでい・こうはち=セイワみずほ相談役)
『致知』2008年12月号「致知随想」
※肩書きは『致知』掲載当時のものです
5、「躾の三か条」(森信三先生)
家庭教育は具体的に何をすればよいのでしょうか。
その根本はまず「躾」から始まり、これが人間教育のスタートとなります。
森信三先生は、躾の根本は三つの事柄を徹底させればよい、この三つの躾を真に徹底すれば、それだけで人間としての軌道に乗るとおっしゃっています。
これが有名な「躾の三か条」です。
第一、朝必ず親にあいさつをする子にすること
第二、親に呼ばれたら必ず、
「ハイ」とはっきり返事のできる子にすること
第三、履物を脱いだら必ずそろえ、
席を立ったら必ずイスを入れる子にすること
平凡な、分かり切ったことと思われるかもしれませんが、
そこに実に深い意味があるのです。
* *
朝の挨拶によって前向きな姿勢が、「ハイ」という返事で素直さが養われます。
コップの口が下向きになっていたのでは水を注ぐことができません。上向きにすることで入っていきます。
子供の我を取り、上向きのコップのように前向きで素直な心を養うのが、挨拶と「ハイ」の返事なのです。
そして履物を揃え、イスを入れる習慣を身につけることで、人生でも仕事でも大切な、後始末のしっかりできる子になるのです。
心得ておかなければならないのは、躾はお説教では決して身につかないということです。
森先生は、ではどうすればいいのかという具体的な着手点まで落とし込んで教えてくださっています。
挨拶をする子にするためには、まず母親から我が子に挨拶をすることです。
こちらから「おはようございます」と言えば、子供も「おはようございます」と応えます。
最初は子供も面食らい、ボソボソとした挨拶しか返ってこないかもしれません。それでも母親が笑顔を絶やさず、根気よく続けていくうちに、しっかりとした挨拶が返ってくるようになるのです。
「挨拶をしなさい」と何回言っても身につきませんが、こちらから具体的な行動を毎日投げ掛けることで、子供もそれに応じ、それが習慣となるのです。
「ハイ」の返事を躾けるにはどうしたらよいか。それにはまず母親が、ご主人に呼ばれたら必ず「ハイ」とはっきりした返事をするよう努めることです。
子供は母親の様子をしっかりと見ています。母親が父親の呼び掛けにいつも素直に応じる姿を見れば、子供も返事の大切さを実感してそれに倣うようになるのです。自ら模範を見せることの大切さは、
履物を揃えること、イスを入れることについてもいえます。
躾にも適期があり、できればこの三つの躾を、小学校へ入学するまでに身につけさせたいものです。
寺田一清(不尽叢書刊行会代表)
『致知』2010年4月号
特集「発展繁栄の法則」より
6、
憎しみというのは 自分自身への批判だと私は考えます。
誰かを憎むということは 自分自身を批判していることになり、その人自身を停滞させてしまいます。
イハレアカラ・ヒューレン(心理学博士)
『致知』2010年7月号
特集「道をつくる」
7、男が我が子に遺すべきものは、お金ではありません。
自分の生き方です。生き方の流儀こそが何よりの遺産となるのです。
国民教育の師父と謳われた教育者・森信三師に仕えた寺田一清氏。森師の教育哲学の伝道者として、日本の教育再建に奔走されています。
寺田氏いわく、
森師は「家庭は人間形成の道場」と喝破され、子供の教育においては、何より家庭が重要であることを説かれています。
父親の権威が失墜し、家庭崩壊の進むいまでは、男は家庭でどんな役割を担うべきでしょうか。
森師が説かれる父親の役割は、自分の人生観にもとづいて人間としての生き方の方向を示すこと、子供に生き方の種まきをするところにあるとのことです。
子供は、親の言うとおりにはしないけれども、親がするようにはする、ともいわれます。父親はガミガミとお説教をする以上に、自分自身が一人の人間としてどう生きるか、日々どんな姿勢で歩んでいるかが大事です。
ご参考までに、寺田先生が実践しておられる日常実践の5か条をご紹介します。
あ: あかるいあいさつ 人より先に
す: スマイル楽し 而今(にこん)ニコニコ
こ: こしぼね立てて 行事一貫
そ: そうじの偉力 身心浄化
は: はがき一枚 縁の花咲く
日々の実践を通じて、子供によき影響を与えてゆける人間でありたいものです。
寺田一清(不尽叢書刊行会代表)
8、「成功者の習慣」
毎朝目が覚める時に、 私に奇跡が起きた!
子どもにも孫にも奇跡が起きた!
そう思ってお日様に「バンザーイ」と万歳三唱をして、
「ありがとうございます」と合掌することから
一日をスタートさせる
吉丸房江氏(健康道場・コスモポート主宰)
9、「岡田武史監督の勝負哲学」 監督の仕事とは、つまるところ決断
中田英寿が代表の時、僕の打ち出した方針に対して「いや自分はこういうサッカーをやりたい」と言ってきました。
「分かった。ただ、俺は監督として全責任を負ってこういうサッカーをやる。おまえに力があることは分かっているから、従ってくれたら嬉しい。だが、おまえがどうしても納得できないというのであれば、残念だが諦めるから出て行ってくれ」
というスタンスで話しました。その時、肩を叩いて
「頼むからやってくれ」
とやったら、これはチームにならないんですね。
僕らの仕事は決断なんです。
で、正解がないんですよ。この手を使うか、それとも別の手を使うか。こっちを使えば勝率何%って絶対でないです。しかし、だからって最初から感覚でやると大体失敗します。とことん苦しんで考え抜かないといけない。こうしたらどうだろう。相手がこう 来たらどうしよう。
でも、最後はどこかでエイヤッと決断しなきゃいけない。
その時、メチャクチャ勇気が要るわけですよ。全責任を負って一人で決めなきゃいけない。やっぱり孤独で怖いですよ。
そのエイヤッが外れた時は惨めですからね。しかしこのエイヤッができないと、チームがズルズルと負けに向かっていってしまう。最後の最後の勝負どころなんです。
先発に誰を選んで、どんな作戦をしいて、途中には誰と誰を交代させて……。
監督をはじめ、あらゆる職業においてリーダーの仕事とは決断すること、と言ってもいいかもしれません。
10、森信三師の特集
① 真に生き甲斐のある人生の生き方とは、つねに自己に与えられているマイナス面を、プラスに反転させて生きることである
② 人間は自己に与えられた条件をギリギリまで生かすという事が、人生の生き方の最大最深の秘訣
③ 人間は、進歩か退歩かの何れかであって、その中間はない。現状維持と思うのは、じつは退歩している証拠である
④ 縁は求めざるには生ぜず。
内に求める心なくんば、たとえその人の面前にありとも、ついに縁を生ずるに到らずと知るべし
⑤ 物にもたれる人間は、やがて人にもたれる人間になる。
そして人にもたれる人間は、結局世の中を甘く見る人間になる
11、6月に出会った言葉
① 物をはかるは、物差し。心をはかるは、志。
佐々木将人(合氣道師範)
② 志の高さとは、自分の努力によって幸せにできる人の数
西田文郎(サンリ会長)
③ 毎朝歯を磨くように、心構えも毎朝磨き直さなければならない
田中真澄(社会教育家)
12、難病と闘う子どもたちの夢を叶える
メイク・ア・ウィッシュは「願いごとをする」という意味で、難病と闘う子どもたちの夢や願いをかなえるため、昭和55年にアメリカで設立された国際的なボランティア団体です。
私が活動に参加した平成6年は、東京に事務局ができたばかりの開拓期でしたが、いまや登録ボランティアの方の数も、800人を数えるまでになりました。
ムコ多糖症という病気にかかっていた正平君という子がいました。
全国でも70人しかいないという難病で、血液中の老廃物がたまって脳を圧迫するために、
徐々に人間的な感情がなくなり、言葉を忘れ、コミュニケーションがとれなくなるのです。
ところが正ちゃんは、
「イルカと遊びたい」
という願いをかなえていく中で、言葉をどんどん取り戻していったのです。
もっと感動的だったのは、その日は正ちゃんの誕生日だったので、みんなで誕生パーティーをしたんです。
それまでは誕生日がくるたびに病気が進むから、お母さんはとてもお祝いなんかする気になれなかったそうなんです。
でもみんなで
「おめでとう!」
って言ったら、正ちゃんは嬉し涙をポロポロと流して、
「ありがとう」
って言ってくれたんですよ。本当にびっくりして、みんな胸がキュンとしました。
また、すべての子がそうなるわけではありませんが、あと数日しか持たないと言われた子が、持ち直すことだってあるんですよ。
雄貴君は、ウェルドニッヒホフマン病にかかって、自力で呼吸することができず、まばたきが唯一の表現手段でした。
彼の願いは、
「ウルトラマンと一緒に戦いたい」
というものでした。
そこで、岐阜から熊本にあるテーマパークまで行き、雄貴君のための特別台車でウルトラマンと怪獣が闘い、雄貴君も一緒に目で闘ったんです。
そして怪獣をやっつけたウルトラマンから、
「雄貴君、君のおかげで怪獣を倒すことができた」
と言ってもらったんです。雄貴君は生後1か月で人工呼吸器を付けることになったのですが、その呼吸器になかなか慣れずに苦しんでいる姿を見てお母さんは、このまま生きていくことがこの子にとって本当に幸せなことなのかって、すごく悩んでいたそうなんです。
だけどそのとき
「雄貴、生きててよかったね。 こんなに嬉しいことがあるんだもの」
って涙ながらにおっしゃったんですね。
その直後、雄貴君は一時生死の境をさまよいました。
そのときお父さんは思わず、
「雄貴、今度はお前が ウルトラマンからパワーをもらえ!」
と叫んだんです。
そうしたら何と、雄貴君は奇跡的に危篤状態を脱したんです。
あるお母さんから、
「いままで、子どもと自分たちだけが病気と闘っているような気でいましたが、たくさんの人が応援してくれていることに気づいて、すごく嬉しく思いました」
と、ボランティア冥利に尽きるような言葉を頂きました。そのときは、飛び上がるくらい嬉しかった。
そんな言葉を頂けるのも、1人ひとりを大切にしているからだと思うんです。私たちは、毎回たった1人のために、多くの方々から頂いた支援金を使わせていただいて、願いをかなえるお手伝いをしているのです。でも、そんなお金があるなら、もっとたくさんの子にいろんなことができる、と言われることもあるんですね。
確かに、何百人もホールに集めて
「みんな頑張れよ」
とやったほうが効率はいいでしょう。
でも、自分1人のために
「○○ちゃん、頑張れよ」
と言ってくれたら、重みがまったく違うんです。
だからこそ、奇跡を起こすほどの喜びも生まれるし、それに接した周りの人間がものすごいエネルギーをもらえるんです。
結局、与えられることのほうがずっと多いんです。願いがかなって喜ぶ子どもたちの笑顔や、ときには奇跡のような出来事に接することで、ものすごくエネルギーをもらえるんですよ。
ボランティアの人がこの仕事にのめり込んでいくのも、そこなんです。
ボランティア団体、
メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン事務局長、
大野寿子さんの記事
右の手前 青木貴弘 くんです皆さん宜しくお願い致します。
↓
経営方針共有勉強会 資料です。
2010年7月1日
有賀 泰治
1、だから縁や運というものは、求める強さ、努力に応じてその人に合ったものがみつかるのではないでしょうか。
よく世間では、私は出逢いがない運がないと嘆く声が聞かれます。
しかし、つめるところ、運や出会いは決して偶然では得られないということがこの言葉に込められています。
どれだけ強い力で求めているのか、どれだけ努力しているのか、まずは自らに問い直してみる
必要があるかもしれません。
『板橋宗興氏の言葉』
お相手は、フジゲン会長の横内祐一郎氏。
対談の中で、横内氏の奇跡のような出会いの回想話より
2、若い人に贈る言葉
学問には、
「志あるを要す、恒(つね)あるを要す、識あるを要す」と。
これは、中国の有名な曾国藩という人の家訓にある言葉です。
① 「志あるを要す」は、
例えば人が歩くときどちらの方に歩くかという方向を決めずに歩くことは不可能だ。まずは自分はどっちに行こうとしているのかを決めるのが肝心。
② 「恒(つね)あるを要す」は、
何でも持続せんといかんということ。
いっぺんやったら事が済んだと思うたらあかんのです。同じことを常に繰り返してやる。
ぼくは書物を読むとき、重要なこと、いいなと思うことは書きながら読む。そして読み終わったときに、書いた紙を見て復元してみるわけです。それを2,3回やると、ほんまのこと覚える。
読んだことを自分の身につけるためには、繰り返さないといかん。そして要約して肝心要のことは頭の中に打ち込んでおく。すると、後でその見出しの部分を打てば、ある程度ぱっと広がって内容が出てくる。これが大事なんです。
③ 「識あるを要す」は
単に分別するということではなくて、価値判断ができなければね。愚にもつかんようなことを一所懸命覚えても何にもならん。知識は断片的では役に立たんのです。
一つの面積、できれば立体的、構造的になるのがよろしい。
自分の持っておる過去の知識体系の中に、それをどのように組み込むかということなんです。
単なる部分は消えてしまうが、全体の中の部分であれば、忘れることはない。
一見、難しいように思えますが……
ただ知識を蓄えるだけでは、単なるもの知りになってしまいます。
その知識の価値判断を身に付けて、知識をうまく使っていきましょう。ということではないでしょうか。
立命館大学名誉教授
白川静氏。
この言葉は白川氏が90歳にして発せられたものです。単に年齢的なものではなく、我こそは青春真っ只中という方に心に留めておいていただき言葉だと思います。
3、「最強棋士の勝負哲学」
①(「プロ棋士に共通する資質はありますか?」の質問を受けて)
やっぱり勝負に対する執念はものすごいですよね。
簡単にいえば「負けず嫌い」。
なんだ、当たり前だと思われるかもしれませんが、僕は「負けず嫌い」にも段階があると思っています。
まずは
「その場だけの負けず嫌い」。
勝負の世界に限らず、負けるのが好きという人はそうそういませんから、やはりやるからには当然勝利を目指すわけです。
しかし、それがその場限りのものであっては「負けず嫌い」とはいえないと思うんですね。
自分が勝ちたい、もっとうまくなりたいと思ったら、練習を積んだり体調を整えたり準備をするはず。
これが次の段階です。
趣味で取り組んでいるものであれば、正しい努力と準備を行っていけば、相当のレベルにまで到達すると思います。
しかし、「真の負けず嫌い」は、さらにもう一段階上じゃないかなと。
それは
「自分の人生のすべてを賭けて」
という部分が加わってくると思うんです。
一道を極めている人は、必ずどこかの時期でこの経験をしていると思います。
囲碁のように白黒はっきりつく勝負の世界に限らず、事業家でも芸術家でも、どこかで人生を賭けた大一番の勝負をしているはずです。
一度は寝食を忘れ、すべてを注ぎ込む時期を経ない限り、道はひらけていかないと思います。
②「どんな時でもいい加減な碁は打たない」「囲碁にマイナスになることはしない」 という、自分が決めたルールを守っています。
些細なことですが、しかしその些細なことの積み重ねが、プレッシャーのかかる場面で自分自身を支える力になっているように思います。
張栩(囲碁棋士)
『致知』2010年7月号
特集「道をつくる」より
4、「善因善果」
お釈迦様に弟子の阿難尊者が、「善き友を持てば、仏道修行を半ばは成就したことになると思いますが、いかがでしょうか」と尋ねたところ、お釈迦様は、
「それは違う。仏道修行のすべてである」とお答えになったという逸話があります。
私は来年米寿を迎えますが、きょうまでの紆余曲折の人生を振り返れば、このお釈迦様の教えに深い共感を覚えずにおられません。
善き友に恵まれるか否かは人生の幸、不幸を大きく左右することを実感しています。
私は東部軍官区司令部参謀部の中尉として終戦を迎え、戦前に勤めていた銀行に戻った後、昭和二十三年に独立。東京で商売を始めました。
最初は、故郷栃木の名産である下駄を扱いましたが、あえなく失敗。商売の厳しさを実感した私は、捲土重来を期して、昭和三十四年に新宿の小滝橋でレンタカー業を始めました。
自動車教習所近くの好立地で営業したことと、他社の扱う車がほとんど中古車であった中で、新車をズラリと揃えたことが評判となり、業界二位へと急成長を遂げました。
景気の雲行きは、東京オリンピックを過ぎたあたりから怪しくなりました。
いずれ大手自動車メーカーもこの事業に参入してくると予測した私は、昭和四十二年に自動車用品販売業へと転身を図りました。
他社が千円で売っている商品を九百八十円で、二千円で売っている商品を千九百八十円で売る私の安売り商法は、業界の枠を超え、いまでは小売りの常識となっていますが、この商法によって会社は再び大きな収益を上げるようになったのです。
とはいえ、必ずしも商売は順風満帆ではありませんでした。昭和三十二年には資金繰りの目処が立たなくなり、このまま行けば不渡りを出すところまで追い詰められました。
お金の手立ては前日になってもつきません。どうせ裸で東京に出てきたんだ。会社がダメになったからといっても、またもとの裸に戻るだけだ――。
私は腹を括りました。
ところがその日の夜八時、突然に昔の友人から電話がかかってきたのです。
浅草から故郷の足利へ戻ることになったので、その前にどうしてもおまえに会いたいとのこと。
彼の声を聞くのは実に十年ぶりのことでした。
私はすぐに車で迎えに行き、時のたつのも忘れて積もる話に花を咲かせました。
夜も白々と明ける頃、そろそろ送ろうか、と切り出すと、彼はおもむろに預金通帳と印鑑を私に差し出して言いました。
「これを使っておけ」
その口座には、何と五十万円もの大金が入っていました。
私は彼を見送った後、すぐに銀行に駆け込み、何とか不渡りを出さずに済みました。
支払期限の二時間前でした。
何とも不思議な体験でした。
電話がかかってくるまで十年間、私は彼とは一度も連絡を取っていませんでした。彼と話をしている間も、お金で困っていることなどひと言も言っていません。
後に彼と思い出話をする中で、当時のお礼を改めてすると、
「それはおまえのおかげだ」
と彼は逆に私に感謝するのです。すっかり忘れていましたが、私は戦時中に、米軍の上陸を想定して水戸郊外で塹壕掘りをしていた彼の部隊を見舞ったことがありました。
司令部参謀部という軍の枢要にいる私と彼が親しいことを知ったその部隊の隊長は、彼を当番に命じました。
それによって過酷な労働から解放され、快適な旅館住まいをさせてもらった恩を、彼はずっと忘れなかったというのです。
善因善果、善きことをすれば善きことが返ってくる。
そしてその積み重ねが、善き友に恵まれ、自分の運命を大きく開くことにも繋がってくる。
若き頃より『法華経』に帰依していた私は、この体験を通じて、お釈迦様の教えの尊さを実感しました。
善因善果を実感する体験は、これまで数限りなくありますが、もう一つここでご紹介しておきたい話があります。
私の少年時代は劣悪な栄養事情のせいもあり、五人いたきょうだいの三人が次々と病没。
私も商業学校に通っていた頃、腎臓を患いました。
前年、弟が腎臓病で急死したこともあり、私の発病を知った両親の悲しみはたとえようもありませんでした。
その姿を見るに忍びなく、私は病気は治ったと嘘をつき、親が亡くなるまで二十五年間、医者にかかることも、薬をのむこともせず病気を隠し通しました。
結局、昭和三十四年に左の腎臓を摘出しましたが、そのため背中に大きな傷跡が残りました。
ところがこの大きな傷が、私の四人の子どもに対する何よりの教育になったのです。
彼らは、こんな体になってまで家庭を必死で支える父親に対して、少しでも報いてゆきたいと、子どもながらに思ったのでしょう。
家計の苦しい時も一切愚痴を言うことなく、大した教育環境を与えてやることもできませんでしたが、学校では皆トップレベルの優秀な成績を収め、耳鼻咽喉科医師、眼科医師、薬剤師、音楽教諭としてそれぞれに活躍しています。
子どもたちがいつも私の体を気遣ってくれるおかげで、片腎できょうまで元気に過ごすことができました。
優しい子どもたちに囲まれ、いまは幸せを噛み締めて毎日を過ごしています。
これも親を思い、我慢を貫き通した私に対する天のご褒美と受け止め、辛かった病気に心から感謝をしています。
先日、長年続けてきた寄付活動に対して、日本赤十字社より表彰状、及び有功章を賜りました。
人間がこの世に生まれてきた目的は、少しでも世のため、人のためお役に立つことです。
この本来の目的から離れることなく、私はこれからもできる限りの善根を積んで、善きご縁を結んでまいりたいと思います。
出井弘八(いでい・こうはち=セイワみずほ相談役)
『致知』2008年12月号「致知随想」
※肩書きは『致知』掲載当時のものです
5、「躾の三か条」(森信三先生)
家庭教育は具体的に何をすればよいのでしょうか。
その根本はまず「躾」から始まり、これが人間教育のスタートとなります。
森信三先生は、躾の根本は三つの事柄を徹底させればよい、この三つの躾を真に徹底すれば、それだけで人間としての軌道に乗るとおっしゃっています。
これが有名な「躾の三か条」です。
第一、朝必ず親にあいさつをする子にすること
第二、親に呼ばれたら必ず、
「ハイ」とはっきり返事のできる子にすること
第三、履物を脱いだら必ずそろえ、
席を立ったら必ずイスを入れる子にすること
平凡な、分かり切ったことと思われるかもしれませんが、
そこに実に深い意味があるのです。
* *
朝の挨拶によって前向きな姿勢が、「ハイ」という返事で素直さが養われます。
コップの口が下向きになっていたのでは水を注ぐことができません。上向きにすることで入っていきます。
子供の我を取り、上向きのコップのように前向きで素直な心を養うのが、挨拶と「ハイ」の返事なのです。
そして履物を揃え、イスを入れる習慣を身につけることで、人生でも仕事でも大切な、後始末のしっかりできる子になるのです。
心得ておかなければならないのは、躾はお説教では決して身につかないということです。
森先生は、ではどうすればいいのかという具体的な着手点まで落とし込んで教えてくださっています。
挨拶をする子にするためには、まず母親から我が子に挨拶をすることです。
こちらから「おはようございます」と言えば、子供も「おはようございます」と応えます。
最初は子供も面食らい、ボソボソとした挨拶しか返ってこないかもしれません。それでも母親が笑顔を絶やさず、根気よく続けていくうちに、しっかりとした挨拶が返ってくるようになるのです。
「挨拶をしなさい」と何回言っても身につきませんが、こちらから具体的な行動を毎日投げ掛けることで、子供もそれに応じ、それが習慣となるのです。
「ハイ」の返事を躾けるにはどうしたらよいか。それにはまず母親が、ご主人に呼ばれたら必ず「ハイ」とはっきりした返事をするよう努めることです。
子供は母親の様子をしっかりと見ています。母親が父親の呼び掛けにいつも素直に応じる姿を見れば、子供も返事の大切さを実感してそれに倣うようになるのです。自ら模範を見せることの大切さは、
履物を揃えること、イスを入れることについてもいえます。
躾にも適期があり、できればこの三つの躾を、小学校へ入学するまでに身につけさせたいものです。
寺田一清(不尽叢書刊行会代表)
『致知』2010年4月号
特集「発展繁栄の法則」より
6、
憎しみというのは 自分自身への批判だと私は考えます。
誰かを憎むということは 自分自身を批判していることになり、その人自身を停滞させてしまいます。
イハレアカラ・ヒューレン(心理学博士)
『致知』2010年7月号
特集「道をつくる」
7、男が我が子に遺すべきものは、お金ではありません。
自分の生き方です。生き方の流儀こそが何よりの遺産となるのです。
国民教育の師父と謳われた教育者・森信三師に仕えた寺田一清氏。森師の教育哲学の伝道者として、日本の教育再建に奔走されています。
寺田氏いわく、
森師は「家庭は人間形成の道場」と喝破され、子供の教育においては、何より家庭が重要であることを説かれています。
父親の権威が失墜し、家庭崩壊の進むいまでは、男は家庭でどんな役割を担うべきでしょうか。
森師が説かれる父親の役割は、自分の人生観にもとづいて人間としての生き方の方向を示すこと、子供に生き方の種まきをするところにあるとのことです。
子供は、親の言うとおりにはしないけれども、親がするようにはする、ともいわれます。父親はガミガミとお説教をする以上に、自分自身が一人の人間としてどう生きるか、日々どんな姿勢で歩んでいるかが大事です。
ご参考までに、寺田先生が実践しておられる日常実践の5か条をご紹介します。
あ: あかるいあいさつ 人より先に
す: スマイル楽し 而今(にこん)ニコニコ
こ: こしぼね立てて 行事一貫
そ: そうじの偉力 身心浄化
は: はがき一枚 縁の花咲く
日々の実践を通じて、子供によき影響を与えてゆける人間でありたいものです。
寺田一清(不尽叢書刊行会代表)
8、「成功者の習慣」
毎朝目が覚める時に、 私に奇跡が起きた!
子どもにも孫にも奇跡が起きた!
そう思ってお日様に「バンザーイ」と万歳三唱をして、
「ありがとうございます」と合掌することから
一日をスタートさせる
吉丸房江氏(健康道場・コスモポート主宰)
9、「岡田武史監督の勝負哲学」 監督の仕事とは、つまるところ決断
中田英寿が代表の時、僕の打ち出した方針に対して「いや自分はこういうサッカーをやりたい」と言ってきました。
「分かった。ただ、俺は監督として全責任を負ってこういうサッカーをやる。おまえに力があることは分かっているから、従ってくれたら嬉しい。だが、おまえがどうしても納得できないというのであれば、残念だが諦めるから出て行ってくれ」
というスタンスで話しました。その時、肩を叩いて
「頼むからやってくれ」
とやったら、これはチームにならないんですね。
僕らの仕事は決断なんです。
で、正解がないんですよ。この手を使うか、それとも別の手を使うか。こっちを使えば勝率何%って絶対でないです。しかし、だからって最初から感覚でやると大体失敗します。とことん苦しんで考え抜かないといけない。こうしたらどうだろう。相手がこう 来たらどうしよう。
でも、最後はどこかでエイヤッと決断しなきゃいけない。
その時、メチャクチャ勇気が要るわけですよ。全責任を負って一人で決めなきゃいけない。やっぱり孤独で怖いですよ。
そのエイヤッが外れた時は惨めですからね。しかしこのエイヤッができないと、チームがズルズルと負けに向かっていってしまう。最後の最後の勝負どころなんです。
先発に誰を選んで、どんな作戦をしいて、途中には誰と誰を交代させて……。
監督をはじめ、あらゆる職業においてリーダーの仕事とは決断すること、と言ってもいいかもしれません。
10、森信三師の特集
① 真に生き甲斐のある人生の生き方とは、つねに自己に与えられているマイナス面を、プラスに反転させて生きることである
② 人間は自己に与えられた条件をギリギリまで生かすという事が、人生の生き方の最大最深の秘訣
③ 人間は、進歩か退歩かの何れかであって、その中間はない。現状維持と思うのは、じつは退歩している証拠である
④ 縁は求めざるには生ぜず。
内に求める心なくんば、たとえその人の面前にありとも、ついに縁を生ずるに到らずと知るべし
⑤ 物にもたれる人間は、やがて人にもたれる人間になる。
そして人にもたれる人間は、結局世の中を甘く見る人間になる
11、6月に出会った言葉
① 物をはかるは、物差し。心をはかるは、志。
佐々木将人(合氣道師範)
② 志の高さとは、自分の努力によって幸せにできる人の数
西田文郎(サンリ会長)
③ 毎朝歯を磨くように、心構えも毎朝磨き直さなければならない
田中真澄(社会教育家)
12、難病と闘う子どもたちの夢を叶える
メイク・ア・ウィッシュは「願いごとをする」という意味で、難病と闘う子どもたちの夢や願いをかなえるため、昭和55年にアメリカで設立された国際的なボランティア団体です。
私が活動に参加した平成6年は、東京に事務局ができたばかりの開拓期でしたが、いまや登録ボランティアの方の数も、800人を数えるまでになりました。
ムコ多糖症という病気にかかっていた正平君という子がいました。
全国でも70人しかいないという難病で、血液中の老廃物がたまって脳を圧迫するために、
徐々に人間的な感情がなくなり、言葉を忘れ、コミュニケーションがとれなくなるのです。
ところが正ちゃんは、
「イルカと遊びたい」
という願いをかなえていく中で、言葉をどんどん取り戻していったのです。
もっと感動的だったのは、その日は正ちゃんの誕生日だったので、みんなで誕生パーティーをしたんです。
それまでは誕生日がくるたびに病気が進むから、お母さんはとてもお祝いなんかする気になれなかったそうなんです。
でもみんなで
「おめでとう!」
って言ったら、正ちゃんは嬉し涙をポロポロと流して、
「ありがとう」
って言ってくれたんですよ。本当にびっくりして、みんな胸がキュンとしました。
また、すべての子がそうなるわけではありませんが、あと数日しか持たないと言われた子が、持ち直すことだってあるんですよ。
雄貴君は、ウェルドニッヒホフマン病にかかって、自力で呼吸することができず、まばたきが唯一の表現手段でした。
彼の願いは、
「ウルトラマンと一緒に戦いたい」
というものでした。
そこで、岐阜から熊本にあるテーマパークまで行き、雄貴君のための特別台車でウルトラマンと怪獣が闘い、雄貴君も一緒に目で闘ったんです。
そして怪獣をやっつけたウルトラマンから、
「雄貴君、君のおかげで怪獣を倒すことができた」
と言ってもらったんです。雄貴君は生後1か月で人工呼吸器を付けることになったのですが、その呼吸器になかなか慣れずに苦しんでいる姿を見てお母さんは、このまま生きていくことがこの子にとって本当に幸せなことなのかって、すごく悩んでいたそうなんです。
だけどそのとき
「雄貴、生きててよかったね。 こんなに嬉しいことがあるんだもの」
って涙ながらにおっしゃったんですね。
その直後、雄貴君は一時生死の境をさまよいました。
そのときお父さんは思わず、
「雄貴、今度はお前が ウルトラマンからパワーをもらえ!」
と叫んだんです。
そうしたら何と、雄貴君は奇跡的に危篤状態を脱したんです。
あるお母さんから、
「いままで、子どもと自分たちだけが病気と闘っているような気でいましたが、たくさんの人が応援してくれていることに気づいて、すごく嬉しく思いました」
と、ボランティア冥利に尽きるような言葉を頂きました。そのときは、飛び上がるくらい嬉しかった。
そんな言葉を頂けるのも、1人ひとりを大切にしているからだと思うんです。私たちは、毎回たった1人のために、多くの方々から頂いた支援金を使わせていただいて、願いをかなえるお手伝いをしているのです。でも、そんなお金があるなら、もっとたくさんの子にいろんなことができる、と言われることもあるんですね。
確かに、何百人もホールに集めて
「みんな頑張れよ」
とやったほうが効率はいいでしょう。
でも、自分1人のために
「○○ちゃん、頑張れよ」
と言ってくれたら、重みがまったく違うんです。
だからこそ、奇跡を起こすほどの喜びも生まれるし、それに接した周りの人間がものすごいエネルギーをもらえるんです。
結局、与えられることのほうがずっと多いんです。願いがかなって喜ぶ子どもたちの笑顔や、ときには奇跡のような出来事に接することで、ものすごくエネルギーをもらえるんですよ。
ボランティアの人がこの仕事にのめり込んでいくのも、そこなんです。
ボランティア団体、
メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン事務局長、
大野寿子さんの記事